2017年6月28日水曜日

ドゥルーズの死の本能/死の欲動

以下、ドゥルーズ1967、1968、1970年の叙述を並べる。

◆1967年
『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

◆1968年
プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

◆1970年
祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響(共鳴)とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)

これらの三つの文を読むことで始めて「純粋差異」としての原抑圧の捉え方ーー21世紀のラカン派がようやく辿り着いた考え方に30年以上先行したドゥルーズの驚くべき洞察ーーが瞭然とする。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

2017年6月26日月曜日

日本語はもともと「中動態」の言語ではないだろうか?

國分功一郎の『中動態の世界――意志と責任の考古学』の松本卓也による書評によれば、中動態をめぐって次のように書かれている。

著者は、中動態に関する諸家の定義を概観し、言語学者エミール・バンヴェニストによる次の明快な定義に辿りつく――「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。すなわち、「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になる」のに対して、「能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」のである。(松本卓也『中動態の世界』がひらく臨床)

先ずわたくしは、この書を読んでいないことを断っておこう。ここで記すことは書評を読むかぎりでの感想である。

注目したいのは、バンヴェニストに依拠して「能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」という文である。これは、中動態においては、《主体は過程の内部にある》という考え方であることが示されていることになる。そして能動態の主体は外部にある、と。

わたくしの疑問は、このようなことが日本の読者に向けて書かれるとき、なぜ日本における「主体」のあり方ーーかつて、たとえば1970年代にはしきりに議論されたーーにまったく触れられていないのか、というものである。松本卓也による書評を読むかぎりでは、おそらく國分功一郎の『中動態の世界』自体にも、それに触れていないのではないか、と憶測される。あくまで憶測であるが。

たとえば数度にわたる日本旅行ののちにロラン・バルトは『記号の国』を書いた。

バルトは、インドゲルマン語は、ウラルアルタイ語に対して、次のような点があることを指摘している。

……主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』p.15~ 石川美子訳)

これはまさに能動態の主体のあり方である。すなわちバンヴェニスト曰くの「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」。

他方、バルトは日本語には次のような特徴があることを示している。

……日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(ロラン・バルト『記号の国』p15)

この日本的な主体のあり方と、「中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」というバンヴェニストによる中動態の定義はどう異なるのか。まずそれが問われねばならない。日本語は、もともと中動態の言語ではないか、と。その議論なしでは、バルトのいう《狼の口のなかに安住しながら狼を殺そう》ーーいや狼の口のなかに安住しながら狼を飼い馴らす仕草にしかならない。

いまわたくしは、日本語の風呂敷が中動態と相似的であるだろうという前提のもとに記している。そしてこの前提への反論をききたいのである。その反論、あるいは問いには、松本卓也氏の書評は答えていない。《中動態の場所を中動態的に生き延びることへの注目の高まり》などとあるが日本人はもともとそのような民族ではないのか? 仮に風呂敷的主体と中動態的主体が相似的であるという前提のもとに立てば、松本卓也=國分功一郎の考え方は、あまりに西欧的枠組内での議論であるように感じられれてしまう。

ところでバルトの文には「言葉の空虚な大封筒」という表現があった。原文は「パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole」。バルトは時枝誠記の「風呂敷」理論を読んだのかだれかに聞いたに相違ない。

時枝の「風呂敷」については、まず中井久夫の簡潔な文を掲げよう。

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)

そして時枝誠記の『国語学原論』から抜き出す。


主体的な総括機能或いは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めるならば、A is Bに於ける“is”であって所謂繋辞copulaである。copulaは即ち繋ぐことの表現である。印欧語に於いては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位して、これを統合する。従ってこれを象徴的に、A-Bの形によって表すのであって、copulaが繋辞と呼ばれる所以である。右のような総括方式における統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼んでいる。この様な形式に対して、国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。

花咲くか。

といった場合、主体の表現である疑問の「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包む且つ統一しているのである。この形式を仮に図をもって示すならば。

或は、



の如き形式を以て示すことが出来る。この統一形式は、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う(時枝誠記『国語学原論』)


問われなければならないのは、日本語のたとえば風呂敷と中動態との相違である。それを指摘して後はじめて中動態の顕揚がありうる(日本語の風呂敷以外の側面の特徴は、「二者関係先進国日本」にいくらかメモがあるので参照のこと)。

なにはともあれ西欧的枠組のなかでのみ能動態と中動態を対比してーー木村敏の「あいだ」をめぐる指摘はあるとはいえーー、中動態を顕揚するだけでは《中動態の世界によって新たな光があてられる臨床のフィールドは広大》(松本卓也)などと呑気なことは言い得ない筈である。

最後に、バルトの議論の源泉のひとつであるだろう、ニーチェにかかわる文、かつまたニーチェの文をひとつを掲げておく。

《……それぞれの国民は、自分の頭上に、正確に分割された概念の空を持っている。そして、真理の要請のもとに、以後、すべて概念の神は自分の天空以外の場所では求められないようになることを望んでいる》(ニーチェ)。すなわち、われわれは、皆、言語活動の真実の中に、つまり、それの地域性の中に捉えられており、近隣同士の恐るべき敵対に引き込まれているのだ。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
個々の哲学的概念は、けっして任意にそれ自身だけで生ずるものでなく、相互の関係関連のうちに成長するものである。また、それが一見いかに唐突に恣意に思考の歴史のなかにあらわれていようとも、じつは一つの体系に属しているのであって、さながらある大陸に棲むすべての生物が一つの系統に属するようなものである。――以上の事実は、この上なく異なった哲学者たちも、結局は、ある考えられうべき根本方式を、つねにくりかえししかも確実にみたしているということによっても察知されよう。彼らは目に見えぬ呪縛の圏内にあって、同じ軌道をつねにふたたびまわってゆく。かれらはその批判的ないしは体系的意志をもって、互に、独立しているように感じているではあろう。しかも、彼らの内のなにものかがつねに彼らを導いている。なにものかが、すなわち、彼の生得の概念の体系と類縁が、彼らを一定の順序にしたがってつぎつぎと駆り立ててゆく。

事実、彼らの思考は発見ではなくて、むしろ再認識、回想、それらの概念がかつてそれより生まれきたりしところの遠きいにしえの霊魂の共有財への復帰であり、帰郷である。このかぎりにおいて、哲学することは最高級の隔世遺伝の一種である。インド・ギリシャ・ドイツのすべての哲学的思考に通ずる驚くべき血縁の類似は、簡単に説明される。ここには言葉の類縁がある。されば、文法の共通の哲学によって--すなわち、同じ文法的機能による無意識の支配と指導によって--はじめから、哲学体系が同質の展開と順列をなすべき定めを持っていることは、避けがたいことである。同時に、世界解釈の他の可能性への道がとざされてあることも、避けがたいことである。ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

…………

※付記

わたくしはバンヴェニストについてまったく無知だが、ここでの文脈とは関係なしに、岩井克人によるとても印象的な記述を付記しておこう。

角川の『漢和中辞典』を開いてみると(……)「買」という言葉は、あるものと別のものとを取り替える「貿」という言葉を語源としており、はじめボウと発音されていたが後になってバイと発音されるようになったという。そして、もともとは売り買い両方の意味に用いられていたこの言葉は、後になって一方の買うの意味に用いられるようになり、他方の売るという意味には「買」という字にモノを差し出すという意味の「出」という文字を組み合わせてつくられた「賣」という文字が使われるようになったという。もちろん、現在の「売」という字はこの賣という字の略字体である。

買という言葉と売という言葉とは、中国ではもともと同じ言葉であったのである。

そこで、つぎに日本語ではどうなっているかと思って『大言海』を開いてみると、あった、あった、そのなかの「買ふ」の項には「交ふ(かふ)」の他動の意のものか」という説明がつけられている。さらに岩波の『古語辞典』で「かひ」という項目を調べてみると、この言葉には「交ひ、替ひ、買ひ」という漢字の表記が当たられており、その基本的な語義として「甲乙の二つの別のものが互いに入れちがう意」という説明があたえられている。

すなわち、日本語においても、「買う」という言葉はもともとは売り買いの両方の意味をもっており、あるものと別のものとをたんに交換することをあらわしていたにすぎない。それが売るという言葉と区別されて、お金を支払ってなにかモノを手に入れるという行為をあらわすようになったのは、時代がはるかに降ってからのことのようなのである。

(……)じつは、それは、なにも中国語や日本語に固有の事実ではない。実際、二十世紀最大の言語学者のひとりに数えられているエミール・バンヴェニストがその晩年に出版した『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』(1969年)という大部の本のなかに収められている経済語彙についてのエッセイの多くは、まさにこの事実の解明にあたられているといっても過言ではない。

(……)かれの考察の出発点は、大多数のインド=ヨーロッパ語において「与える」あるいは「贈与する」という意味の動詞の最小単位(語根)をなしているdō- という言葉が、遠い歴史以前の時代においては「与える」という意味だけではなく、それと正反対の「受け取る」という意味をも担っていたという事実の発見にあったのである。バンヴェニストはまさにこの言語的事実のなかに、あの有名な『贈与論』(1923-24年)のなかでマルセル・モースが描き出そうと試みた「古代的な交換形態」というもののひとつの強力な証拠を見いだすことになったのである。

マルセル・モースが、古代的な社会関係を贈与とその返礼によって構成される互酬的な交換の体系と見なしたことはよく知られている。ひとにモノを贈与することは、理論的には自由であっても実際的にはかならず相手側に返礼の義務を負わせることになり、一方からの贈与は他方からの返礼としての贈与とのそれこそ果てしのない繰り返しによって、共同体の内部における財貨の交換が可能になるというのである。この全体的な交換関係のなかでは、与えることは同時に受け取ることであり、受け取ることは同時に与えることである。忘れられてしまった遠い過去において、インド=ヨーロッパ語のdō- という言葉が与えることと受け取ることを同時に意味していたのは、まさにこの「古代的な交換形態」の言語的な反映であったというわけである。(岩井克人「売買と買売」初出1986年『二十一世紀の資本主義論』所収)

2017年6月22日木曜日

S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴

ラカンは、エクリ所収の『主体の転覆 Subversion du sujet』1960年にて、「S(Ⱥ) は、それに対して他のシニフィアンすべてが主体を代表するシニフィアンである。このシニフィアンがなければ、他の諸シニフィアンすべては何も代理しない」と要約できることを言っている。

Pour nous, nous partirons de ce que le sigle S (Ⱥ) articule, d'être d'abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n'y en a. pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pout un autre signifiant. Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour.(E.819)

同じく、S(Ⱥ) は、《大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autre》(E818)ともある。これらの二つの記述からは、象徴的ファルスのシニフィアンΦ、あるいはS1 と区別されがたい。

1971年にラカンは、S(Ⱥ) が Φ、すなわち「大他者のなかの欠如としての象徴的ファルス」と等価なものとする誤解に対応した。この誤解は、ラカンの数多くの弟子たちによって抱き続けられた。ゆえにラカンは、S(Ⱥ) によって理解していることを、より鮮明に定義することを余儀なくされる。S(Ⱥ) は Φ と等価ではない。S(Ⱥ) は完全に異なった何かにかかわる。というのは、S(Ⱥ) は次の考え方を表現するシニフィアンだから。すなわち《大他者の大他者はない il n'y a pas d 'Autre de l'Autre》。したがって《女というものは存在しない La femme n'existe pas》を意味する。(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? From Freud's Hysteria to Lacan's Feminine,1999)

ポール・バーハウのいうラカンの対応とはたとえば次の文である。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

1960年におけるS(Ⱥ) の定義《大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autre(E818)と、《大他者はない il n'y a pas d'Autre》あるいは《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》を徴示するシニフィアンS(Ⱥ) という定義とは、相矛盾する。

S(Ⱥ)と Φ との相違とは、例外なしの論理(非一貫性・非全体pas-tout)と例外の論理との相違にかかわる。これは女性の論理/男性の論理とも呼ばれる。

下の図の左側が男性の論理、右側が女性の論理である。



ジジェクは1995年に既に次のように指摘している。

S(Ⱥ) から Φ への移行は、不可能性から禁止への移行である。S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を徴示する。「大他者の大他者はない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアンである。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなかへと具象化するのである。(ジジェク、Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995

こうして1960年の『主体の転覆 Subversion du sujet』における、S(Ⱥ) の定義:《大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autre》(E818)は、後期ラカンの観点からは間違っているーーすくなくともひどく誤解を招く表現ーーということが判明する。

S(Ⱥ)とは、Ⱥを徴示するシニフィアンである。Ⱥの定義自体が前期ラカンから後期ラカンへの移行にともなって変化していることを示すミレールの文を掲げよう。これは性別化の公式の観点から云えば、当然このように解釈されなくてはならない。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」  LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

比較的最近のジジェクをも引用しておこう。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

欠如があるのは象徴界(ファルス秩序)だけである。現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10、28 Novembre l962)のである。

欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible(Lacan、1976 AE.573)

ラカンのこのコルク栓という用語は次のような形でもあらわれている。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

ブルース・フィンクは1995年に、S(Ⱥ)はS(a)と書ける場合があると指摘している。非全体pas-tout を徴示するシニフィアンは、S(Ⱥ)でもあり、またS(a)、すなわち対象aでもあるだろう。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

もっともわれわれは対象aの両義性につねに注意しなければならない。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

…………

いや厄介なのはこれだけではない。

l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (ラカン、S14, 10 Mai 1967 )

すなわちラカンは《大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! 》と言っている。

さらに次のような言明もある。

身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

S(Ⱥ)とは原抑圧のシニフィアンでもある。ここに仏語で、S(Ⱥ) est le signifiant de l'Urverdrängung!と強調しておく。

S(Ⱥ)、すなわち《斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré》。これは、《ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne》である。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)

結局、ラカンのS(Ⱥ)とは、フロイトの《欲動の心的(表象)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes》、つまり《欲動代理 Triebrepräsentanz》と等価である。すなわち原抑圧(原固着)のシニフィアンなのである。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours, L'être et l'un)

サントームとは原抑圧にかかわる、とラカンはセミネール23(09 Décembre 1975)で言明しており(もっともサントームにはすくなくとも三種類の定義がありそのひとつが原抑圧である)、S(Ⱥ)が原抑圧のシニフィアンであることは明らかである。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」  LE LIEU ET LE LIEN  pdf

ーーいまネットを探ったら、《Le Vorstellungrepräsentanz, c'est le signifiant de l'Urverdrängung》と言っている人はいる(Jean-Claude Razavet、2016)。表象代理
Vorstellungrepräsentanz=欲動代理 Triebrepräsentanzとは周知のことだろう。

最後にフロイト文を掲げておこう。

【表象代理 Vorstellungsrepräsentanz】
われわれは意識的表象と無意識的表象 Vorstellungenとがあるだろうといったが、無意識的な欲動興奮 Triebregungen、感情、感覚といったものもあるだろうか? あるいはこの場合には、このような複合語を形成するのは無意味なのであろうか?

私はじっさい、意識的と無意識的という対立は、欲動には適用されないと考える。欲動は、意識の対象とはなりえない。ただ欲動を代理している表象 Vorstellung, die ihn repräsentiert だけが、意識の対象となりうるのである。けれども欲動は、無意識的なもののなかでも、表象によって代理されるしかない。欲動が表象 Vorstellung に付着するか、あるいは一つの情動状態 Affektzustand としてあらわれるかしなければ、欲動についてはなにも知ることができないであろう。

われわれが無意識的な欲動興奮とか、抑圧された欲動興奮について語るとしても、それは無邪気で粗雑な表現ということになる。われわれはそのさい、その表象代理 Vorstellungsrepräsentanz が無意識的であるような欲動興奮を考えているに過ぎない。(フロイト『無意識』1915年)

《Wir können nichts anderes meinen als eine Triebregung, deren Vorstellungsrepräsentanz unbewußt ist, denn etwas anderes kommt nicht in Betracht.》


【欲動代理 Triebrepräsentanz】 
……われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。すなわち、その代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束 binden される。(……)

抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代理 verdrängten Repräsentanz の心的派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代理と連合的に結びついてしまうような関係にある思考の連鎖に関連している。

こういう関係からこの表象 Vorstellungen は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、抑圧すべきものに対して意識的なものが及ぼす反発だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと連結する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。

われわれは、抑圧の重要な働きをしめす精神神経症の研究に影響されて、その心理学的な内容を過大評価する傾向がある。そして抑圧は、欲動代理 Triebrepräsentanz が無意識の中に存続し、さらに組織化され、派生物を生み、結びつきを固くすることを妨げないのだという点を忘れやすい。実際、抑圧はひとつの心理的体系、つまりシステム意識への関連しか妨げない。

精神分析は、精神神経症における抑圧の働きを理解するのに重要な、別のものをわれわれにしめすことができる。たとえば欲動代理 Triebrepräsentanz が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展することなどである。

それはいわば暗闇の中にはびこり、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって身に覚えのないものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという見かけによって患者をおびやかすのである。

人をあざむくこの欲動の強さTriebstärkeは、空想の中で制止されずに発展した結果であり、たびかさねて満足が拒絶された結果である。この後者の結果が抑圧と結びついていることは、われわれが抑圧の本来の意味をどこに求めるべきかを暗示している。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

この二論文と同時期に書かれた『欲動および欲動の運命』には次のようにある。

《欲動 Trieb》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

欲動とは《境界概念 Grenzbegriff》である。これは初期フロイト概念《境界表象 Grenzvorstellung》とひどく近似している(当時のフロイトには原抑圧概念はない。以下の文にあらわれる「抑圧」とは「原抑圧」と捉えられるべきである)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)

…………

※付記

だれが身体に固着を刻印するのか。それは実は誰もが知っている。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

この母なる大他者による身体への刻印、原穴の名、それが S(Ⱥ)である。《症状(=サントーム)とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

フロイトは原抑圧と捉えうるものを「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」と呼んだ。それは上のフロイト自身の文とともに、次の Geneviève Morel の文がよく表している。

我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009)
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

…………

※追記

結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier という考え方に傾いていったのである。(ラカン、テレヴィジョン、1973年)

原抑圧とは、フロイトが次のように呼んだものと等価である。

・夢の臍 Nabel des Traums 
・菌糸体 mycelium、 
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle 
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe
・リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung
・欲動の根 Triebwurzel

ここでは、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ1937年の論文から「欲動の根 Triebwurzel 」のみを掲げよう。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

『夢判断』1900年に出現する「夢の臍」(=「菌糸体」= 「我々の存在の核」)については、晩年のラカンの言述を掲げる(フロイトにおいて1900年時点にはもちろん「原抑圧」概念はなかった)。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975

この原抑圧を、ラカンは決して取り消せない原症状=サントームと呼んだ。

四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

ラカンはセミネール22で、《原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt》 そして最初の抑圧だけではなく還元できないもの il y a un refoulement non seulement premier mais irréductible》(08 Avril 1975)とも言っている。外立、すなわちラカンの現実界である。

ここでフロイトが1915年の『抑圧』論文で、《われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある》と書いていることをもう一度思いだそう。この原抑圧にかかわる表現は、《欲動代理 Triebrepräsentanz》とも呼ばれているのも上に見た。

とはいえフロイトは多くを語っていない。それは治療不能の症状だからである。だから、人は安易にフロイトを読むだけなら、この概念を忘れてしまう傾向がある。

とはいえこの治療不能の症状を読みとる糸口はいくらでもある。

実際のところ、分析経験は、幼児期の《純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse》が、《欲動の固着Fixierungen der Libido》点を置き残す傾向がある、との想定を余儀なくさせる。

die analytische Erfahrung nötigt uns geradezu anzunehmen, daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen.(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

この文における《欲動の固着 Fixierungen der Libido》とは上に見たようにラカンのサントーム(原症状)のことである。それは幼児期の《純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse》にかかわる、とある。この表現は、ラカンが《症状(=サントーム)とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、AE569、1975)というときの《身体の出来事un événement de corps》と等価に相違ない。

とはいえ現在のポストフロイト時代においては、そもそも原抑圧にかかわる症状のフロイトの命名「現勢神経症 Aktualneurose」概念さえほとんど忘却されている。

精神神経症 Psychoneurose と現勢神経症 Aktualneurose は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

以下の文で、RICHARD BOOTHBYが《最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方》とは原抑圧、欲動代理、現勢神経症にかかわる。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

このRICHARD BOOTHBYの言っていることは、フロイトが初期に「翻訳の失敗Versagung der Übersetzung」と言っていたことにかかわる。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (Brief an Fliess). (フリース書簡、1896)

…………

最後に、フロイトの原抑圧をめぐる記述を四つ掲げておこう。

◆フロイト、1911年
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗・侵入・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 私訳)

◆1915年 
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……)

抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後の抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。(フロイト『抑圧』1915年、既存訳修正、以下同様)

◆1926年
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後の抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧 Urverdrängungと後期抑圧 Nachdrängen との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧 Urverdrängungen の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮の過剰な強さ übergroße Stärke der Erregung により刺激保護 Reizschutzesが破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926 年)

◆1937年
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。

新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後の抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。…幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

以上、私訳としたもの以外は、フロイトの引用はすべてフロイト著作集からだが、適宜変更してある(ラカン他はすべて私訳)。




2017年6月20日火曜日

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることを忘れてはならない

◆小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収より

【人生の根本は獣性】
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。

【狂的なものと合理的なもの】
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。

【大衆の無意識界】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。


【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

【大衆の目を、特定の敵に集中させること】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【教養の見せかけ】
ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

【悪魔と天使】
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。

…………

◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より

【無法の欲望】
「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。


【巨大な獣】
そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。


【巨獣には、どうしても勝てぬ】
ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。


【教育とプロパガンダの混同】
もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。


【巨獣の力のうちに自己を失っている人達】
ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。

「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」

ソクラテスは答える。

「いかにもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。(……)


【巨獣には一かけらの精神もない】
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。


2017年6月19日月曜日

小此木啓吾氏の驚くべき誤訳

以下、フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年(フロイト著作集第9巻)の致命的誤訳(小此木啓吾訳)をめぐって。

※原文は、→ Psychoanalytische Bemerkungen Uber einen autobiographisch beschriebenen Fall von Paranoia (Dementia Paranoides)を見よ。

ーー精力的にフロイト邦訳における誤訳を指摘されている研究者の「翻訳正誤表」をもあわせて参照のこと。彼はこの論文だけでなく、フロイト著作集第9巻(小此木啓吾訳)の他の論文の邦訳についても、いささか過度にも思われるほどの難詰をしている。たとえば《訳者は「イマーゴ」の複数形もご存知ないらしい。これだからフロイトは独語で読まねばならないのである。》(参照

さて、その誤訳のなかでも致命的と思われる箇所を『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』から、ここでは一箇所のみ掲げる。

【小此木啓吾訳】
第一の段階は、各「抑圧」過程の先駆現象であり、その成立条件をなしている固着の形成段階である。(小此木訳)
Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«.

【翻訳正誤表による修正】:《第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている、固着である。》

ーーこの箇所は小此木訳においても、大きな問題はない。

問題は引き続く箇所である。

【小此木啓吾訳】
第二の段階は、《いわば本来の抑圧(原抑圧)である。》(小此木訳)
Die zweite Phase der Verdrängung ist die eigentliche Verdrängung


【翻訳正誤表による修正】:《いわば本来の抑圧である。》

なぜ小此木氏は、原抑圧などと付け加えてしまったのか? これはまったく抑圧/原抑圧を理解していない証拠である。

フロイトが原抑圧概念をはじめて実際に提出したのは、1915年の『抑圧』論文である。

そこでの記述を見てみよう。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。(……)

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben;
抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 eigentliche  Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。
Die zweite Stufe der Verdrängung, die eigentliche Verdrängung, betrifft psychische Abkömmlinge der verdrängten Repräsentanz oder solche Gedankenzüge, die, anderswoher stammend, in assoziative Beziehung zu ihr geraten sind.(フロイト『抑圧』1915年)

《本来の抑圧 eigentliche  Verdrängung》とは原抑圧と異なった第二段階の抑圧とある。そして第一段階のほうには、《固着 Fixierung》という用語が出現している。

1911年の『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』と同様なことが書かれている。

すなわち《第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている、固着 Fixierung である》と記されている。こちらが原抑圧Urverdrängungである。

それにもかかわらず小此木氏は、第二段階のほうを《いわば本来の抑圧(原抑圧)である》と余分な「誤った」注釈を丸括弧つきでつけ加えてしまっている。

これは抑圧/原抑圧について何もわかっていない証拠である。

原抑圧とは、後期フロイトの最も重要な概念のひとつである(ラカンのサントーム sinthome と等価)。

最晩年のフロイトが「終りなき分析」と言ったのは、この原抑圧=欲動の根のせいである。治療不能の核、それが原抑圧=原固着である。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

誰にでも些細な誤訳はあるだろうが、この最も核心的概念「原抑圧」をまったく逆に捉えてしまっているというのは、驚くべき「誤訳」であると言わざるをえない。


2017年6月18日日曜日

ラプランシュ Laplanche の反ラカン的議論

精神分析家も、自分がそこでどのような役割を担っているかを覆い隠すヴェールを剥ぐこともせずに、「チチンプイ、ほら消えろ」ととなえるだけでは、手品師の地位に身を落とすのを認めることになるでしょう。

したがって、フロイトの疑問を自らの教義問答にして、シニフィアンの記入は無意識の存在によって二重化されるのか否かと自問するようでは、彼が換喩の原動力となるものに近づく望みはありません。(ラカン、ライオフォニー、1970年)


ーーおそらくラプランシュ批判とされる。

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo , 2007

My stress on the dependence of new (neologistic) signification on repression and the return of the repressed makes it necessary to specify how my claim differs from Laplanche's anti-Lacanian argument according to which unconscious metaphoric substitutions are always responsible for the connection existing in consciousness between the signifier and the signified. This view distorts the notion of double inscription by rendering it inextricable from repression stricto sensu. The fact that new signification necessarily emerges through metaphoric substitution (repression stricto sensu) does not entail that, at the conscious level, already existing signification cannot function autonomously of the unconscious—cannot, that is, function according to the laws of grammar alone.

Furthermore, for Laplanche, at the individual level of the child's pre-Oedipal psychogenesis, it is the always-already metaphorical structure of the unconscious that allows the acquisition of language; while for Lacan, language precedes the unconscious. More specifically , language can be said to precede the complete structuring of the unconscious inasmuch as primal repression—the metonymic uttering of the first cries, phonemes, or words—occurs in the individual without any metaphoric substitution.

Unlike Laplanche, Lacan thinks of elementary signifiers as mere oppositional couples— such as the Fort–Da described by Freud that attempts a primal symbolization of the trauma provoked by the mother's absence. Metaphoric substitution—and the parallel possibility of repression stricto sensu, together with a fully articulated language—will successively be effected only by the resolution of the Oedipus complex. Having said this, I also more generally argue, in agreement with Lacan, that language (and grammar) is historically produced only in concomitance with repression: all the words that we use in conscious language—and initially acquire as children independently of metaphoric substitutions—were once neologisms.


◆BEYOND GENDER. From subject to drive, Paul Verhaeghe,2001

In Freud, there is no final discussion about the nature of the drive's inscription in the system Ucs (Freud, 1915e). For him, it involves an idea of fixation in general and the body in particular. Hence we find expressions like fixation, constitution, drive root, and somatic compliance. These expressions appear in all his case studies, and they are always linked to a form of infantile pleasure.

From 1964 onwards, Lacan takes up this question and struggles with it. In the wake of the Bonneval conference and the discussion with Ricoeur, as well as with his own pupils Laplanche and Leclaire, he tries to come up with an answer. Laplanche and Leclaire put forward the hypothesis that the unconscious kernel contains a representational system: phonemes for Leclaire, imagoes (sensory images without signifiers) for Laplanche.

Lacan ultimately rejects both answers, and presents his own solution by developing his theory of object a and the letter. In his seminar XXII, R.S.I., he again picks up the idea of the letter as a representative of the drive in the system Ucs. (Lacan, 1975). This letter presents us with the particular way in which a drive is fixated [or a particular subject, but it cannot be signified in a definite way, the way of the phallic signifier of the One. As a letter it contains a knowledge, but this knowledge forms part of the not-whole part of the Other, thus making this Other ignorant about it. It is the Other of the body that remembers this knowledge and traces the same tracts each time (Freud's Bahnungen) within the economy of jouissance. But this economy of jouissance remains an enigma .

…………

※付記:ジジェクによるVorstellungs‐Repräsentanz表象代理の直近解釈。


◆Zizek, LESS THAN NOTHING, 2012

We can now see the precise sense of Lacan's thesis according to which what is “primordially repressed” is the binary signifier (that of Vorstellungs‐Repräsentanz): what the symbolic order precludes is the full harmonious presence of the couple of Master‐Signifiers, S1‐S2, as yin‐yang or any other two symmetrical “fundamental principles.” The fact that “there is no sexual relationship” means precisely that the secondary signifier (that of the Woman) is “primordially repressed,” and what we get in place of this repression, what fills the gap, are the multiple “returns of the repressed,” the series of “ordinary” signifiers.

…………

Recall again Lacan's precise reading of Freud's concept of Vorstellungs‐Repräsentanz: not simply (as Freud probably intended it) a mental representation or idea which is the psychic representative of the biological instinct, but (much more ingeniously) the representative (stand‐in, place‐holder) of a missing representation. Every name is in this sense a Vorstellungs‐Repräsentanz: the signifying representative of that dimension in the designated object which eludes representation, that which cannot be covered by our ideas‐representations of the positive properties of this object. There is “something in you more than yourself,” the elusive je ne sais quoi which makes you what you are, which accounts for your “specific flavor”—and the name, far from referring to the collection of your properties, ultimately refers to that elusive X. An act does have a cause: it is caused by the objet a, by the je ne sais quoi which pushes me to do it. The moment one asks, “What to do?” this cause is lost.

Does not the formula of love—“You are … you!”—rely on the split which is at the core of every tautology? You—this empirical person, full of defects—are you, the sublime object of love, for the tautology itself renders visible the radical split or gap. This tautology surprises the lover again and again: how can you be you?18 But we should take a step further here and recall that Lacan defines Vorstellungs‐Repräsentanz as the representative of the missing binary signifier, the feminine Master‐Signifier which would be the counterpart of the phallic Master‐Signifier, guaranteeing the complementarity of the two sexes, each at its own place—yin and yang, etc. Lacan's thesis is that the starting point is the self‐deferral of the One, its non‐coincidence with itself, and that the two sexes are two ways of dealing with this deadlock.


2017年6月8日木曜日

1959年4月8日以降のラカン

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013、pdf

肝腎なのは「エクリ」の多くの論文は、1959年4月8日以前に書かれていることをしっかり知っておくことである。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF


日本でも藤田博史氏はとても「教育的」なことを言っておられる(セミネール断章 2012年 11月10日講義より)。

ラカンについていうと、いまだに『エクリ』にこだわり続けている人たちが沢山います。「《盗まれた手紙》についてのセミネール」とか「論理的時間と予期される確実性の断言」といった論文にいまだにこだわっている人たちが少なからずいるということに驚いてしまう。勿論どちらも重要な論文であることには変わりありませんが、これが今現在における研究対象になり続けてもらっては困る。ラカンが辿り着こうとしていた場所から振り返れば、それらはいずれも遥か手前にあるものです。つまり通過点に過ぎません。ご存じのように、ラカンのエクリは1966年に出版された本ですから、世に現れてからすでに46年の歳月が流れています。これはラカン中期前半までの思想に相当します。当然のことですが、中期の後半から後期の思想は含まれていません。ラカンにおいて真に問題にしなければならないのはむしろエクリ以後の思想の流れです。にもかかわらず殆どの研究者がエクリという迷路のなかで立ち往生している。

そうではなく、わたしはラカンの中期の後半から始めようと思います。ラカンの年齢でいうと70歳から80歳までの10年間の思想です。したがって、そこにたどり着くまでにやっておくべきこと、その時点ではすでに自明になっていることが少なからずありますが、それは各自で勉強してください、と申し上げておきたいと思います。学問に過剰な優しさは禁物です。

出発点まで案内するのに手間がかかって、なかなか頂上目指して出発できないというのは、尖端でものを考えている人の足を引っ張ってしまいます。手取り足取りして出発点まで連れてきてあげる、というのは、学問においては親切でもなんでもなく、単なるお節介になってしまうことが殆どです。

分裂病の原因になる母親 Schizophrenogenic Mother という概念があります。子に過剰に関与して、自我の形成を阻害し、分裂病を発症させてしまうのです。過剰な親切は、ある意味暴力でもあるといってよいでしょう。ですから、わたしは一貫して「ここまでは皆さんが自力で歩いてきてください。わたしは、ここから話をします」という立場を取るのです。もし、麓から一緒に歩こうとしたら、恐らく五合目で疲れ果ててしまいます。

にもかかわらず、世間には「麓から一緒に登りましょう」という優しい先生が溢れています。あるいは、先回りして「五合目で待っているからあなたたちも五合目までは自力で来なさい」という先生もいるでしょう。そのようないい方をするならば、わたしの場合は「九合目で待っています」ということになります。ですから皆さんには、九合目まではとにかくご自分の力で歩いて来てもらいたいのです。そして「そこから頂上を目指す」ことに全力を注ぐのです。

ところが、こんなことをいうと怒られてしまうのですけれど、頂上から見渡すと殆どの学者さんが五合目で休んでいる。ずっと休んでいる。「いつまで休んでいるのですか?」と声を掛けたくなります。そこに二、三十年腰掛けたままの研究者もいるので「ちょっとちょっと」と思ってしまいます。



2017年6月5日月曜日

道化の鈴つき帽子のラカン爺

実をいうと、聖人は自分に功徳があるとは考えません。だからといって、彼が道徳を持っていないというわけではありません。他の人たちにとって唯一困るのは、そのことが聖人をどこに運んで行くのかわからないということです。

私といえば、また新たにこのような人たちが現れないかと懸命に考えています。おそらくそれは、私自身がそこに到達していないからに違いありません。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑います Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義的ディスクールからの脱却なのですが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならないでしょう。(ラカン、テレヴィジョン、1973、向井雅明訳)

◆Television": Lacan on the unconscious.



みなさんが道化役を演じることになるとしても、道化は存在価値のあるものと思ってください。わたしが出演したテレヴィジョンを観ればよいでしょう。わたしはピエロに映っていますよ。これを参考にしてください。但し真似はだめです。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム La Troisième』 31.10.1974、荻本芳信訳)

こういった映像を眺めると、ラカンってのは「ですます調」では訳さないほうがいいんじゃないかしら?





そもそもこの爺さんに耐えられるか否かは、〈あなた〉の資質による。

中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されていると言うでしょう。どうなんですかね。
木村 「言語のように」というか。
中井 「ように」なんですか。
木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すのかの問題ね。
中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。
木村 「言語として」と訳すか......。
中井 うーーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。
木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニアンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。
中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。
柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとか......。
木村 日本もそうですよ。
中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。
市川 日本人はあんなもの信じてないとおもうけど(笑)。
木村 いや、信じている人達が何人かいて......。
中井  ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。(『シンポジウム』<分裂病>をめぐって. 木村敏・中井久夫・市川浩・柄谷行人 1988)

やっぱり通常は耐えられないわ・・・

このことから結果として生ずるのは何か? 「ラカン」を読むときには、手袋をはめたらよいということである。かくもはなはだしい不潔さの近くではほとんどそうせざるをえない。(ニーチェ『反キリスト者』)

ーーおわかりのように一語のみ(元の語は「 新約聖書」)変更。

次は一語も変更していない。

われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子はど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ、悦ばしき知107 番)

次の文だって変更なし。

わたしは人間ではない。わたしはダイナマイトだ。――だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもないーー宗教とは賤民の関心事である。わたしは、宗教的人間と接触したあとでは手を洗わずにはいられない……わたしは「信者」などというものを欲しない。思うに、わたしは、わたし自身を信ずるにはあまりに意地わるなのだ。わたしはけっして大衆相手には語らない……わたしは、いつの日か人から聖者と呼ばれることがあるのではなかろうかと、ひどい恐怖をもっている。こう言えば、なぜわたしがこの書を先手をとって出版しておくのか、その真意を察してもらえるだろう。わたしは自分が不当なあつかいをされないよう、予防しておくのだ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだからーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)

「誠実な」日本人にはラカンは向かないのよ、
ラブレーの正当的嫡子だわ、あれは。

ラブレーが読まれるようになったのはやっと最近だ
ce soit de nos jours qu'enfin Rabelais soit lu(ラカン Lituraterre 1971)

すくなくともジジェク程度の器量がないとダメね、
かつまた木村敏あたりを笑い飛ばす力がないとね。
そもそも、あの「シンポジウム」の「誠実そうな」連中全員が
《嘘でかたまった》滑稽さをもってないかどうかを疑う資質も必要だわ

私はラカンにぞっこん惚れこんでいるのは、きみたちは気づいているかどうか知らないが、ラカンのスタイルがまさにレーニン風だからだな。なんのことかわかるかい? まったく寸分ちがわない何か。きみたちはレーニン主義者をどのように認知してるのだろう? 典型的なレーニン主義者のひねりは、たとえば、誰かが「自由」と言ったとすると、彼らの問いは、「誰のための自由だい? 何をするための自由かい?」のたぐいだ。たとえば、ブルジョアが労働者を食い物にする自由とかね。君たちは気づいているだろうか? 『精神分析の倫理』にて、ラカンが「善」に対して、まさにほとんどおなじひねりを加えているのを。そうだよ、至高善についてね。だれの善なのか、なにをするための善なのか?等々とね。だから、ここでも、ラカンが“〈女〉は存在しない”と言うとき、同じようにレーニスト風にしなくちゃな。そしてこう問うべきだね、「どの女だって?」、「誰にとって女は存在しないんだい?」と。ふたたびここでのポイントは、女がふつう思われているような仕方、象徴秩序の内部に存在しないとか、象徴界に統合されるのに抵抗するとかではないことだ。私は言いたくなるね、これはほとんど正反対なんだと。 (Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995年のレクチャーから私意訳)

アタシはどちらかというとラカンをマガオで受け取っているので(?)
たまには自戒のためにこうやって掲げておくわ・・・

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

(Foucault, Lacan, Levi-Strauss, Barthes)

ぼくはヴェルトが打ち明けてくれたことを思い出す、彼がノイローゼにかかっていた頃のことで、ファルスの診察室にわりと足繁く通っていた。「あんなところに通うとろくなことはないよ」…彼はまさにそのために動顛させられた…「彼に自分の今までの出来事を話しているうちに」、ヴェルトはつけ加えて言った、「突然わかったんだ、気のふれた奴とおしゃべりするなんて、ぼくはとんでもない阿呆だって」…明快な話さ… (同上『女たち』)

もっともこうはつけ加えておきましょう。

精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。

しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけに一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。

これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるように要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ、教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分にあたえられるものであり、剰余である。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971,Tel Quel)


2017年5月31日水曜日

焦らないようにしたらよろしい

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。

Méfiez -vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l'aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche(同上) 
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.(Lacan, S.14、16 Novembre 1966)
常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
ヘーゲルに欠けているものは対象a、二つの欠如が重なることよって生れる対象である。さらに対象aを考え得ないために、ヘーゲルは純粋反復を捉え得ない。すなわち、「一者」に纏い憑いている対象a の無によって支えられる純粋差異である。この一者は、その影を取り戻そうと試みてそれ自身を反復するのだが。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)
私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の本能 l'instinct de mort と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズムmasochisme primordial de la jouissance …。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(J. Lacan, Le séminaire, Livre XIII, L’objet de la psychanalyse, inédit)

2017年5月21日日曜日

新自由主義社会における自閉症という疑似風土病

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタル・ディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。その要因とは、諸個人が常には逃れえないものである社会的・経済的要因であり、犯罪・暴力・居住環境の貧困・借金などだが、人はそこに、仲間‐競争者を凌ぐように促す新自由主義的圧力を付け加えうる。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)




(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)




2017年5月20日土曜日

丸山圭三郎の記憶に

丸山圭三郎派の幼稚なカオス概念……つまり言語的に分節化されない一様な混沌がカオスだと言うなら、もちろんそのようなカオスはドゥルーズにはない。むしろ、カオス―――少なくとも内在平面においてとられられたカオスは、それ自体、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいている。そのようなものをカオスと呼ぶなら、それは潜在的多様体として存在する。 (浅田彰発言『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」)
たとえば「シニフィアンとシニフィエの絆は、ひとが混沌たる塊に働きかけて切り取ることの出来るかくかくの聴覚映像とかくかくの観念の切片の結合から生じた特定の価値のおかげで、結ばれる」とソシュールが書くとき、その「混沌たる塊」こそ、現前化しつつある差異の立ち騒ぐ領域なのである。ソシュール自身のよってときにカオスとも呼ばれ、丸山圭三郎がイェルムスレウの術語の英語訳としてのパポートを採用しているものにも相当するこの「混沌たる塊」は、しかし、『ソシュールの思想』の著者が考えているように、分節しがたいものの不定形なマグマ状の連続体といったものではない。たしかにソシュール自身もそうした誤解を招きかねない「星雲」といった比喩を使ってはいるが、あらゆるものがもつれあっているが故にそれがカオスと呼ばれるのではなく、そこにあるすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあっているが故にカオスなのである。

なるほど、一見したところそこには秩序はないが、しかし、秩序はそこからしか生じえないはずのものであり、これを「コスモス=分節化されたもの」と「カオス=分節化以前のもの」の対立としてとらえるかぎり、作家としてのソシュールが視界に浮上する瞬間は訪れないだろう。「作家」とは、みずからを差異として組織することで「作品」という差異を生産するものだからである。もちろんこの差異はコスモスには属していない。(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて――ソシュールの記号概念をめぐって  丸山圭三郎の記憶に』1993年)
マルクスがいう「社会的関係の隠蔽」は、一般に、物象化として、すなわち本来関係的なものが実体化されることとして理解されている。そんなことなら、マルクスでなくても他の人でもいえるだろう。さらに、たとえば、言語にかんして、それが、本来差異的な関係体系(分節化)なのに、物象化されて、世界が“実体的に”そうであるかのようにいられるというたぐいの批判も、それと同じことである(丸山圭三郎)。

ここから一つの“根源的な”批判と治療法が提起されてしまう。だが、それらの理論こそ“社会性”の隠蔽である。われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年)



2017年5月18日木曜日

日本ラカン派による初歩的誤謬

◆2016年03月15日(火)@ogswrs小笠原晋也

Lacan の教えにおいて欲望という用語が pulsion[本能]という用語より如何に重要視されているかは,Écrits の目次を眺めるだけで見てとれます.目次を眺めるだけでなく,ex-sistence という語を鍵用語として幾つか引用を挙げてみましょう.

◆2016年3月17日@ogswrs小笠原晋也

「フロィトの Trieb と精神分析家の欲望とについて」のなかにこの命題があります : le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose[欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある].

この la Chose という語を,Lacan は後に l'achose とも表記します : a-chose. そこには,剰余悦 [ le plus-de-jouir ] としての客体 a が読み取れます.すなわち,「悦は物の側にある」は,客体 a における剰余悦のことです.

剰余悦は仮象にすぎません.より本有的なのは,欲望としての他 Ⱥ です.他 Ⱥ の欲望も,究極的には,ex-sistence としての存在欠如へ還元されます.


ーー上のような解釈をしているラカン派を私は知らない。ラカンの教えにおいて《欲望のデフレune déflation du désir》(ミレール、2011)が起こったのは周知の事実の筈。

以下、名高いラカン注釈者二人の見解を並べる。

◆コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

コレット・ソレールColette Soler)「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求besoinとの 相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場しての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者 として欲望するje désire en tant qu'Autre。というのは、わたしたちは言語に組み入れられているから。そぁそ、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものseule chose qui intéresse le psychanalysteについて話すなら、 「欲望は大他者の欲望ではないle désir n'est pas désir de l'Autre」。
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。


◆ジャック=アラン・ミレール、ラカンのテキストについての注釈1994より(「ミ レールのセミネール」 (Word 56KB)

ーー「フロイトの欲動精神分析家の欲望について」についての読解

このミレールの1994年注釈の基本は、2011年、L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller でもより鮮明な形で強調されている。

《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853)ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――大他者であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネール VII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である《モノ das Ding》を経由して、この論文で取り上げられています。

このテクストは「ファルスの意味作用」に逆らっています。なぜなら、「ファルスの意味作用」は欲動と欲望の混同に基づいているからです。ラカンは冒頭から、フロイトの著作では欲動はいかなる種類の性的本能とも区別されると宣言しています《 La libido n’est pas l’instinct sexuel. Sa réduction, à la limite, au dé­sir mâle, indiquée par Freud, suffirait à nous en avertir》( E851)。
…………
欲望は快原理にとらわれたままなのです――これは私が指摘した快楽と享楽の対立にすでに示されています。欲望はとらわれたままであり、その彼岸には享楽の価値 la valeur de la jouissance があります。《欲望の難所は本質的に不可能性である le freudisme coupe un désir dont le principe se trouve essentiellement dans des impossibilités》(E852)とラカンが言うときに強調しているのはこのことです。
…………
欲望は法に従属している 《 Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi》(E852)――これはこの短いテクストで公式化される重大な要点です。これが、欲望は大他者からやってくるということの意味です。

しかし、欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。

…………

冒頭に引用した小笠原信也氏のツイートは「存在欠如」を強調している。

剰余悦は仮象にすぎません.より本有的なのは,欲望としての他 Ⱥ です.他 Ⱥ の欲望も,究極的には,ex-sistence としての存在欠如へ還元されます.(小笠原信也)

この「存在欠如」の強調についてもミレール、ソレール二者の見解を付記しておこう。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在 être である。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

2017年5月4日木曜日

数学者という「修辞学者・プラトニスト・フェティシスト」

表題を「数学者という「修辞学者・プラトニスト・フェティシスト」」としたが、それは、かつては以下に列挙するようなことが言われたことに由来する。もちろん、数学者が修辞学者等で悪いわけではない。一定のパラダイムのなかで大きな成果をあげてきたのだから。一定のパラダイムとは、おそらくガリレオ以降のパラダイムとすることができる。

科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。…あらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものや impetus(弾み、推進力、起動力)の知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。(ラカン、メルロポンティ追悼 Merleau-Ponty: In Memoriam)

ーージャン=クロード・ミルネールは、ラカンを「拡張されたガリレオ主義」(le galiléisme étendu)者と呼んでいる(PDF)。

この意味では、柄谷行人も「拡張されたガリレオ主義者」であろう。

「コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)

同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)
コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(トラクリ p61)

以下の引用群は、数学者と物理学者が混在するが、表題をより一般化して「科学者という「修辞学者・プラトニスト・フェティシスト」」とすることができるだろう。

なお当記事の書き手は、まったくの科学音痴である。ここにこう記すのは、現在自らを「修辞学者・プラトニスト・フェティシスト」と見なしていないだろう「有能な科学者」たちにこれらの記述を罵倒していただきたいためである。


【修辞学者】
J・ブローフスキー博士は、われわれの大部分があらゆる学問の中で最も事実に基づく科学だとみている数学は、頭に浮かべうる最も突飛なメタファー (隠喩)からなると指摘し、美的にも知的にも、そのメタファーの成功の程度によって判断されねばならないものだと唱えた。(ノーバート・ウィーナー『人間機械論』第二版)
ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](ラカン、S16、20 Novembre 1968)

ーー数学者の言説が数学者を決定づける。その逆ではない。


 【プラトニスト】
言語について考えるとき、われわれは通常対象(物)に関係づけてしまう。ところが、言語の一方の極限である数学を例にとると、そうはいかない。数学的対象が実在していて、数学者はそれを探求し‟発見”するのだと考えるプラトニズム(ほとんど実際の数学者はそう信じている)を受けいれないとすれば、数学は、いわば規則を‟発明”する実践的な過程にほかならなくなる。(柄谷行人『探求Ⅰ』)

…………

【フェティシスト】
近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
分節化ーー見せかけ semblant の代数的 algébrique 分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)

《科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく le discours scientifique progresse sans plus même se préoccuper s'il est ou non semblant》とあったが、この「見せかけ semblant」とは「フェティシュ」のことでもある。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリステヴァ 1980, J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection)

…………

以下、柄谷行人の「悪評高い」ヒルベルトーゲーテルの記述を掲げておこう。

ヒルベルトの「形式主義」の新しさは、一言でいえば、数学は「正しく」さえあれば「真」でなくてもよいという立場をとったところにある。「正しさ」とは、無矛盾的〔コンシステンシー〕である。彼が主張するのは、形式体系がコンシステントであることが証明できれば、それが真であろうとなかろうと数学として認め、それ以上の根拠づけをやめようということである。それは、数学に真理性を、すなわち数学が実在・事実にもとづくことを要求する「直観主義」に対立するものである。「直観主義」は、数学は数学的直観という人間的事実によってつくられるものであって、それは論理に依存するものではなく、逆に論理の方が数学によって保証されるのだという。また、彼らは排中律――たとえばある命題は真であるか、真ではないかのいずれかであるーーを否定する。

以上は現代数学の常識にすぎないが、門外漢を驚かすのは、これらの議論があまりに“文学的”だということだ。いずれにせよ、われわれが関心をもつのは、ヒルベルトの「形式主義」である。二十世紀において最も劇的な事件の一つは、ヒルベルトの形式主義が完成したと思われたまさにその時点で、それに対する致命的な批判がある青年によって届けられたことだといってよいかもしれない。それがゲーデルの「不完全性の定理」(1931年)である。

結論を先にいうと、ゲーデルの定理は、どんな形式的体系も、それが無矛盾的〔コンシツテント〕であるかぎり、不完全である、ということだ。彼の証明は、形式体系に、その体系の公理と合わない、したがってそれについて正しいか誤まりかをいえない(決定不可能な)規定が見出されてれしまうということを示す。不完全性の定理は、また、いいかえれば、ある形式体系がコンシステントであるとしても、その証明はその体系のなかでは得られないこと、それ以上の強い理論を必要とすることを意味している。こうして、純粋数学の完全な演繹体系は一般的に存在しないことが証明されてしまったのである。この結果、非常に単純化していえば、非ユークリッド幾何学がユークリッドの公理とはべつの公理を選択することによって成立するように、公理の選択次第でどんな数学も可能であり、そのことを原理的に否定することはできないということになる。(柄谷行人『隠喩としての建築』pp.45-46)

排中律という用語が出てきた。

二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)

…………

以下は補遺(ほぼ、理性の限界をめぐる)。

カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。

「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。

この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。

同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。

カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う〈理性の光〉という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は〈夜〉、〈世界の夜〉なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006)

《人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。》(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

ラカンの否定の否定は、「性別化の式」の女性の側に位置し、非全体 pas-out の概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、このnon‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体は言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、「一」ではない more than nothing but not something, not Oneということだ。別の例を挙げよう。去勢されていない主体はない(性別化の式の女性側では)。しかし、これはすべての主体が去勢されていることを意味しない(非去勢の残余は、もちろん対象aである)。この二重否定において、われわれが触れている現実界とは、カントの無限判断に関連しうる。述語否定の肯定affirmation of a non‐predicateである。「彼は不死である」は、彼が生きていることを単純には意味しない。そうではなく、彼は死んでいないものとして、生きている死として、生きているのである。「彼は不死である」とは、non‐not‐dead(死の二重否定)なのである。同様に、フロイトの無意識とは、不死のようなものである。それは単純に意識しない not‐conscious ことではなく、non‐not‐conscious(意識の二重否定)なのである。そしてこの二重否定において、それはただ存続しないことの否定 no not only persists ではなく、強められさえするのだ even redoubled。不死は、死に非ずnot‐dead 生に非ず not‐aliveの状態として生き続ける。同様に、対象aとは、non‐not‐object(対象の二重否定)ではないだろうか。そしてこの意味で、空虚を具現化する対象ではないだろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 ex‐timate」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動 l'instinct de mortと呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム le masochisme primordial de la jouissance…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。》Jacques Lacan, S13, June 8, 1966, L'objet de la psychanalyse (unpublished)

ーージジェク、LESS THAN NOTHING, 2012, 私訳

…………

※付記:二人の科学者・数学者による柄谷行人批評

◆野家啓一
柄谷は「形式化」の極限において体系がパラドックスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を不完全性定理にちなんで「ゲーデル問題」と名づけてい る。かつて『隠喩としての建築』を読んだ時、私はその着眼の卓抜さと鮮かなレトリックには感嘆したものの、「専門学者」としての見地から、彼のゲーデル理解とその敷衍の仕方には一種の「あやうさ」を感じざるをえなかった。というより、その「あやうさ」が後にエピゴーネンたちによって増幅され、「ゲーデル問題」が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし始めたことに危惧の念を覚えたのである。柄谷の問題提起の切実さに比して、一般に流布した「不完全性定理」の解釈はいかにも厳密さを欠き、寸足らずの安手の衣服をまとわされているように見えた。しかし、柄谷が抱え込まざるをえなかった困 難、あるいは彼がそのような〈問題〉に逢着した必然性は、私なりによく理解できたつもりである。(野家啓一「柄谷行人の批評と哲学」(『国文学』1989年1月号))

◆森毅
この本(柄谷行人『探求Ⅰ』)は、題名から知れるように、ウィットゲンシュタインから始まる。その上に、もうつきあうことに辟易している、マルクスまでが登場する。

それだのに、この本を読むことが、なぜか快感なのだ。おそらく、この一年ほどに読んだ本のうち、もっとも引きこまれた本のひとつだろう。

ウィットゲンシュタインの言語学批判と、マルクスの経済学批判とに、同型な構造を見る、その場所のゆえかもしれない。しかし、それだけではあるまい。

すごく明晰な論理はこびなのに、半分も読んで行くと、どこへ持って行かれるのか、いくらか不安になる。キルケゴールとか、レヴィナスとか、ぼくのもっとも苦手とする思想家どもが、現われはじめることになる。それに、数学論とドストエフスキー論とが入り乱れると、数学少年と文学少年のはさみうちに合うときのことを連想する。(森毅 『一刀斎の古本市』)
「柄谷のおもしろいところは、何をやっても愛嬌があって、ちょっととんちんかんなようで、なにかしらこちらがう-んと考えさせられるというところです。彼はムチャクチャ言っても済んじゃうわけです。 『あの頃、ちょっとぼく、頭がおかしくなっててね』とか言うと、みんな喜んじゃうんです。そういうイメージがあるから、かなりきついことを言っても愛嬌があるんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)



2017年5月3日水曜日

「言い直し」をめぐって

私は患者の夢分析にさいして、つぎのようなことをやってみるのがつねなのであるが、これは必ず成功している。すなわちある夢の報告がどうもわかりにくいような場合には、私は相手にその夢の報告をもう一度繰り返させる。すると二度目の報告が最初の報告と同じ文句で行われることはまずないといってもいい。二度目の報告にさいして文句の変更された箇所こそは、夢の偽装の成功しなかった箇所なのである。つまりそういう箇所は私にとっては、ニーベルゲン伝説中のハーゲンにとって、ジークフリートの着物の背中に縫いつけられた目印のような意味を持っているのである。そういう箇所から夢判断を開始すればいいのである。

相手は、私の(もう一度話してみてくれという)要求によって、私がその夢解きに特別の努力をしようとしているのだと気づいて、抵抗衝動の下に、夢偽装の手薄な箇所を、私から怪しまれるような粗漏な言い回しではなしに、もっとさりげない巧妙な言い回しに変えることによって急いで補強しようとする。その結果かえって私をして、彼らが削りとったその言い回しに注意させるようなことになってしまうのである。ゆめの解釈を阻止しようとするその努力から、その夢の本質を包み隠す着物を織りあげたさいの慎重さも推知されるのである。(フロイト「夢判断」第7章より)

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『ブリュメール一八日』にもどって考えるならば、われわれは特に精神分析を必要としない。なぜなら、ここでマルクスは、ほとんどフロイトの『夢判断』を先取りしているからである。彼は短期間に起こった「夢」のような事態を分析している。その場合、彼が強調するのは、「夢の思想」すなわち実際の階級的利害関係ではなく、「夢の仕事」すなわち、それらの階級的無意識がいかにして圧縮・転移されていくかである。フロイトはつぎのようにいっている。

《夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現しているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者のようなものです。われわれが精神分析の技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです。》(『精神分析入門続』高橋義孝訳)

フロイトは「夢の仕事」を普通選挙による議会になぞらえている。そうであれば、われわれは、マルクスの分析に精神分析を導入したり適用したりするよりは、『ブリュメール一八日』から精神分析を読むべきなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

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労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、形態 Form そのものから来る。(マルクス『資本論』)

夢というのは、われわれの思考の一特殊形式 Form 以外のものではない。(フロイト『夢判断』)

フロイトは『夢判断』第六章「夢の思考」(VI DIE TRAUMARBEIT)の最後に(1925年版)、次の註を付け加えている。

私は昔、読者に夢の顕在内容と潜在内容との区別を納得してもらうのに大骨を折った覚えがある。記憶に残った未判断の夢(顕在内容)を基にした議論と抗議とはその跡を絶たず、夢判断の必要を唱えてもひとは耳をかそうとしなかった。

ところがすくなくとも精神分析学徒だけは顕在夢を分析して、その本当の意味をその背後に見つけることに慣れてはきたのだが、そうなると彼らのうちの若干の者は今度は別の混同を犯して、前と同じようにそれを頑固に執着しているのである。つまり彼らは夢の本質をもっぱらこの潜在的内容に求めて、そのさい、潜在夢思想と夢作業とのあいだに存する相違を見のがしてしまうのである。

夢というのは結局、睡眠状態の諸条件によって可能になるところの、われわれの思考の一特殊形式以外のものではない。この形式を作り出すのがほかならぬ夢作業である。そして、夢作業のみが夢における本質的なものであり、夢という特殊なものを解き明かしてくれるものなのである。
[Der Traum ist im Grunde nichts anderes als eine besondere Form unseres Denkens, die durch die Bedingungen des Schlafzustandes ermöglicht wird. Die Traumarbeit ist es, die diese Form herstellt, und sie allein ist das Wesentliche am Traum, die Erklärung seiner Besonderheit.]

私はこのことを、夢のかの悪評高き「予見的傾向」の評価のためにいっておく。

夢が、われわれの心的生活に与えられている諸課題の解決の試みに従事するということは、われわれの意識的な覚醒時生活がそれに従事することに比して決してひどく珍しいことえはないのであって、ただそこに、すでにわれわれに知られているように、夢の仕事は前意識のうちにおいても行われうるということを付け加えるにすぎないのである。(フロイト『夢判断』文庫 下 高橋義孝訳pp.255-256)

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この患者は、分析に必要な夢を、はじめのうちはどうしても私に向かって話そうとしなかった。理由は「その夢はとても曖昧で混乱しているから」というのであった。押し問答の末やっとこういことが判明した。つまりその夢の中にはたくさんの人物が入れかわりたちかわり現れてくる。彼女自身、彼女の夫、彼女の父親など。そして彼女には、夫が父なのかどうか、そのどれが一体全体父なのか、あるいは夫なのか、わからなくなっていたのである。この夢と、分析診療における彼女の思いつきをとを並置してみると、この夢の問題は、女中はみごもったが、「誰がいったい(お腹の子)の父親なのか」本人にも疑わしかったのである。だからしてこの夢が示した不明瞭性はこの場合もまた夢を惹き起こした材料の一部分なのであった。この内容の一部分が夢の形式で表現されたのである。

夢の形式ないし夢を見る形式は、じつに驚くほどしばしば、隠蔽された内容の表現のために利用される。[Die Form des Traumes oder des Träumern wird in ganz überraschender Häufigkeit zur Darstellung des verdeckten Inhaltes verwendet.](フロイト『夢判断』 下巻 高橋義孝訳 文庫 p.34)

…………

マルクスとフロイトの両者においては、ーーより正確にいえば、商品の分析と夢の分析とのあいだには、根本的相同性がある。どちらの場合も、核心は、形式の裏側に隠蔽されていると信じ込まれている「内容」へのフェティッシュな眩惑を避けることである。すなわち、分析を通してヴェールを剥がされる「秘密」は、形式(商品の形式、夢の形式)によって隠された内容ではない。そうではなく、この形式自体の秘密である。

夢の形式の理論的知恵は、顕在内容から「隠された核」・潜在夢思考へ入り込むことで成り立っているわけではない。そうではなく、次の問いへの応答で成り立っている。

すなわち、なぜ潜在夢思考はあのような形式を取ったのか、なぜ一つの夢の形式に変形されたのか。商品も同じである。真の問題は、商品の「隠された核」・生産過程のなかで使われた労働量による商品価値の確定に入り込むことではない。そうではなく、なぜ労働は商品の価値形式を取ったのか、なぜ生産物の商品形態のなかにのみ社会的性質を主張しうるのか、である。

フロイトは絶えず強調している。潜在夢思考のなかには「無意識」的なものは何もない、と。潜在夢思考は、日常の共通言語の統語法のなかで分節化されうる全く「正常な」思想である。トポロジー的には、意識/前意識のシステムに属する。主体は通常それを知っている。過度に知っているとさえ言える。潜在思考はいつも彼をしつこく悩ます…
構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳)





失語体験

《読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ》(蓮實重彦『随筆』)

《実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。》(蓮實重彦『随想』)
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何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥り がちなのです。

だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態たといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な 意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、む なしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にす ぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦の『齟齬の誘惑』序文)

…………

だが、知っているとはどういうことなのか。ほとんどの場合、知っているとは、みずから説話論的な磁場に身を置き、そこで一つの物語を語ってみせる能力の同義語だと思われている。フローベールとは、十九世紀フランスの小説家で、『感情教育』などの客観的な長篇小説を書いた、というのがそうした物語である。青年時代に神経症の発作に見舞われていらい、世間との交渉を絶ち、ノルマンディーの田舎に閉じこもって、文章の彫琢に没頭した、というのも物語である。また、その他いろいろあるだろう。そんな物語の一つをつぶやくことができるとき、人は、そこで主題になっているものを知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また物語は知によって保証されもするわけだ。なにひとつ物語を語りええないものを前にして、人はそれを知らないという。だから、フローベールが未刊のままの草稿として残した倒錯的な辞典の題名をかかげてみても、知と物語との相互保証を導きだすことにしかならないだろう。ところで、フローベルが十九世紀の半ばに構想を得た辞典は、まさに、こうした知と物語との補完的な関係を断ち切ることにあったのだ。

実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。その物語の中で、最も多くの人に知られているものこそ、フローベールが執筆を企てた辞典の項目たる資格を持つものである。誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。

結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなるだろう。たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。

ところで、この物語の無限反復の中に辞典の題名を導入するとどうなるか。それはギュスターヴ・フローベールの未完の草稿だと口にするだけで、この辞典が説話論的な磁場の中へ姿を消してしまうのは明らかだろう。あとはすべてが円滑に進行する。その倒錯的な辞典の倒錯性そのものに出会うことなく、誰もが物語を納得してしまうのだ。だが、フローベールとしては、みずからを無謀な編纂者に仕立てあげることで、この寛大な納得を、物語の模倣を介して宙に吊ることを目ざしていたわけだ。というよりむしろ、説話論的な磁場の保護から出て、誰もがごく自然に口にする物語を、その説話論的な構造にそって崩壊させるというのが、彼の倒錯的な戦略であったはずだ。物語に反対の物語を対置させることではなく、物語そのものにもっとも近づいて、自分自身を物語になぞらえさえしながら、物語的な欲望を意気阻喪させること。つまり、失望の生産とは、知と物語との補完的な関係をくつがえし、知るとは、そのつど物語を失うことにほかならなぬのだと、実践によって体得すること。事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたりもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充塡して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』)


2017年4月30日日曜日

最も基本的なところから始めよう



ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

(ジジェク2012版、性別化の式と四つの言説統合)

 …………

ジジェクが2012年にようやく提示した前期ウィトゲンシュタイン/後期ウィトゲンシュタインを、柄谷行人は1986年に既に提示している。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』第四章「世界の境界」PP.69-70, 1986年)
現代数学は、集合論と記号論理学によって、全数学領域を統一的に基礎づけることができるというたてまえに立っている。実際には、集合論のパラドックスからはじまり、ゲーデルの証明によってとどめをさされたように、それは不可能なのだ。むろん、このような“基礎論”は、実践的な数学者=発明家にとっては無関係である。ある数学者はいっている。《われわれは、ウィークデーはプラトニストであり、日曜日に形式主義者となる》(デイヴィス、ハーシュ共著「数学的経験」)。

ウィトゲンシュタインは、そのようなあいまいさを批判したりはしないだろう。新手を生みだす模士が、碁盤のなかに“真理”が隠れていると信じていたとしても構わないように。ウィトゲンシュタインが批判するのは、現にある数学のさまざまな証明体系の“背後”に基礎的なものがあるという考えである。これは、日常言語の“背後”に、より基礎的な言語があるという考えと同じなのだが。

数学をさまざまなゲーム(規則体系)とみなしたとき、それらに通底するものはないのだろうか? この問いは、言語をさまざまな言語ゲームとしてみるとき、「言語ゲームにとって本質的なものは何か、したがって言語の本質は何か」という問いにいいかえられる。それに対して、ウィトゲンシュタインは、次のようにいっている。

《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)

この類似性は、「家族的類似性」とよばれている。それは、「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」である。

わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけるとこができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じような重なり合い、交差し合っているからである。----だから、わたくしは、「ゲーム」が一つの家族を形成している、と言おう。

同様にして、たとえば数の種類も一家族を形成している。なぜわれわれはあるものを「数」と呼ぶのか。おそらくそれが、これまで数と呼ばれてきた多くのものと一つのーー直接的なーー連関をもっているからである。そして、そのことによって、それはわれわれもまたそのように呼ぶ他のものとの間接的な連関をもつようになる、と言うことができる。そして、われわれは、ちょうど一本の糸をつむぐのに繊維と繊維をよりあわせていくように、数というわれわれの概念を拡張していくのである。しかも、糸の強さは、ある一本の繊維が糸全体の長さをつらぬいているという点にあるのではなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているという点にあるのである。(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」)

この「家族的類似性」は、右の例では、数学が多数体系的であること、したがって、たとえば「数とは何か」を本質的に定義することはでいないということを意味している。むろん、このことは、言語ゲーム一般についてもいえる(数学も言語ゲームの一部である)。言語ゲームは、むしろ「言語とは何か」という本質的な問いをしりぞけるものなのである。なぜなら、その問いは、言語ゲームの多様性を切りすててしまおうとするからだ。

すでに第四章で示唆したように、「家族的類似」の問題は、社会的な過程(共同体と共同体の間の交換)のなかで、けっして、共通の本質、あるいは、通約不可能性が見出されないこととつながっている。マルクスは、商品の相対的価値表現の連鎖体系を「拡大された価値形態」とよんでいる。そこには、家族的類似と同様に、ついに中心あるいは本質が見当たらない。マルクスは、その「欠陥」について次のようにいう。

《第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が他のそれを、それからそれへとつないでいく連鎖は、ひきつづいてつねに新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たな商品種にひきのばされる。》(「資本論」)

したがって、マルクスは、一般的価値形態または貨幣形態、すなわち中心としての一商品が等価形態の位置を排他的に独占する形態の不可避性を説く。だが、この「欠陥」は、実はそんことによって解消されはしない。なぜなら、それこそが「社会的過程」だからである。逆に、貨幣形態は、すべての商品に共通の本質があるかのような仮象を与え、また無制限に連鎖して交叉するものを閉じられた一体系のように考えさせる。

ウィトゲンシュタインが家族的類似を強調するのは、事物の本質あるいは原理を問う哲学が、貨幣形態と同様に、われわれのコミュニケーション(交換)の、“社会性”を隠蔽してしまうからである。「言葉の意味はその用法である」というウィトゲンシュタインの言葉は、プラグマティックな意味で理解されてはならない。それは、内的な意味(私的言語)から出発するかわりに、《他者》との交換というレベルに立ちまどるべきことを主張しているのである。日常言語学派とちがって、彼の認識は“倫理的”である。(柄谷行人『探求Ⅰ』「家族的類似性」pp.144-148)

この記述がより簡明に『トランスクリティーク』2001にて現れる。

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(同トランスクリティーク P112)

…………

次に柄谷行人の1978年の論から。

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』p.26、1978年)
根源にあるのは、使用価値(シニフィアン)と使用価値(シニフィアン)の任意の関係にほかならない。価値形態とは、いわば形象的な言語である。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』p.35)

ここで言われていることは、ラカンの次の文と相同的である。

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

この柄谷=ラカンは、次の文を読めばいっそう鮮明になる。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異 的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

ラカンの次の文とともに読んでみよう。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないこ とである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

また柄谷の言う《自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》と は、次のジュパンチッチの文の「非全体」にかかわる説明と等価である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状 況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的 な「無‐関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さっ た「逸脱する過剰 wandering excess」である。すなわち、表象は、「過剰なものへの無限の 滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象され ない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰であ る。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさ に裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ2004“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

ラカン自身の叙述を掲げよう。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフ ィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表 象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな 残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピー として現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

主体 $ とはマルクスの使用価値と等価である。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成して いるのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々) は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、 最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。 そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典 型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立 した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。 ………シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在 の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物 の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つ のシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。す なわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を 表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反 対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在 を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通し てのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主 体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。 (ジジェク『為すところを知らざれ ばなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991年、私訳)

…………

※付記

上に引用した次の文を再掲する。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

これと相同的な表現は、『隠喩としての建築』(木村敏を引用しつつ)にも現れる。

……さらに厳密に言うならば、自己がそれ自体差異化の構造であるといい、自己と自己ならざるものとの分離が単純に自己の場で遂行されるというのは十分に正確ではない。というのは、自己とは決してこの分離に先立ってあらかじめ与えられているものではないからである。……(木村敏『自己・あいだ・分裂病』)
――木村敏のいっている「差異化」は、われわれの考えでは、ある差異的なシステムそれ自体への差異化、つまり自己言及・自己関係化にほかならない。そして、それが自己言及的なシステムであるからには、いわば地と図をはっきりと決定することはできない。(柄谷行人『隠喩としての建築』pp.73-74)