2017年8月18日金曜日

女性への推進力、男性への推進力

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

こう引用すれば、おそらくニーチェの考え方はもはや古いという人が多いだろう。

たとえば21世紀に入って次のようなことが言われている。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、2012より孫引き、PDF

男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists,2001)

ジャック=アラン・ミレールの文に《男性への推進力 pousse-à-l'homme》という表現があったが、これはラカンがファルス秩序(神経症的な秩序)に囚われない精神病的存在(倒錯的存在も含めてよいだろう)をめぐって語る発言のなかで、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(エトゥルディ、1972)と言っていることにかかわる。父の名(自我理想)の斜陽の時代には、男たちは女性化するのであり、他方、ミレールの考え方では(そして現実にも)、現在の女たちにおける《男性への推進力 pousse-à-l'homme》は明らかだろう。

とすればニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である》とはまったく古くなってしまったのだろうか。いや必ずしもそうではない。

たとえば日本において、一時期巷間で流通してい名言「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」を裏付けるものとして捉えられるフロイト・ラカン派の注釈がある。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(……)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

なぜこういったことが起こるのかといえば、フロイト・ラカン派では次のように言われることが多い。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。

つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。

こういった発達段階的な基盤にある男女の相違とは、いくら男たちにおける「女性への推進力」、女たちにおける「男性への推進力」があってもなかなか変化はしがたい、と私は思う。


2017年8月17日木曜日

おみこしの熱狂と無責任という「共感の共同体」症状

人は忘れるのだ。深く考えなかったこと、他人の模倣や周囲の過熱によって頭にタイプされたことは、早く忘れる。周囲の過熱は変化し、それとともにわれわれの回想も更新される。(プルースト「囚われの女」)

ツイッターを「共感・戦争」の用語で検索して眺めてみた。とくに批判するつもりはない。この「お盆」という時期に、戦争体験を語り、戦争を知らない人たちを啓蒙するのはとても大切である。


・戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。

・今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある。

・戦争はいくら強調してもしたりないほど酸鼻なものである。しかし、酸鼻な局面をほんとうに知るものは死者だけである。

・時とともに若いときにも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争とはどういうものか、そうして、どのように終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。(中井久夫「戦争と平和 ある観察」2005年)

だがどこからか何か悪い臭いが漂ってこないではない。

……わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

悪い臭いの原因(私の錯覚かもしれない)は、どうやらお盆の度ごとのーーあるいはなにか機会がある度ごとの(たとえば映画への共感)--ツイッター共同体での「おみこしの熱狂」という振舞い自体にあるようだ。そして喉元過ぎれば、あのおみこしの熱狂はすぐさま忘れさられてしまっているのではないか、と。

以下、思いつくままにいくらかの文献を掲げる。

…………


【戦争を生み出した条件の存続】 
生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)


【共感の共同体】
・この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。

・そのような『事を荒立てる』ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、実は抗争と対立の場であるという『本当のこと』を、図らずも示してしまうからである。

・「将来の安全と希望を確保するために過去の失敗を振り返」って、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」のである。しかし、この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう。(酒井直樹「無責任の体系」

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」『すばる』1988 年 7 月号)

…………

【おみこしの熱狂と無責任】
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)


【被害者意識】



被害者意識というのはやっかいなものです。私も、被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有してしまった時期があります。時のヒーローでしかたらね。(……)

被害者意識は自己増殖します。本来、政治家はそれを抑えるべきなのに、むしろあおっています。北朝鮮を「敵」だと名指しして国民の結束を高める。為政者にとっては、北朝鮮が「敵」でいてくれると都合がいいのかもしれません。しかし対話や交渉はますます困難となり、拉致問題の解決は遠のくばかりです。

拉致問題を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い性となっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか。

(……)日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか。(蓮池透発言(元「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長))

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


【同情・共感は同一化によって生まれる】
同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921)

われわれは、…次のように要約することができよう。第一 に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどっ て、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


【同情メカニズムの格率】

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。(ルソー『エミール』)

私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同一化する (se identifier) ことによってである。彼が苦しんでいると判断するのでない限り、私たちが苦しむことはないのであって、私たちは、自身のうちでではなく、まさに彼のうちで苦しむのである。この転移がいったいどれほど多くの獲得されたを前提としているか考えてほしい。私がそれについての何の観念も持っていないような不幸をどのように想像する (imaginer) というのであろうか。他人が苦しんで いることを知りもせず、 また、彼と私のあいだに共通するものがあるということを知らなければ、他人が苦しんでいるのを見ながら、どう して私が苦しむだろうか。決して反省(réfléchir) したことのない人間は、寛大でも公正でも憐れみ深く (pitoyable) もありえない。( ルソー『言語起源論』)



【ツイッター共同体におけるお盆の度毎の同一化症状】
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)


…………

※付記

同情する人間と同情を持たない人間(ニーチェ)】
「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているのに、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることをしまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。

しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれがその際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快楽の衝動に服従することもやはり確実である。――快楽が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあらゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――

おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずーーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。(彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である。――しかし彼らをすぐれた意味で悪いと呼び、同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番 茅野良男訳)

ポリティカルコレクトネスをめぐる

鈴木 優‏ @_YuSuzuki

・私は2年間の米国生活で一度たりとも人種差別的な暴言を浴びたことがなかった。最初の頃は優しい世界だと思った。でもだんだんと言ってはいけないことという暗黙の了解に包囲されていて常に地雷を踏まないように気を配らなくていけない世界だということに気付いた

・Berkeleyは全米でも最もリベラルな場所の一つとされていたけど、2年間見てきて少し疲れましてね。差別反対だの性的マイノリティーの権利だの叫ぶのは結構だけど、ちょっとバランス感覚を欠いているというか、自分が絶対の正義で少しでも異を唱える者は差別主義者として袋叩きにするというか

・私は決して右翼とか排外主義者ではないですが、Political Correctnessでがんじがらめになっているアメリカよりも日本の方が言いたいことを自由に言えて気が楽です

すばらしいツイート。ニーチェやジジェクの言っていることのすぐれた解説のような。

放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、ーーもしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。(ニーチェ『曙光』315番)

…………


享楽の基本的パラドックス…。享楽のどの放棄も、放棄することの享楽を生む。欲望のどの障害物も、障害物への欲望を生む、等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

フランスは…わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。…フランスは(人種差別において)ドイツやイギリスに比べてもはるかに悪い。(『ジジェク自身によるジジェク』2014)


…我々はまた、アイデンティティのポリティカル・コレクトネス主張という基本的パラドックスにおいて、剰余享楽 Mehrgenuss (plus-de-jouir )に出会う。周辺的で排除されたアイデンティティであればあるほど、人は民族的アイデンティティと排他的な生活様式の主張を許容される。これがポリティカル・コレクトネスの風景がいかに構成されているかの在り方である。すなわち西側世界から遠く離れた人々は、本質主義者-人種差別主義者のアイデンティティ(アメリカ原住民、黒人…)と公然と非難されることなく、彼ら固有の民族的アイデンティティの十全な主張を許容される。人が悪評高い白人の異性愛男性に近づけば近づくほど、そのアイデンティティの主張はいっそう問題視される。アジア人はまだ大丈夫だ。イタリア人、アイルランド人もたぶんいける。ドイツ人やスカンジナビア人は既に問題である…

しかしながら、白人の固有アイデンティティ(他者の圧制のモデルとして)のこのような禁止は、彼らの罪の告白を表出をしているとはいいながら、それにもかかわらず、彼らに中心ポジションを授与する。すなわち、彼ら固有のアイデンティティ主張のこの禁止自体が、彼らを普遍的-中立の媒介者、場ーーそこから他者の圧制についての真理が接近しうるーーにする。

この中心ポジションが剰余享楽 Mehrgenuss であり、アイデンティティの放棄によって生み出された快楽である。西側の我々が人種差別を本当に打倒したいなら、最初にしなければならないのは、この終わりなき自責のポリティカル・コレクトネス過程から離脱することである。

Pascal Bruckner の現代左翼への批判はしばしば冷笑に近づいているとはいえ、時に優れた洞察をもたらさないわけではない。人は彼に同意せざるを得ない。ヨーロッパ人のポリティカル・コレクトネス的自己責苦のなかに、転倒された優越性への執着を Bruckner が嗅ぎ付ける時。

西側の人間が非難された時、最初の反応は攻撃的防衛ではなく自己反省である。ーー我々はその報いを受ける何をしてきただろう? 我々は究極的には世界の悪の責任がある。第三世界の惨事とテロリストの暴力はたんに我々の犯罪への反応にすぎない…

このように、白人の「重荷」(植民地化された野蛮人を文明化する責任)のポジティブな形式が単にネガティブな形式に置き換わったにすぎない(白人の罪の重荷)。すなわち、我々がもはや第三世界の慈悲深い主人であり得ないなら、少なくとも特権化された悪の源泉であり得ると。恩着せがましく第三世界の破滅の責任を取り上げてやりつつ(第三世界のある国が酷い犯罪に携わったなら、それは決して彼らだけの責任ではなく、常に植民地化の後遺症だ。彼らは単に植民地の主人が為したことを模倣しているだけだ、等々)。この特権意識が、自責によって獲得された剰余享楽 Mehrgenuss である。 (Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016、私訳)


女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しいーーポリティカルコレクトネスなーー表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006 鈴木晶訳)

…………

※追記

浅田彰)アメリカの状況は…有色人種や先住民族、女性、同性愛者、その他、何にせよマイノリティの側に立って、従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが「政治的に正しい」(politically correct――略してPC)という主張が、数年前から知的階層において支配的になってきている。(……)アメリカは粗野なレイシズムやセクシズムが根強く残っており、それとの対抗関係でPCが大きな社会的役割を果たし得ることは事実ですから、私はPCを一方的に批判しようとは思いません。にもかかわらず、PCが白人プチプル男性のやましい良心の裏返しの表現であることも否定しがたいと思うのですが。
ジジェク)PCの問題とは、端的に言って、「白人・男性・異性愛者でありながら曇りのない良心を保持するのはどうすればいいか」ということです。他のどんな立場の人間も、自らの固有性を主張し、固有の享楽を追及することができる。白人・男性・異性愛者の立場だけが空っぽであり、かれらだけが享楽を犠牲にしなければならない。これは神経症的強迫の典型です。問題は、それが過度に厳格であることではなく、十分に厳格ではないということです。見たところ、PC的態度は、レイシズムやセクシズムを連想させるすべてを断念する極端な自己犠牲のように見える。しかしそれは、自己犠牲という尊敬すべき行為そのものを、その行為をあえて引き受ける良心的な主体性そのものを、犠牲にしようとはしない。罪深い内容のすべてを断念することによって、それは白人・男性・異性愛者の立場を普遍的な主体性の形式として確保するのです。これはヘーゲルが禁欲主義批判において言っている通りです。PC主義者は、初期のキリスト教の聖人のように、自分の内なる罪をあくことなく暴き立てようとする。かれらが本当に恐れているのは、その探求がどこかで終わり、問題が解消されてしまうことなのです。言い換えれば、PC的態度は、アラン・ブルームらの言うように六八年以後の極左主義の偽装された現れであるどころか、ブルジョワ自由主義を守るイデオロギーの盾にほかなりません。

ちなみに、精神分析的に言えば、アメリカ人の強迫的なPC妄想に対して、ヨーロッパの古典的知識人のヒステリー的な問いを対置することができるでしょう。「私が曇りのない良心をもって従うことのできる正当な権力はどれか」という問いです。かれらは自分たちのアドヴァイスを聞き入れてくれる「良き主人」を探している。しかし、自分たちの側が勝利するたびに、「これは自分たちが本当に望んでいたものじゃない!」というヒステリー的な反応を示す。社会党が政権をとったときのフランスの左翼知識人の反応はその典型です。
浅田)あなたの精神分析的な診断は、そのアイロニカルな倍音も含めて、最終的には正しいと思います。ただ、重ねて強調したおきたいのは、PCならPCが、レイシズムはセクシズムが潜在的に広がっているアメリカの文脈においては、それなりの社会的役割を果たし得るということです。むしろ、私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993『「歴史の終わり」と世紀末の世界』)

2017年8月5日土曜日

強者と寄生虫

ひとは強者を、弱者たちの攻撃から常に守らなければならない(ニーチェ遺稿 1888)

以下、ニーチェ、およびニーチェ注釈者たちの資料の列挙。


【権力への意志は支配欲とは異なること】
われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。

(一)権力への意志(〈力〉への意志)に関して(権力への意志が、「支配欲」を、あるいは「権力を欲すること」を意味すると信じこむこと)。

(二)強い者と弱い者に関して(ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむこと)。

(三)〈永遠回帰〉に関して(そこで問題となっているのが、古代ギリシア人、古代インド人、バビロニア人……から借りた古いイデーであると信じこむこと。だからサイクルが、〈同一なもの〉の回帰が、同一への回帰が問題となるのだと信じこむこと)。

(四)最も後期の諸作品に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じこむこと)。》(ドゥルーズ『ニーチェ』)

…………

【おのれを弱者として示し、粗暴な権力手段を放棄すること】

道徳の発展がたどる傾向。——誰でも、おのれ自身がそれで成功するようなもの以外の教えや事物の評価が通用しないことを願望する。したがって、あらゆる時代の弱者や凡庸な者どもの根本傾向は、より強い者たちをより弱化せしめること、引きずりおろすことであり、その主要手段が道徳的判断である。より強い者のより弱い者に対する態度は烙印をおされ、より強い者の高級な状態は悪しざまな別名をつけられる。  

多数者の少数者に対する、凡俗な者の稀有な者に対する、弱者の強者に対する闘争——。この闘争を最も巧妙に中絶せしめるものの一つは、精選された、繊細な、要求するところの多い者がおのれを弱者として示し、粗暴な権力手段を放棄するときである——(ニーチェ『権力への意志』)


【寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく】

寄生虫。それは君たちの病みただれた傷の隅々に取りついて太ろうとする匍い虫である。

そして、登りつつある魂にどこが疲れているかを見てとるのが、このうじ虫の特殊な技能である。そして君たちの傷心と不満、感じやすい羞恥などのなかへかれはそのいとわしい巣をつくる。

強者のもつ弱い個所、高貴な者におけるあまりにも柔軟な個所 Wo der Starke schwach, der Edle allzumild ist、ーーそこにうじ虫はそのいとわしい巣をつくる。寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく。

あらゆる存在する者のうち、最も高い種類のものは何か。最も低い種類のものは何か。寄生虫は最低の種類である。だが、最高の種類に属する者は、最も多くの寄生虫を養う。

つまり、最も長い梯子をもっていて、最も深く下ることのできる魂に、最も多くの寄生虫の寄生しないはずがあろうか。--

自分自身のうちに最も広い領域をもっていて、そのなかで最も長い距離を走り、迷い、さまようことのできる魂、最も必然的な魂でありながら、興じ楽しむ気持から偶然のなかへ飛びこむ魂。

存在を確保した魂でありながら、生成の河流のなかへくぐり入る魂。所有する魂でありながら、意欲と願望のなかへ飛び入ろうとする魂。ーー

自分自身から逃げ出しながら、しかも最も大きい孤を描いて自分自身に追いつく魂。最も賢い魂でありながら、物狂いのあまい誘惑に耳をかす魂。ーー

自分自身を最も愛する魂でありながら、そのなかで万物が、流れ行き、流れ帰り、干潮と満潮時をくりかえすような魂。ーーおお、こういう最高の魂がどうして最悪の寄生虫を宿さないでいよう。(ツァラトゥストラ第三部、「新旧の表Von alten und neuen Tafeln」より)


【「強者/弱者」をめぐる若き浅田彰の注釈(1987年)】
いろいろ問題があったけれども、やはり<強者>と<弱者>の問題というのが重要だと思うんです。これはさっきのファシズム問題ともつながるけれども、ニーチェの<強者>というのは普通の意味での強者、例えばヘーゲルの意味での強者と徹底的に区別しないと、プロトファシストみたいになってしまうわけです。実際、普通の意味でいうと、ニーチェの<強者>というのは物凄く弱い。ニーチェは能動的なものと反動的なもの、肯定的なものと否定的なもののおりなす系譜をたどっていくのだけれども、なぜか世界史においては必ず反動的なもの・否定的なものが勝利し、能動的なもの・肯定的なものは全面的に敗北しているわけです。

これはなぜかというと、<弱者>の側が力で勝っているからではなく、<弱者>が<強者>に病いを伝染させ、それによって<強者>の力を差っ引くからであるというんですね。これはほとんど免疫の話になっているんですが、たまたま『ニーチェの抗体』という変な論文を書いた人がいて、83年ぐらいに既にAIDSの問題が出かかったときそれとの絡みで書かれた(……)思いつき倒れの論文なんだけれども、面白いことに、ニーチェの<強者>というのは免疫不全だと言うんです。何でもあけっぴろげに受け入れてしまう。それにつけ込んで有毒なウィルスを送り込むのが<弱者>なんです。事実、その論文は引いていないけれど、ツァラトゥストラも、最高の存在というのは最も多くの寄生虫に取りつかれると言っている。全くオープンなまま常に変転しているから、それをいいことにして寄生虫がパーッと入って来て、ほとんどAIDSになってしまうわけです(笑)。だから「<強者>をつねに<弱者>の攻撃から守らなければならない」。(『天使が通る』(浅田彰/島田雅彦対談集))


…………

【権力への意志=情動】
権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

【権力への意志・永遠回帰・欲動】
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

…………

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retou rは権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

…………

【永遠回帰と不気味なもの】

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)


精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び、fort-da「いないいないばあ」のこと:引用者)。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い衝動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ーーフロイト=ニーチェの「同一のものへの回帰」についてはドゥルーズからの異議がある。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


この点に関しては、ラカンもドゥルーズよりの解釈である。

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S17)

・「一の徴 trait unaire」と反復――徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。…du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …s très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine.(S17)
・…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)

・「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S19)


「純粋差異」とはジジェクの解釈においては、対象aのことである。

……対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(パララックス・ヴュー、私訳、原文

原対象aは「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環すること自体である。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク2016, Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , pdf)


【反復と享楽回帰】
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
享楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての享楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

ーー手塚富雄訳だが、「悦び lust」を「享楽」に変更した。

ここでのニーチェの「悦び(享楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)とほとんど等価である。

そしてラカンはこの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》をなによりもまず「享楽」(jouisssance = déplaisir)とした。

享楽が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」)


※より現代ラカン派解釈におけるニーチェの永遠回帰をめぐっては、「ララングとサントーム」を見よ

…………

※追記

『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」にて、ニーチェは「心のうぶ毛」をもっている者が強者だと読みとれることを記しているのをつけ加えておこう。

・どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの心のうぶ毛 Flaum meinem Herzen は?

・わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。

・そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが、わたしにはそなわっている。その名はわたしの意志 Wille だ。それは黙々として、屈することなく歳月のなかを歩んでゆく。



2017年8月3日木曜日

「知の権力者」の測り知れない「知」

スピノザやドゥルーズ、ニーチェやらの哲学愛好家らしいお方が《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》と囀っている。




このお方は自称「知の権力者」である。




《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》とおっしゃっているのは何かトクベツに深い意味があるに相違ない。きっと私には測り知れない深い知からの断言であるだろう・・・

なぜならスピノザは《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》と言っているが、私にはこの衝動は情動と近似した意味に読める。すなわちほぼ「情動とは人間の本質」とスピノザは言っているように読める。だが「知の権力者」からみれば、これは甚だしい誤読なのであろう・・・

以下、スピノザのエチカ第三部「情動論」からいくらか抜き出そう。


【欲動と情動】
情動 affectusとは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変様 affectiones、また同時にそうした変様観念affectionum ideasであると解する。(スピノザ、エチカ第三部、定義3)

Per affectus intelligo corporis affectiones, quibus ipsius corporis agendi potentia augetur vel minuitur, iuvatur vel coercetur, et simul harum affectionum ideas.(E T H I C E S

情動 affectusと変様 affectiones についてドゥルーズは、次のように注釈している。

これまで、変様、変様状態(アフェクチオ[affectio])は概して直接、身体や物体について言われるが、情動(アフェクトゥス[affectus])は精神に関係しているといった指摘がなされてきた。しかしこの両者の真の相違はそこにあるのではない。真の相違は、身体の変様やその観念がそれを触発した外部の体の本性を含むのにたいして、情動の方は、その身体や精神のもつ活動力能の増大または減少を含んでいるところにある。アフェクチオは触発された身体の状態を示し、したがってそれを触発した体の現前を必然的にともなうのに対して、アフェクトゥスは、ひとつの状態から他への移行を示し、この場合には相手の触発する体の側の相関的変移が考慮に入れられている。感情という情動が特殊なタイプの観念や変様として提示されることはありうるにしても、変様(像または観念)と情動(感情)とは本性を異にするのである。(ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』)


ニーチェは「権力への意志」=「情動」としている。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

クロソウスキーは、情動は欲動と相同的だとしている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーの『悪の循環』の前年に上梓されたドゥルーズからも抜き出そう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

…………

次は「衝動」である。以下畠中訳

【衝動 appetitusと欲動 trieb】
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, v o l u n t a s appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur a p p e t i t u s , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,

現在、「衝動 appetitus」と triebと訳されることが多い。すなわち「欲動」である。

たとえば注釈者たちによって次のように記述される

・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb

よって《……精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる》と記すことができる。

この文をフロイトの欲動の定義とともに読んでみよう。

「欲動 Trieb」は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

…………

こうして私のこのうえなく雑な頭では、情動≒衝動≒欲動となる。

ニーチェは「権力への意志」を「欲動の飼い馴らされていない暴力」としている。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

「飼い馴らされていない」という語をフロイトは次のように使っている。


自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない欲動の蠢きungebändigten Triebregung を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

あるいは《リビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

おそらく知の権力者は《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》と宣言することで「家畜化のすすめ」をしているのではなかろうか。実にこのうえなく深い知である・・・

…………


※付記

ここでの話題から外れるが、『ニーチェと悪の循環』の英訳者 Daniel W. Smith による序文には、ニーチェの用語の使い方をクロソウスキーはどう捉えているかについてのを簡明な記述があり、それを付記しておく。

Impulsion(衝動) は、仏語の pulsion(欲動) に関係している。pulsion はフロイト用語の Triebeを翻訳したものである。だがクロソフスキーは、滅多にこの pulsion を使用しない。ニーチェ自身は、クロソフスキーが衝動という語で要約するものについて多様な語彙を使用しているーー、Triebe 欲動、Begierden 欲望、Instinke 本能、Machte 力・力能・権力、Krafte 勢力、Reixe, Impulse 衝迫・衝動、Leidenschaften 情熱、Gefiilen 感情、Afekte 情動、Pathos パトス等々。クロソフスキーにとって本質的な点は、これらの用語は、絶え間ない波動としての、魂の強度intensité 的状態を示していることである。(PIERRE KLOSSOWSKI,Nietzsche and the Vicious Circle Translated by Daniel W. Smith)





2017年7月29日土曜日

不気味な仮面と反復強迫

ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで、長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925)

…………

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

ところでルー・アンドレアス・サロメは1894年に、ニーチェの永遠回帰についてこう語っている。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)


フロイトの「快原理の彼岸」概念創出とはニーチェ=サロメに由来する、すくなくともこのふたりが多大な貢献をしている。

ルー・アンドレアス・サロメは、1915年1月10日、直前に発表された『ナルシシズム入門』への応答としてフロイト宛に書信を送っている。…

《これはセクシュアリティの主要な問題なのではないでしょうか。セクシュアリティは、渇望を癒やしたいというよりも、むしろ渇望自体を切望することから構成されているのですね? 身体的緊張の解放と満足に到った状態は、同時に失望ということですね? というのは、緊張と渇望が減ってしまうのですから。》 (Freud-L. A. Salome, Brie fwechsel)

……サロメは、フロイトの快原理の議論の欠陥を明示し、新しい解決法に向かうよう促している。セクシュアリティは 「Durstsehnsucht 渇きへの欲望」であり、欲望自体への欲望であって、欲望の満足ではない。緊張の蓄積は快感でありうる。緊張の放出は失望をもたらす。快原理はよろめき始めた。フロイトはこの単純な見解を彼の理論のなかに反映させるために、5年を要した(『快原理の彼岸』1920年)。それは彼の以前の考え方すべての修正を余儀なくさせた。(ポール・バーハウ、1999,DOES THE WOMAN EXIST?)


ここでは1920年の『快原理の彼岸』からではなく、その前年に書かれた『不気味なもの』から引用しよう。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)

…………

ニーチェは権力への意志は情動と等価としている。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

クロソウスキーにとっては、情動は欲動と等価である。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retou rは権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーの『悪の循環』の前年に上梓されたドゥルーズからも抜き出そう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ラカンにとっての永遠回帰=反復強迫とは何か?

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

※ララング=リトルネローー《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle 》(Lacan、1974)ーーと「永遠回帰」の関係については、「ララングとサントーム」を見よ。


…………

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク2016, Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , pdf)


サントームと固着

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)


ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


「一」Unと「享楽」jouissanceとの関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)





抑圧と原抑圧

以下、基本的資料の列挙


◆フロイト、1911年
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗・侵入・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 私訳)


◆1915年
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……)

抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後の抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。(フロイト『抑圧』1915年、既存訳修正、以下同様)



◆1923年
無意識的なもの(大文字の無意識 Ubw)は、抑圧されたものと一致しないことをみとめなければならない。あらゆる抑圧されたものは無意識的(小文字の無意識 ubw)であるが、無意識的なもの(大文字の無意識 Ubw)はすべてが抑圧されているとはかぎらない。これはあくまで正しいのである。

Wir erkennen, daß das Ubw nicht mit dem Verdrängten zusammenfällt; es bleibt richtig, daß alles Verdrängte ubw ist, aber nicht alles Ubw ist auch verdrängt.

自我の一部分もまたーーそれが自我のどんな重要な部分であるかは神のみが知る--無意識的(小文字の無意識 ubw)であるかもしれない。いや、たしかに無意識的(小文字の無意識 ubw)である。

Auch ein Teil des Ichs, ein Gott weiß wie wichtiger Teil des Ichs, kann ubw sein, ist sicherlich ubw.

そして、この自我の無意識的(大文字の無意識 Ubw)な部分は、前意識的なもの Vbwという意味で潜在的なのではない。そうでなければそれは、意識的となることなしに活動するわけにはゆかないだろう。そしてそれを意識的にすることが、それほど大きな困難をひきおこすことはありえないだろう。

Und dies Ubw des Ichs ist nicht latent im Sinne des Vbw, sonst dürfte es nicht aktiviert werden, ohne bw zu werden, und seine Bewußtmachung dürfte nicht so große Schwierigkeiten bereiten.

ところで、ここに抑圧されない無意識的なもの nicht verdrängtes Ubw は、第三のものを推定する必要にせまられるとすれば、そのときには無意識というもの Unbewußtseins の特性がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。

Wenn wir uns so vor der Nötigung sehen, ein drittes, nicht verdrängtes Ubw aufzustellen, so müssen wir zugestehen, daß der Charakter des Unbewußtseins für uns an Bedeutung verliert.(フロイト『自我とエス』1923年)


◆1926年
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後の抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧 Urverdrängungと後期抑圧 Nachdrängen との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧 Urverdrängungen の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮の過剰な強さ übergroße Stärke der Erregung により刺激保護 Reizschutzesが破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926 年)


◆1937年
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。

新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後の抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。…幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

2017年7月27日木曜日

人は自分に似ているものをいやがるのがならわし

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)

2017年7月23日日曜日

ララングとサントーム

まず、仏女流ラカン派の第一人者コレット・ソレールのとても明晰な「ララング」の定義文を拾ったので、ここに訳出する。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだのつながりを証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の舌語(lalangue maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(Colette Soler, Lacanian Affects, 2016)

次に上のコレット・ソレールが指摘している、母の身体的接触が後の生にとっての要(かなめ)になることにかかわるフロイトの代表的叙述を掲げる。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ララングの重要性は、ラカン派ではない日本の精神科医においても「喃語」や言語の「もの」性という語彙を使って次のような形で語られている。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」1996年『家族の肖像』所収)

 …………

現代ラカン派の臨床家は、この身体の出来事としてのララングが核心概念とすることが多い。例えば「21世紀におけるリアルLE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」と名付けられた2012年の会議にて、ラカン主流派のジャック=アラン・ミレールは、 《身体における、ララングとその享楽の効果の純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps》あるいは《欲動の純粋衝撃 Un pur choc pulsionnel》と口に出している。

この表現はラカンの次の文とともに読まなければならない。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントームがララングと大いに関わるのは、Geneviève Morelが簡潔に示している。

サントーム(原症状)は、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングと母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel, 2005, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

ミレールなら次のように言う。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

忘れがちなのは、サントームとはフロイトの固着(原抑圧)のことでもあることだ。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

Geneviève Morel の叙述に、人はサントームから《分離しなければならない》とあったがなぜか? Morelは《母の法 loi de la mère》、《非全体 pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminine》等々の表現も使っている。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

次のコレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールの記述もこの勝手気ままな「母の法」にかかわる。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ここで冒頭のコレット・ソレールの叙述に戻ろう。《ララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成している》とあった。そしてこの痕跡はわれわれの全人生を支配しているという含みをもつ表現がなされている。

どういうことだろうか? --ララングは永遠回帰するのである。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
・リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)

・小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰 l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle(MILLE PLATEAUX, 1980)

・リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)

もちろん永遠回帰はニーチェ用語である。《迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour 》(Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)

フロイトはニーチェの永遠回帰を反復強迫と等価なものとして扱っている(『快原理の彼岸』)。だが今はニーチェの次の文のみを引用するだけにしておこう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

さらにまた「原穴の名 le nom du premier trou」とあったが、これはブラックホールにかかわる表現である。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

※欠如と穴にかかわるいくらか詳細な文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

次のドゥルーズ&ガタリのリトルネロをめぐる叙述からも、ララングはーーラカンの《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》という表現に依拠すればーー、カオス、ブラックホール(非全体)にかかわるとすることができそうである。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場合が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点 point fragile を設けようとする。あるときは、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。これによって、ブラックホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

2017年6月28日水曜日

ドゥルーズの死の本能/死の欲動

以下、ドゥルーズ1967、1968、1970年の叙述を並べる。

◆1967年
『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

◆1968年
エロスは己れ自身を循環 cycle として・循環の要素 élément d'un cycle として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力 attractionと斥力 répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

◆1970年
祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響(共鳴)とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)

これらの三つの文を読むことで始めて「純粋差異」としての原抑圧の捉え方ーー21世紀のラカン派がようやく辿り着いた考え方に30年以上先行したドゥルーズの驚くべき洞察ーーが瞭然とする。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

2017年6月26日月曜日

日本語はもともと「中動態」の言語ではないだろうか?

國分功一郎の『中動態の世界――意志と責任の考古学』の松本卓也による書評によれば、中動態をめぐって次のように書かれている。

著者は、中動態に関する諸家の定義を概観し、言語学者エミール・バンヴェニストによる次の明快な定義に辿りつく――「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。すなわち、「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になる」のに対して、「能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」のである。(松本卓也『中動態の世界』がひらく臨床)

先ずわたくしは、この書を読んでいないことを断っておこう。ここで記すことは書評を読むかぎりでの感想である。

注目したいのは、バンヴェニストに依拠して「能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」という文である。これは、中動態においては、《主体は過程の内部にある》という考え方であることが示されていることになる。そして能動態の主体は外部にある、と。

わたくしの疑問は、このようなことが日本の読者に向けて書かれるとき、なぜ日本における「主体」のあり方ーーかつて、たとえば1970年代にはしきりに議論されたーーにまったく触れられていないのか、というものである。松本卓也による書評を読むかぎりでは、おそらく國分功一郎の『中動態の世界』自体にも、それに触れていないのではないか、と憶測される。あくまで憶測であるが。

たとえば数度にわたる日本旅行ののちにロラン・バルトは『記号の国』を書いた。

バルトは、インドゲルマン語は、ウラルアルタイ語に対して、次のような点があることを指摘している。

……主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』p.15~ 石川美子訳)

これはまさに能動態の主体のあり方である。すなわちバンヴェニスト曰くの「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している」。

他方、バルトは日本語には次のような特徴があることを示している。

……日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(ロラン・バルト『記号の国』p15)

この日本的な主体のあり方と、「中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」というバンヴェニストによる中動態の定義はどう異なるのか。まずそれが問われねばならない。日本語は、もともと中動態の言語ではないか、と。その議論なしでは、バルトのいう《狼の口のなかに安住しながら狼を殺そう》ーーいや狼の口のなかに安住しながら狼を飼い馴らす仕草にしかならない。

いまわたくしは、日本語の風呂敷が中動態と相似的であるだろうという前提のもとに記している。そしてこの前提への反論をききたいのである。その反論、あるいは問いには、松本卓也氏の書評は答えていない。《中動態の場所を中動態的に生き延びることへの注目の高まり》などとあるが日本人はもともとそのような民族ではないのか? 仮に風呂敷的主体と中動態的主体が相似的であるという前提のもとに立てば、松本卓也=國分功一郎の考え方は、あまりに西欧的枠組内での議論であるように感じられれてしまう。

ところでバルトの文には「言葉の空虚な大封筒」という表現があった。原文は「パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole」。バルトは時枝誠記の「風呂敷」理論を読んだのかだれかに聞いたに相違ない。

時枝の「風呂敷」については、まず中井久夫の簡潔な文を掲げよう。

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である! (私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。「行く」という行為、「美しい」という形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時にのみ、これを明言する。(中井久夫「一つの日本語観」『記憶の肖像』所収)

そして時枝誠記の『国語学原論』から抜き出す。


主体的な総括機能或いは統一機能の表現の代表的なものを印欧語に求めるならば、A is Bに於ける“is”であって所謂繋辞copulaである。copulaは即ち繋ぐことの表現である。印欧語に於いては、その言語の構造上、総括機能の表現は、一般に概念表現の語の中間に位して、これを統合する。従ってこれを象徴的に、A-Bの形によって表すのであって、copulaが繋辞と呼ばれる所以である。右のような総括方式における統一形式を私は仮に天秤型統一形式と呼んでいる。この様な形式に対して、国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され総括される語の最後に来るのが普通である。

花咲くか。

といった場合、主体の表現である疑問の「か」は最後に来て、「花咲く」という客体的事実を包む且つ統一しているのである。この形式を仮に図をもって示すならば。

或は、



の如き形式を以て示すことが出来る。この統一形式は、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う(時枝誠記『国語学原論』)


問われなければならないのは、日本語のたとえば風呂敷と中動態との相違である。それを指摘して後はじめて中動態の顕揚がありうる(日本語の風呂敷以外の側面の特徴は、「二者関係先進国日本」にいくらかメモがあるので参照のこと)。

なにはともあれ西欧的枠組のなかでのみ能動態と中動態を対比してーー木村敏の「あいだ」をめぐる指摘はあるとはいえーー、中動態を顕揚するだけでは《中動態の世界によって新たな光があてられる臨床のフィールドは広大》(松本卓也)などと呑気なことは言い得ない筈である。

最後に、バルトの議論の源泉のひとつであるだろう、ニーチェにかかわる文、かつまたニーチェの文をひとつを掲げておく。

《……それぞれの国民は、自分の頭上に、正確に分割された概念の空を持っている。そして、真理の要請のもとに、以後、すべて概念の神は自分の天空以外の場所では求められないようになることを望んでいる》(ニーチェ)。すなわち、われわれは、皆、言語活動の真実の中に、つまり、それの地域性の中に捉えられており、近隣同士の恐るべき敵対に引き込まれているのだ。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
個々の哲学的概念は、けっして任意にそれ自身だけで生ずるものでなく、相互の関係関連のうちに成長するものである。また、それが一見いかに唐突に恣意に思考の歴史のなかにあらわれていようとも、じつは一つの体系に属しているのであって、さながらある大陸に棲むすべての生物が一つの系統に属するようなものである。――以上の事実は、この上なく異なった哲学者たちも、結局は、ある考えられうべき根本方式を、つねにくりかえししかも確実にみたしているということによっても察知されよう。彼らは目に見えぬ呪縛の圏内にあって、同じ軌道をつねにふたたびまわってゆく。かれらはその批判的ないしは体系的意志をもって、互に、独立しているように感じているではあろう。しかも、彼らの内のなにものかがつねに彼らを導いている。なにものかが、すなわち、彼の生得の概念の体系と類縁が、彼らを一定の順序にしたがってつぎつぎと駆り立ててゆく。

事実、彼らの思考は発見ではなくて、むしろ再認識、回想、それらの概念がかつてそれより生まれきたりしところの遠きいにしえの霊魂の共有財への復帰であり、帰郷である。このかぎりにおいて、哲学することは最高級の隔世遺伝の一種である。インド・ギリシャ・ドイツのすべての哲学的思考に通ずる驚くべき血縁の類似は、簡単に説明される。ここには言葉の類縁がある。されば、文法の共通の哲学によって--すなわち、同じ文法的機能による無意識の支配と指導によって--はじめから、哲学体系が同質の展開と順列をなすべき定めを持っていることは、避けがたいことである。同時に、世界解釈の他の可能性への道がとざされてあることも、避けがたいことである。ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

…………

※付記

わたくしはバンヴェニストについてまったく無知だが、ここでの文脈とは関係なしに、岩井克人によるとても印象的な記述を付記しておこう。

角川の『漢和中辞典』を開いてみると(……)「買」という言葉は、あるものと別のものとを取り替える「貿」という言葉を語源としており、はじめボウと発音されていたが後になってバイと発音されるようになったという。そして、もともとは売り買い両方の意味に用いられていたこの言葉は、後になって一方の買うの意味に用いられるようになり、他方の売るという意味には「買」という字にモノを差し出すという意味の「出」という文字を組み合わせてつくられた「賣」という文字が使われるようになったという。もちろん、現在の「売」という字はこの賣という字の略字体である。

買という言葉と売という言葉とは、中国ではもともと同じ言葉であったのである。

そこで、つぎに日本語ではどうなっているかと思って『大言海』を開いてみると、あった、あった、そのなかの「買ふ」の項には「交ふ(かふ)」の他動の意のものか」という説明がつけられている。さらに岩波の『古語辞典』で「かひ」という項目を調べてみると、この言葉には「交ひ、替ひ、買ひ」という漢字の表記が当たられており、その基本的な語義として「甲乙の二つの別のものが互いに入れちがう意」という説明があたえられている。

すなわち、日本語においても、「買う」という言葉はもともとは売り買いの両方の意味をもっており、あるものと別のものとをたんに交換することをあらわしていたにすぎない。それが売るという言葉と区別されて、お金を支払ってなにかモノを手に入れるという行為をあらわすようになったのは、時代がはるかに降ってからのことのようなのである。

(……)じつは、それは、なにも中国語や日本語に固有の事実ではない。実際、二十世紀最大の言語学者のひとりに数えられているエミール・バンヴェニストがその晩年に出版した『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』(1969年)という大部の本のなかに収められている経済語彙についてのエッセイの多くは、まさにこの事実の解明にあたられているといっても過言ではない。

(……)かれの考察の出発点は、大多数のインド=ヨーロッパ語において「与える」あるいは「贈与する」という意味の動詞の最小単位(語根)をなしているdō- という言葉が、遠い歴史以前の時代においては「与える」という意味だけではなく、それと正反対の「受け取る」という意味をも担っていたという事実の発見にあったのである。バンヴェニストはまさにこの言語的事実のなかに、あの有名な『贈与論』(1923-24年)のなかでマルセル・モースが描き出そうと試みた「古代的な交換形態」というもののひとつの強力な証拠を見いだすことになったのである。

マルセル・モースが、古代的な社会関係を贈与とその返礼によって構成される互酬的な交換の体系と見なしたことはよく知られている。ひとにモノを贈与することは、理論的には自由であっても実際的にはかならず相手側に返礼の義務を負わせることになり、一方からの贈与は他方からの返礼としての贈与とのそれこそ果てしのない繰り返しによって、共同体の内部における財貨の交換が可能になるというのである。この全体的な交換関係のなかでは、与えることは同時に受け取ることであり、受け取ることは同時に与えることである。忘れられてしまった遠い過去において、インド=ヨーロッパ語のdō- という言葉が与えることと受け取ることを同時に意味していたのは、まさにこの「古代的な交換形態」の言語的な反映であったというわけである。(岩井克人「売買と買売」初出1986年『二十一世紀の資本主義論』所収)

2017年6月22日木曜日

S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴

ラカンは、エクリ所収の『主体の転覆 Subversion du sujet』1960年にて、「S(Ⱥ) は、それに対して他のシニフィアンすべてが主体を代表するシニフィアンである。このシニフィアンがなければ、他の諸シニフィアンすべては何も代理しない」と要約できることを言っている。

Pour nous, nous partirons de ce que le sigle S (Ⱥ) articule, d'être d'abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n'y en a. pas d'autre) est : un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pout un autre signifiant. Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n'est représenté que pour.(E.819)

同じく、S(Ⱥ) は、《大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autre》(E818)ともある。これらの二つの記述からは、象徴的ファルスのシニフィアンΦ、あるいはS1 と区別されがたい。

1971年にラカンは、S(Ⱥ) が Φ、すなわち「大他者のなかの欠如としての象徴的ファルス」と等価なものとする誤解に対応した。この誤解は、ラカンの数多くの弟子たちによって抱き続けられた。ゆえにラカンは、S(Ⱥ) によって理解していることを、より鮮明に定義することを余儀なくされる。S(Ⱥ) は Φ と等価ではない。S(Ⱥ) は完全に異なった何かにかかわる。というのは、S(Ⱥ) は次の考え方を表現するシニフィアンだから。すなわち《大他者の大他者はない il n'y a pas d 'Autre de l'Autre》。したがって《女というものは存在しない La femme n'existe pas》を意味する。(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? From Freud's Hysteria to Lacan's Feminine,1999)

ポール・バーハウのいうラカンの対応とはたとえば次の文である。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

1960年におけるS(Ⱥ) の定義《大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autre(E818)と、《大他者はない il n'y a pas d'Autre》あるいは《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》を徴示するシニフィアンS(Ⱥ) という定義とは、相矛盾する。

S(Ⱥ)と Φ との相違とは、例外なしの論理(非一貫性・非全体pas-tout)と例外の論理との相違にかかわる。これは女性の論理/男性の論理とも呼ばれる。

下の図の左側が男性の論理、右側が女性の論理である。



ジジェクは1995年に既に次のように指摘している。

S(Ⱥ) から Φ への移行は、不可能性から禁止への移行である。S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を徴示する。「大他者の大他者はない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアンである。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなかへと具象化するのである。(ジジェク、Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995

こうして1960年の『主体の転覆 Subversion du sujet』における、S(Ⱥ) の定義:《大他者のなかの欠如のシニフィアン signifiant d'un manque dans l'Autre》(E818)は、後期ラカンの観点からは間違っているーーすくなくともひどく誤解を招く表現ーーということが判明する。

S(Ⱥ)とは、Ⱥを徴示するシニフィアンである。Ⱥの定義自体が前期ラカンから後期ラカンへの移行にともなって変化していることを示すミレールの文を掲げよう。これは性別化の公式の観点から云えば、当然このように解釈されなくてはならない。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」  LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

比較的最近のジジェクをも引用しておこう。

ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

欠如があるのは象徴界(ファルス秩序)だけである。現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10、28 Novembre l962)のである。

欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible(Lacan、1976 AE.573)

ラカンのこのコルク栓という用語は次のような形でもあらわれている。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

ブルース・フィンクは1995年に、S(Ⱥ)はS(a)と書ける場合があると指摘している。非全体pas-tout を徴示するシニフィアンは、S(Ⱥ)でもあり、またS(a)、すなわち対象aでもあるだろう。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

もっともわれわれは対象aの両義性につねに注意しなければならない。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

…………

いや厄介なのはこれだけではない。

l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (ラカン、S14, 10 Mai 1967 )

すなわちラカンは《大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! 》と言っている。

さらに次のような言明もある。

身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

S(Ⱥ)とは原抑圧のシニフィアンでもある。ここに仏語で、S(Ⱥ) est le signifiant de l'Urverdrängung!と強調しておく。

S(Ⱥ)、すなわち《斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré》。これは、《ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne》である。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)

結局、ラカンのS(Ⱥ)とは、フロイトの《欲動の心的(表象)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes》、つまり《欲動代理 Triebrepräsentanz》と等価である。すなわち原抑圧(原固着)のシニフィアンなのである。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours, L'être et l'un)

サントームとは原抑圧にかかわる、とラカンはセミネール23(09 Décembre 1975)で言明しており(もっともサントームにはすくなくとも三種類の定義がありそのひとつが原抑圧である)、S(Ⱥ)が原抑圧のシニフィアンであることは明らかである。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」  LE LIEU ET LE LIEN  pdf

ーーいまネットを探ったら、《Le Vorstellungrepräsentanz, c'est le signifiant de l'Urverdrängung》と言っている人はいる(Jean-Claude Razavet、2016)。表象代理
Vorstellungrepräsentanz=欲動代理 Triebrepräsentanzとは周知のことだろう。

最後にフロイト文を掲げておこう。

【表象代理 Vorstellungsrepräsentanz】
われわれは意識的表象と無意識的表象 Vorstellungenとがあるだろうといったが、無意識的な欲動興奮 Triebregungen、感情、感覚といったものもあるだろうか? あるいはこの場合には、このような複合語を形成するのは無意味なのであろうか?

私はじっさい、意識的と無意識的という対立は、欲動には適用されないと考える。欲動は、意識の対象とはなりえない。ただ欲動を代理している表象 Vorstellung, die ihn repräsentiert だけが、意識の対象となりうるのである。けれども欲動は、無意識的なもののなかでも、表象によって代理されるしかない。欲動が表象 Vorstellung に付着するか、あるいは一つの情動状態 Affektzustand としてあらわれるかしなければ、欲動についてはなにも知ることができないであろう。

われわれが無意識的な欲動興奮とか、抑圧された欲動興奮について語るとしても、それは無邪気で粗雑な表現ということになる。われわれはそのさい、その表象代理 Vorstellungsrepräsentanz が無意識的であるような欲動興奮を考えているに過ぎない。(フロイト『無意識』1915年)

《Wir können nichts anderes meinen als eine Triebregung, deren Vorstellungsrepräsentanz unbewußt ist, denn etwas anderes kommt nicht in Betracht.》


【欲動代理 Triebrepräsentanz】 
……われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。すなわち、その代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束 binden される。(……)

抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代理 verdrängten Repräsentanz の心的派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代理と連合的に結びついてしまうような関係にある思考の連鎖に関連している。

こういう関係からこの表象 Vorstellungen は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、抑圧すべきものに対して意識的なものが及ぼす反発だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと連結する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。

われわれは、抑圧の重要な働きをしめす精神神経症の研究に影響されて、その心理学的な内容を過大評価する傾向がある。そして抑圧は、欲動代理 Triebrepräsentanz が無意識の中に存続し、さらに組織化され、派生物を生み、結びつきを固くすることを妨げないのだという点を忘れやすい。実際、抑圧はひとつの心理的体系、つまりシステム意識への関連しか妨げない。

精神分析は、精神神経症における抑圧の働きを理解するのに重要な、別のものをわれわれにしめすことができる。たとえば欲動代理 Triebrepräsentanz が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展することなどである。

それはいわば暗闇の中にはびこり、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって身に覚えのないものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという見かけによって患者をおびやかすのである。

人をあざむくこの欲動の強さTriebstärkeは、空想の中で制止されずに発展した結果であり、たびかさねて満足が拒絶された結果である。この後者の結果が抑圧と結びついていることは、われわれが抑圧の本来の意味をどこに求めるべきかを暗示している。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

この二論文と同時期に書かれた『欲動および欲動の運命』には次のようにある。

《欲動 Trieb》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

欲動とは《境界概念 Grenzbegriff》である。これは初期フロイト概念《境界表象 Grenzvorstellung》とひどく近似している(当時のフロイトには原抑圧概念はない。以下の文にあらわれる「抑圧」とは「原抑圧」と捉えられるべきである)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)

…………

※付記

だれが身体に固着を刻印するのか。それは実は誰もが知っている。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

この母なる大他者による身体への刻印、原穴の名、それが S(Ⱥ)である。《症状(=サントーム)とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

フロイトは原抑圧と捉えうるものを「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」と呼んだ。それは上のフロイト自身の文とともに、次の Geneviève Morel の文がよく表している。

我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009)
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

ララングについては、コレット・ソレールの近著における定義がこのうえなくすぐれている。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだのつながりを証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の舌語(lalangue maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(Colette Soler, Lacanian Affects, 2016)

…………

※追記

結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier という考え方に傾いていったのである。(ラカン、テレヴィジョン、1973年)

原抑圧とは、フロイトが次のように呼んだものと等価である。

・夢の臍 Nabel des Traums 
・菌糸体 mycelium、 
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle 
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe
・リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung
・欲動の根 Triebwurzel

ここでは、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ1937年の論文から「欲動の根 Triebwurzel 」のみを掲げよう。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

『夢判断』1900年に出現する「夢の臍」(=「菌糸体」= 「我々の存在の核」)については、晩年のラカンの言述を掲げる(フロイトにおいて1900年時点にはもちろん「原抑圧」概念はなかった)。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975

この原抑圧を、ラカンは決して取り消せない原症状=サントームと呼んだ。

四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

ラカンはセミネール22で、《原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt》 そして最初の抑圧だけではなく還元できないもの il y a un refoulement non seulement premier mais irréductible》(08 Avril 1975)とも言っている。外立、すなわちラカンの現実界である。

ここでフロイトが1915年の『抑圧』論文で、《われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある》と書いていることをもう一度思いだそう。この原抑圧にかかわる表現は、《欲動代理 Triebrepräsentanz》とも呼ばれているのも上に見た。

とはいえフロイトは多くを語っていない。それは治療不能の症状だからである。だから、人は安易にフロイトを読むだけなら、この概念を忘れてしまう傾向がある。

とはいえこの治療不能の症状を読みとる糸口はいくらでもある。

実際のところ、分析経験は、幼児期の《純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse》が、《欲動の固着Fixierungen der Libido》点を置き残す傾向がある、との想定を余儀なくさせる。

die analytische Erfahrung nötigt uns geradezu anzunehmen, daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen.(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

この文における《欲動の固着 Fixierungen der Libido》とは上に見たようにラカンのサントーム(原症状)のことである。それは幼児期の《純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse》にかかわる、とある。この表現は、ラカンが《症状(=サントーム)とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、AE569、1975)というときの《身体の出来事un événement de corps》と等価に相違ない。

とはいえ現在のポストフロイト時代においては、そもそも原抑圧にかかわる症状のフロイトの命名「現勢神経症 Aktualneurose」概念さえほとんど忘却されている。

精神神経症 Psychoneurose と現勢神経症 Aktualneurose は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926)

以下の文で、RICHARD BOOTHBYが《最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方》とは原抑圧、欲動代理、現勢神経症にかかわる。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

このRICHARD BOOTHBYの言っていることは、フロイトが初期に「翻訳の失敗Versagung der Übersetzung」と言っていたことにかかわる。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (Brief an Fliess). (フリース書簡、1896)

…………

最後に、フロイトの原抑圧をめぐる記述を四つ掲げておこう。

◆フロイト、1911年
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗・侵入・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 私訳)

◆1915年 
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……)

抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後の抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。(フロイト『抑圧』1915年、既存訳修正、以下同様)

◆1926年
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後の抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧 Urverdrängungと後期抑圧 Nachdrängen との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧 Urverdrängungen の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮の過剰な強さ übergroße Stärke der Erregung により刺激保護 Reizschutzesが破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926 年)

◆1937年
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。

新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後の抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。…幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

以上、私訳としたもの以外は、フロイトの引用はすべてフロイト著作集からだが、適宜変更してある(ラカン他はすべて私訳)。




2017年6月20日火曜日

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることを忘れてはならない

◆小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収より

【人生の根本は獣性】
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。

【狂的なものと合理的なもの】
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。

【大衆の無意識界】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。


【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。

【大衆の目を、特定の敵に集中させること】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【教養の見せかけ】
ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

【悪魔と天使】
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。

…………

◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より

【無法の欲望】
「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。


【巨大な獣】
そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。


【巨獣には、どうしても勝てぬ】
ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。


【教育とプロパガンダの混同】
もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。


【巨獣の力のうちに自己を失っている人達】
ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。

「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」

ソクラテスは答える。

「いかにもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。(……)


【巨獣には一かけらの精神もない】
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。


2017年6月19日月曜日

小此木啓吾氏の驚くべき誤訳

以下、フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年(フロイト著作集第9巻)の致命的誤訳(小此木啓吾訳)をめぐって。

※原文は、→ Psychoanalytische Bemerkungen Uber einen autobiographisch beschriebenen Fall von Paranoia (Dementia Paranoides)を見よ。

ーー精力的にフロイト邦訳における誤訳を指摘されている研究者の「翻訳正誤表」をもあわせて参照のこと。彼はこの論文だけでなく、フロイト著作集第9巻(小此木啓吾訳)の他の論文の邦訳についても、いささか過度にも思われるほどの難詰をしている。たとえば《訳者は「イマーゴ」の複数形もご存知ないらしい。これだからフロイトは独語で読まねばならないのである。》(参照

さて、その誤訳のなかでも致命的と思われる箇所を『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』から、ここでは一箇所のみ掲げる。

【小此木啓吾訳】
第一の段階は、各「抑圧」過程の先駆現象であり、その成立条件をなしている固着の形成段階である。(小此木訳)
Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«.

【翻訳正誤表による修正】:《第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている、固着である。》

ーーこの箇所は小此木訳においても、大きな問題はない。

問題は引き続く箇所である。

【小此木啓吾訳】
第二の段階は、《いわば本来の抑圧(原抑圧)である。》(小此木訳)
Die zweite Phase der Verdrängung ist die eigentliche Verdrängung


【翻訳正誤表による修正】:《いわば本来の抑圧である。》

なぜ小此木氏は、原抑圧などと付け加えてしまったのか? これはまったく抑圧/原抑圧を理解していない証拠である。

フロイトが原抑圧概念をはじめて実際に提出したのは、1915年の『抑圧』論文である。

そこでの記述を見てみよう。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。(……)

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben;
抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 eigentliche  Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。
Die zweite Stufe der Verdrängung, die eigentliche Verdrängung, betrifft psychische Abkömmlinge der verdrängten Repräsentanz oder solche Gedankenzüge, die, anderswoher stammend, in assoziative Beziehung zu ihr geraten sind.(フロイト『抑圧』1915年)

《本来の抑圧 eigentliche  Verdrängung》とは原抑圧と異なった第二段階の抑圧とある。そして第一段階のほうには、《固着 Fixierung》という用語が出現している。

1911年の『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』と同様なことが書かれている。

すなわち《第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている、固着 Fixierung である》と記されている。こちらが原抑圧Urverdrängungである。

それにもかかわらず小此木氏は、第二段階のほうを《いわば本来の抑圧(原抑圧)である》と余分な「誤った」注釈を丸括弧つきでつけ加えてしまっている。

これは抑圧/原抑圧について何もわかっていない証拠である。

原抑圧とは、後期フロイトの最も重要な概念のひとつである(ラカンのサントーム sinthome と等価)。

最晩年のフロイトが「終りなき分析」と言ったのは、この原抑圧=欲動の根のせいである。治療不能の核、それが原抑圧=原固着である。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

誰にでも些細な誤訳はあるだろうが、この最も核心的概念「原抑圧」をまったく逆に捉えてしまっているというのは、驚くべき「誤訳」であると言わざるをえない。


2017年6月18日日曜日

ラプランシュ Laplanche の反ラカン的議論

精神分析家も、自分がそこでどのような役割を担っているかを覆い隠すヴェールを剥ぐこともせずに、「チチンプイ、ほら消えろ」ととなえるだけでは、手品師の地位に身を落とすのを認めることになるでしょう。

したがって、フロイトの疑問を自らの教義問答にして、シニフィアンの記入は無意識の存在によって二重化されるのか否かと自問するようでは、彼が換喩の原動力となるものに近づく望みはありません。(ラカン、ライオフォニー、1970年)


ーーおそらくラプランシュ批判とされる。

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo , 2007

My stress on the dependence of new (neologistic) signification on repression and the return of the repressed makes it necessary to specify how my claim differs from Laplanche's anti-Lacanian argument according to which unconscious metaphoric substitutions are always responsible for the connection existing in consciousness between the signifier and the signified. This view distorts the notion of double inscription by rendering it inextricable from repression stricto sensu. The fact that new signification necessarily emerges through metaphoric substitution (repression stricto sensu) does not entail that, at the conscious level, already existing signification cannot function autonomously of the unconscious—cannot, that is, function according to the laws of grammar alone.

Furthermore, for Laplanche, at the individual level of the child's pre-Oedipal psychogenesis, it is the always-already metaphorical structure of the unconscious that allows the acquisition of language; while for Lacan, language precedes the unconscious. More specifically , language can be said to precede the complete structuring of the unconscious inasmuch as primal repression—the metonymic uttering of the first cries, phonemes, or words—occurs in the individual without any metaphoric substitution.

Unlike Laplanche, Lacan thinks of elementary signifiers as mere oppositional couples— such as the Fort–Da described by Freud that attempts a primal symbolization of the trauma provoked by the mother's absence. Metaphoric substitution—and the parallel possibility of repression stricto sensu, together with a fully articulated language—will successively be effected only by the resolution of the Oedipus complex. Having said this, I also more generally argue, in agreement with Lacan, that language (and grammar) is historically produced only in concomitance with repression: all the words that we use in conscious language—and initially acquire as children independently of metaphoric substitutions—were once neologisms.


◆BEYOND GENDER. From subject to drive, Paul Verhaeghe,2001

In Freud, there is no final discussion about the nature of the drive's inscription in the system Ucs (Freud, 1915e). For him, it involves an idea of fixation in general and the body in particular. Hence we find expressions like fixation, constitution, drive root, and somatic compliance. These expressions appear in all his case studies, and they are always linked to a form of infantile pleasure.

From 1964 onwards, Lacan takes up this question and struggles with it. In the wake of the Bonneval conference and the discussion with Ricoeur, as well as with his own pupils Laplanche and Leclaire, he tries to come up with an answer. Laplanche and Leclaire put forward the hypothesis that the unconscious kernel contains a representational system: phonemes for Leclaire, imagoes (sensory images without signifiers) for Laplanche.

Lacan ultimately rejects both answers, and presents his own solution by developing his theory of object a and the letter. In his seminar XXII, R.S.I., he again picks up the idea of the letter as a representative of the drive in the system Ucs. (Lacan, 1975). This letter presents us with the particular way in which a drive is fixated [or a particular subject, but it cannot be signified in a definite way, the way of the phallic signifier of the One. As a letter it contains a knowledge, but this knowledge forms part of the not-whole part of the Other, thus making this Other ignorant about it. It is the Other of the body that remembers this knowledge and traces the same tracts each time (Freud's Bahnungen) within the economy of jouissance. But this economy of jouissance remains an enigma .

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※付記:ジジェクによるVorstellungs‐Repräsentanz表象代理の直近解釈。


◆Zizek, LESS THAN NOTHING, 2012

We can now see the precise sense of Lacan's thesis according to which what is “primordially repressed” is the binary signifier (that of Vorstellungs‐Repräsentanz): what the symbolic order precludes is the full harmonious presence of the couple of Master‐Signifiers, S1‐S2, as yin‐yang or any other two symmetrical “fundamental principles.” The fact that “there is no sexual relationship” means precisely that the secondary signifier (that of the Woman) is “primordially repressed,” and what we get in place of this repression, what fills the gap, are the multiple “returns of the repressed,” the series of “ordinary” signifiers.

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Recall again Lacan's precise reading of Freud's concept of Vorstellungs‐Repräsentanz: not simply (as Freud probably intended it) a mental representation or idea which is the psychic representative of the biological instinct, but (much more ingeniously) the representative (stand‐in, place‐holder) of a missing representation. Every name is in this sense a Vorstellungs‐Repräsentanz: the signifying representative of that dimension in the designated object which eludes representation, that which cannot be covered by our ideas‐representations of the positive properties of this object. There is “something in you more than yourself,” the elusive je ne sais quoi which makes you what you are, which accounts for your “specific flavor”—and the name, far from referring to the collection of your properties, ultimately refers to that elusive X. An act does have a cause: it is caused by the objet a, by the je ne sais quoi which pushes me to do it. The moment one asks, “What to do?” this cause is lost.

Does not the formula of love—“You are … you!”—rely on the split which is at the core of every tautology? You—this empirical person, full of defects—are you, the sublime object of love, for the tautology itself renders visible the radical split or gap. This tautology surprises the lover again and again: how can you be you?18 But we should take a step further here and recall that Lacan defines Vorstellungs‐Repräsentanz as the representative of the missing binary signifier, the feminine Master‐Signifier which would be the counterpart of the phallic Master‐Signifier, guaranteeing the complementarity of the two sexes, each at its own place—yin and yang, etc. Lacan's thesis is that the starting point is the self‐deferral of the One, its non‐coincidence with itself, and that the two sexes are two ways of dealing with this deadlock.