2020年4月25日土曜日

コードレッド


超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)


父の名(自我理想)は超自我を飼い馴らす機能をもっている。だが十全には飼い慣らせず、必ず残滓(享楽の残滓)がある。以下、ジジェク文を三つ引用するが、いま上に示した内容のヴァリエーションである。


社会的自我理想と猥雑な超自我
二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり 社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という 概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

コードレッド
公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない。ロブ・ライナー監督の『ア・フュー・グッド・メン』を思い出してみよう。ふたりの米海軍兵士が、同僚を殺した罪で軍法会議にかけられる。軍検察官は計画的殺人だと主張するが、弁護側(トム・クルーズとデミ・ムーアという最強コンビだから裁判に負けるはずはない)は被告人たちがいわゆる「コード・レッド」に従っただけなのだということを立証してみせる。このは、海兵隊の倫理基準を破った同僚を夜ひそかに殴打してもよいという、軍内部の不文律だった。このような掟は違法行為を宥恕するものであり、非合法であるが、同時に集団の団結を強化するという役目をもっている。夜の闇に紛れ、誰にも知られず、完璧におこなわれなければならない。公の場では、誰もがそれについて何も知らないことになっている。いや積極的にそのような掟の存在を否定する(したがって映画のクライマックスは、予想通り、殴打を命じた将校ジャック・ニコルソンの怒りの爆発である。彼が公の場で怒りを爆発させたということは、彼の失脚を意味する)。
このような掟は、共同体の明文化された法に背いている一方で、共同体の精神を純粋な形で表象し、個々人に対して強い圧力をかけ、集団の同一化を迫る。明文化された<法>とは対照的に、このような超自我的で猥雑な掟は本質的に、人から見えない所で密かに口にされる。そこに、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の教訓がある。カーツ大佐という人物は野蛮な過去からの生き残りなどではなく、現代の権力そのもの、<西洋>の権力の必然的結果である。カーツは完璧な兵士だった。そしてそれゆえに、軍の権力システムへの過剰な同一化を通じて、そのシステムが排除すべき過剰へと変身してしまったのである。『地獄の黙示録』の究極の洞察はこうだーー権力はそれ自体の過剰を生み出し、それを抹殺しなければならなくなるが、その操作は権力が戦っているものを映し出す(カーツを殺すというウィラードの任務は公式の記録には残らない。ウィラードに命令を下す将軍が指摘するように、「それは起きなかった」ことなのである。)(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年)

ペドフィリア生産装置としてのカトリック教会
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。

彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。

それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理的現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。

人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、否認された猥褻な裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。

言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻な秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この隠匿された面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。

したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。

慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ! (ジジェク 、Tolerance as an Ideological Category , 2007)



2020年4月23日木曜日

文献集X


死の欲動は「超自我」の別の名である
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)

超自我は母(モノ≒エス)に起源がある
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7 , 16 Décembre 1959)
幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)




モノ=穴
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。
Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler ,  Humanisation ? , 2013-2014セミネール)

言語の大他者/モノ(身体の大他者)=欲望/享楽
欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E853、1964年)
欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は(言語の)法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)





モノは心的装置(言語)に同化されない現実界のトラウマである
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式の下にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン, S11, 12 Février 1964

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition. J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011

現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  Lacan, S23, 13 Avril 1976


言語の大他者/身体の大他者(モノ)=象徴界/現実界

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
想像界は象徴界によって構造化されている(ラカン、S2、29 Juin 1955、摘要)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノ=異者としての身体(喪われた対象)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
外密としてのモノは、…異者としての身体(異物corps étranger )のモデルである。(J-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

享楽の対象 Objet de jouissance …モノLa Choseは…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

喪われた対象=母
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー)を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

サントーム=モノの名=固着による身体の自動享楽
=無意識のエスの自動反復
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「1のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはS2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

リビドーの固着=享楽の固着=リアルな無意識
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向があることである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽の固着=トラウマへの固着

享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme,[…] elle est l'objet d'une fixation. […](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

享楽はまさに固着にある。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
享楽の固着とそのトラウマ的作用fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)

病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて5歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕

このトラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


これは、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる。

[] Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


欲望は享楽に対する防衛
われわれの愛の結びつきは現実界に対する防衛
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
我々の言説はすべて現実界に対する防衛である。tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール, Clinique ironique , 1993)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(Jacques-Alain Miller, L'inconscient et le corps parlant、2014)
言説discoursとは何か? それは、言語の存在 existence du langageによって生み出されうるものの配置のなかに、社会的結びつき lien social の機能を作り上げるものである。(Lacan, ミラノ講演、1972)
ラカンが四つの言説と呼んだものの各々は、変動する愛がある。それは、諸言説のダイナミズムにおけるエージェントの変動のように機能している。そして、ラカン以後、われわれが「社会的結びつき lien social」と呼ぶものは、フロイトが『集団心理学と自我の分析』にて教示した「愛の結びつき Liebesbeziehungen」のことである。(Jacques-Alain Miller, A New Kind of Love)

防衛=抑圧
私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

…この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926 年)
抑圧=翻訳の失敗
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ  6,12, 1896)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

翻訳の失敗➡︎リビドー固着の残滓=享楽の残滓
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

享楽=死の欲動
享楽は現実界にある。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。彼(フロイト)はこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel.   […]Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert. (ラカン、S23, 10 Février 1976)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。


Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!


es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


猥褻な超自我の享楽の命令の声
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)

エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971)

超自我を除いては、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である、 「享楽せよ jouis!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi.  Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : jouis !  (ラカン, S20, 21 Novembre 1972)

超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる。la forme des impératifs interrompus du Surmoi […] apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. (ラカン, S10, 19 Juin 1963)


母なる超自我と父なる超自我
「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
母なる超自我
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

超自我S(Ⱥ)と自我理想I(A)
我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想 idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

父の死とS(Ⱥ)

神の死[La mort de Dieu]は、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。〔・・・〕ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. ]。


したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアン[grand S de A barré,  signifiant de l'Autre barré ][S(Ⱥ)]がある。そして父の名の複数化[pluralisme des Nom-du-Père ]がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは、大他者は仮象に過ぎない[l'Autre n'est qu'un semblant]ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)


超自我の仮面としての父の名
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)

父の名と超自我のコインの表裏
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)


父の法と母の法
父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン、ローマ講演、1953)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)






S(Ⱥ)=サントーム
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。 Σ としてのS(Ⱥ) grand S de grand A barré comme sigma と記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)



S(Ⱥ)=死の欲動のシンボル

斜線を引かれた大他者のシニフィアンS (Ⱥ)ーー、私は信じている、あなた方に向けてこのシンボルを判読するために、すでに過去に最善を尽くしてきたと。S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである。S de grand A barré  S(Ⱥ)]ーーJe crois avoir déjà fait mon possible jadis pour déchiffrer pour vous ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
S (Ⱥ)=欲動のクッションの綴じ目
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
S(Ⱥ)=無法の現実界Ⱥの形式
「現実界は無法」(法なき現実界)の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005)
超自我S(Ⱥ)=欲動の支配

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず、「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré [Ⱥ]」を支配す。le S de grand A barré […]c'est grâce à l'existence […]que vous n'avez pas de trou ou que vous maîtrisez le trou de A barré.  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes -15/03/2006)

超自我は我々の欲動を支配する手助けをする Super-Ego – helps us to master our drives (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)
※翻訳の失敗(リビドー 固着の残滓)の項目参照






真理は嘘
真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)



母の名 le nom de la Mère=最初の父の諸名
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
母=原リアルの名・原穴の名
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。
Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler ,  Humanisation ? , 2013-2014セミネール)

穴=原抑圧=欲動の現実界=リビドー =享楽
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
リビドーは、その名が示しているように、穴に関与せざるをいられない。La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou

……そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。il y a un réel pulsionnel [] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.


原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse


人は臍の緒によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤によってである。…que quelqu'un s'est trouvé en quelque sorte suspendu[]  pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta.…


臍は聖痕である。l'ombilic est un stigmate.Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975

享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)

超自我=原抑圧=引力の核

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。

die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)
二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

原抑圧=固着=S(Ⱥ) =境界表象
フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。

…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.  ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her,(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

原抑圧=女性のシニフィアンの排除
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(ジャック=アラン・ミレール J-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)
排除=外立
我々はこの拒否を、「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)
原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

女性性の原抑圧
本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, フリース書簡 Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
原抑圧=固着=異者の置き残し
抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation. (Lacan, S1, 07 Avril 1954 )
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からに反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)

穴を作る固着
人はわれわれに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なるわれわれの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。
[L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou.](ラカン、ニース会議 Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974)
ラカンが導入した身体は…フロイトが(原抑圧としての)固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

サントーム=女性の享楽=享楽自体
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
S(Ⱥ) =女性の享楽
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de L femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exitことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)

母の欲望Ⱥ、女性の享楽S(Ⱥ)
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。
そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。
フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.
神の系図を設立したフロイトは、父の名において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。
こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)





S(Ⱥ) =神の別の名=超自我
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de L femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)

大他者はない。この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ

il n'y a pas d'Autrece grand S de grand A comme barré S(Ⱥ)]〔・・・〕


「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。


La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン, S23, 16 Mars 1976

一般的には神と呼ばれるものは超自我の作用である。c'est-à-dire ce qu'on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)

S(Ⱥ)とLȺ femme
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« LȺ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

サントーム=ひとりの女・他の身体の症状
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtre は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現 une émergence de jouissanceである 。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《ひとりの女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)

サントーム=シニフィアンと享楽がある

ラカンが症状概念の刷新として導入したサントームは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである[ce que Lacan a amené …c'est, avec la rénovation du concept de symptôme en sinthome, l'effort pour d'un seul trait écrire à la fois le signifiant et la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)

サントーム=1と身体がある
サントーム Sinthome は「1があるYadlun」と同一である。…ラカンは、症状を「1」に還元したのである réduit le symbolique à l'Un (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)
まさに享楽がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)

ラカンがサントームを「1がある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「1がある」は、シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。ラカンは言っている、2はないと。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら1である。しかしこの1は身体ではない。1と身体がある。[Lorsque Lacan réduit le sinthome à Y'a d'l'Un, il dégage comme son réel essentiel l'itération, …comme ce qui reste de l'articulation signifiante. Il voulait dire qu'il n'y a pas de deux. Il n'y a que le un qui se répète dans l'itération. Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

サントーム=一般化症状=固着=刻印
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もが持っている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
症状とはラカンが固着に与えた名である。Le symptôme est le nom que Lacan donne à la fixation (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Options lacaniennes de mars 1994)
症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel, de cette projection d'inconscient, de ce véritable criblage […] du parlêtre par le dire de deux conjoints. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 – 12/03/2008)
Sinthome Σ =S(Ⱥ) =対象a=S1[S1 sans S2]=固着
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。Σ としてのS(Ⱥ)  grand S de grand A barré comme sigma よ記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)

言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barréS(Ⱥ).(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

ラカンは、対象aの水準における現実界を位置付けようとした [tenté de situer le réel au niveau de l'objet petit a]。シニフィアンの固着の場においてである [à la place d'une fixation de signifiant]。もしそう言えるなら、それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。( J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 11/12/96)
現実界のなかのこのS1[Ce S1 dans le réel] が、おそらく、フロイトが固着と呼んだものである。私はこの用語をまさにこの今、想起する。無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、「単独的な唯一のシニフィアンsingulièrement le signifiant Un」である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「唯一のシニフィアンle signifiant Un 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。………
私は考えている、この「1と享楽の結びつきconnexion du Un et de la jouissance」が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。
この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2]を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
骨象 osbjet= 文字対象a[la lettre petit a]= 固着
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)



サントームと母の言葉(ララング)
サントームは母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
ララングlalangueは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の言葉[lalangue maternelle)]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。
ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(コレット ・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)