2019年2月26日火曜日

資本の言説の時代における「欲望の搾取」

欲望の搾取 exploitation du désir、これが資本の言説 discours capitalisteの大いなる発明である。(ラカン、Excursus, 1972)




危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。
私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)
資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

⋯⋯⋯⋯





資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。

しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。

「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸シニフィアン(S2)」との対話に至る。

これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)

市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。

期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。

生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。

資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)



欲望の主体$は、資本の言説において、「真理 S1」の不到達性から逃れるように構築されている。真理の場に到達しうるだけではなく、「知S2」に到るためには「真理」を通り過ぎなければならない。資本家の言説における真理は、占星術における地位と同じ地位である。

S1 → S2(左下から右上への斜めの矢印)は、資本家/労働者の転移がなされる。というのは、生産において仲介するものは、労働力のノウハウだから。…

S1が知を所有していないなら、何が命令する能力を与えるのか? 答えは金融力である。労働者は命令に従って生産する。彼等はマルクスが見出した剰余価値の秘密を生産する。われわれは知っている、マルクスにとってーー誰もがこの点においては異議をとなえない--労働力は、小麦や鉄と同様の「商品」になるという事実によって、資本主義は特徴づけられることを。したがって、資本主義において、剰余享楽 (a) は剰余価値の形態をとる。

剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵を見出すことを意味するのは、、剰余享楽の必然性は、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていることを認めることである。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が、消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないなら、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie)…

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(ピエール・ブリュノ Pierre Bruno、capitalist exemption, 2010)

⋯⋯⋯⋯


以下、主人の言説から資本の言説への移行の最も基本的な注釈を掲げておく。

■Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf)より



① $ (欲望の主体・言語によって分割された主体)とS1 (主人)は場所替えをしたこと。
② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。
③「動作主agent」と「大他者Autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。

これは上に掲げた図の 「$ とS1の場所替え」以外に、(言説のベースにある形式的構造の)次の図の左から右への移行を叙述している。


ふたつの図をまとめて日本語で図示すればこうなる。




以下、同様にStijn Vanheule 2016から引用する。

三つの変更の影響は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、五番目の言説の特徴ではなくなった。われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係性しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。

実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている)。……

…資本の言説において、主体性は腐蝕させられる。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、主体を混乱させる身体上の緊張との距離の喪失である(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016,)

この移行は、1970年前後(1968年「学園紛争」後)に始まり、1989年「マルクスの父」の消滅以後、決定的になった。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


最後に「資本の言説の時代における主体の変容」について。

(資本の言説における)$ から S1 への動きは、主体の分割の構造的質の否認をもたらす。資本の言説は主体の分割から出発する。しかし、S1 に向かう動きが暗示するのは、主体の分割は、主人のシニフィアンへの疎外(同一化)を通して克服されうるということである。

これは倒錯的運動を物語っている。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する que le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, 》(ラカン、S18)

資本の言説においては、S1 は主体の穴を補填するように促されている。
どちらの場合も、主体の穴は埋め合わせ可能だと信じられている。この理由で資本の言説はしばしば一般化された倒錯の用語で叙述される(Mura, 2015)
(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016)



子宮から子宮へ

ギリシア語 tumbos とラテン語 tumulus は、「膨れる、受胎している」という意味のラテン語 tumere と同語源である。すなわち、墓とは子宮であった。

以下、主にフロイト・ラカンにおける「子宮から子宮へ」についての考え方を示す。


【原トラウマ】
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

フロイトは「出産外傷」を「原不安・原トラウマ」と等価なものとして扱っているが、分析治療の対象としては否定している。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)


【ラカンによる出産外傷・原初に喪われた対象】
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラlamelle(≒羊膜)での場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a (喪われた対象)について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である(ラカン、S11、20 Mai 1964)
・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーー『原抑圧の穴」とあるが、ラカンにとって穴とはトラウマのことである。「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」(S21、19 Février 1974)



【享楽の主体】
私は、神秘的な架空の主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance」と呼ぶ。⋯⋯⋯

享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望の主体$(欲望する主体 sujet désirant)としての基礎を構築する。constituer le fondement comme tel du « sujet désirant »、(ラカン、S10、13 Mars 1963)




【廃墟となった享楽への回帰】

ここで冒頭に引用した前年のセミネール9の発言を思い出そう。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

欲望の主体$は、Aを復活させようとするのである。あの廃墟となった享楽を。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【去勢の原像】

上に記してきたラカンの思考は、フロイトの「母の去勢」「去勢の原像」等の文脈のなかにある。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ラカンは「母の去勢」について次のように言っている。

母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)

これについてはポール・バーハウの簡潔な注釈を掲げておこう。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

ーーより詳しくは、「女陰の奈落」を参照のこと。


ここまで記してきた内容を図示しておこう。

原エロス・原エロスは、フロイト・ラカンにとって次の状態である。





以下、トーラス円図を利用して図示する。









フロイトにとってエロス/タナトスは、次の語彙群に相当する(参照:「受動性と能動性(女性性と男性性)」)。






【母胎内回帰・母なる大地回帰】

トーラス円図などをまぜて示した上の図の最後の円の内容は、次のフロイト文にある。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


上の記述とほぼ同じことだが、フロイトはこうも記している。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


【享楽と去勢】

最晩年のラカンは、享楽と去勢を等置しているが、これは事実上、享楽喪失=去勢という意味である。


享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)


⋯⋯⋯⋯

以上、最も簡潔に図示すれば、フロイト・ラカンにとっての人間の生とは次のように示しうる。




下段は、人間の生は回帰運動(融合欲動)がベースにありつつも、究極の融合(死)を怖れ、分離欲動が働くということを示している。


この図は、中井久夫=安永浩によるファントム空間の「発達」図とほとんど同じ意味内容をもっている。






安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


あるいは、谷川俊太郎において、少年時代から老年にかけて生涯貫いているひとつのテーマとしての「おとし物」は、フロイト・ラカンにおける「原初に喪われた対象」を示しているとさえ捉えうる。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ   谷川俊太郎



空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー六十二のソネット「41」


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

ーーなんでもおまんこ


2019年2月24日日曜日

女陰の奈落

【玄牝之門】
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)


【すべての生が出現する女陰の奈落】
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)


【ブラックホール・母なる鰐の口】
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。

toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte (Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


【あなたを貪り喰う母】
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、,La logique de la cure、1993)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われるから。(フロイト『女性の性愛』1931年)


【母なる超自我・母の法】
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


【エディプスの背後にある母なる穴】
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)


【負けるのは常に男】
不安セミネール10(1962ー1963)において、le moins phi (– φ)は、もはや想像的去勢・象徴的去勢 castration imaginaro-symboliqueではない。そうではなく器官の(– φ)[le -φ de l'organe]である。…(– φ)は事実上、もはや去勢のシンボル symbole de la castrationではない。そうではなく男性器官 organe mâle の肉体的属性 propriété anatomique である。そしてこの男性器官は、力能の想像化 imaginarisation de puissance とはまったく相反する。なぜなら享楽の瞬間 moment de sa jouissance に、この男性器官を襲う萎縮 détumescence があるから。…

フロイトの真理 vérité de Freud において、去勢 castrationは、女性のペニス不在 absence de pénis de la femme の把握に基盤がある。対象関係論(セミネール4)のラカンは、この分析的ドクサ doxa analytique に則って、想像的レヴェルでの「女性にとっての劣等感 sentiment d'infériorité chez la femme」を語った。…

以前のラカンはこのように、象徴的弁証法においてdans la dialectique symbolique、女性はマイナスサインを以て入場する la femme entre avec le signe moins とした。なぜなら対象の欠如は、徴示化されるファルス phallus signifiantisé 、ファルス的象徴対象 objet symbolique phallique だから。だがセミネール10「不安」以降、それはまったく異なるのである。…

このセミネールで、あなた方は、かつての構築物への「偉大なるボロ切れ化ショット grand coup de chiffon」を見るだろう。「剥奪 privation」、「フリュストラシオンfrustration」、「去勢 castration」、「想像的ファルスと象徴的ファルス phallus imaginaire et symbolique」を基盤としたすべての構築物を拭い去る「ひと突き」である。…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ ça saute aux yeux 」と。…

最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…

不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)



【性交は母への回帰・降伏】
宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)
どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1990年)
大いなるなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(Camille Paglia , No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality, 1994)



【不気味な陰門】
風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


【不気味なものと外密】
われわれにとって最も興味深いのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの・気持のいいもの des Heimliche が、不気味なもの・秘密のもの des Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、1985)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
(フロイトの)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)



【欠如の欠如】
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)は⋯⋯欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
私は、対象の、考えうる唯一の概念、欲望の原因 cause du désir としての対象、欠如しているもの ce qui manque の対象を考えだした。

欠如の欠如 manque du manque が現実界を生みだすのである。それは唯一、穴埋め(コルク栓 bouchon)として、そこに現れる。

このコルク栓は、不可能という語によって支えられている。現実界についてわれわれが知っている僅かなことは、本当らしく見えるもの vraisemblance すべてへのアンチノミーを示す。(Lacan、AE573、1976)
ラカンの「欠如の欠如 Le manque du manque 」は、(現実界としての)対象aの概念に包含されるものである。その理由で、《不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet》(S10, 6 Mars l963)

「不気味なもの」の側に位置する「欠如の欠如」という定式を具体的に示すために、ひとつの事例を取り上げよう。毟り取られた眼のイメージである。…

このイメージの不気味な側面を分析するとき、人は通常、二つの事態を指摘するだろう。

①眼の代わりに、二つの空洞が顔のなかで大きく開いている。
②身体から引き離された眼自体は、幽霊のような不可能な対象として現れる。

第一の点について、人は空洞が怖ろしいのは欠如のせいだと想定しがちである。不定形の深淵へと引き込む空虚が恐いと。だが本当の幽霊的なものとはむしろ逆ではないだろうか?

すなわち無限の奈落、主体性の測り知れない底無しの側面への裂開をーー想像的水準でーー常に暗示するあの眼(人間の魂への開口として捉えられる眼)、その眼の代わりにある穴は、あまりに深みのない、あまりに限定されたものであり、眼の底はあまりに可視的で近くにありすぎる。

ゆえに怖ろしいものは、たんに欠如の顕現ではない。むしろ《欠如が欠けている manque vient à manquer》ことである。すなわち、欠如自体が取り除かれている。欠如はその支えを喪失している。人は言いうる、欠如はその象徴的あるいは想像的支えを喪失したとき「たんなる穴」、つまり対象になると。それは無である。文字通り見られうるものとして居残った無である。

同時に、いったん眼が眼窩から除かれたとき、それは即座に変容する、魂への開口から全く逆の過剰な「おぞましいもの abject」の開口へと。この意味で、毟り取られた眼は、絶対的な「剰余」である。それは、プラスとマイナス、欠如とその補填の象徴的経済のなかに再刻印されえない剰余である。

…ラカンは主張している、「去勢コンプレクス」は不安を分析するための最後の一歩ではないと。去勢コンプレクスは、フロイトの分析とホフマンの砂男における「不気味なもの」の分析の核であったが。ラカン曰く、もっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、《主体のなかに刻印されている構造的罅割れ vice de structure》があると。…

ラカンがフロイトを超えて進んでいった点は、去勢不安を退けた点にあるのではなく、テーブルをひっくり返した点にある。ラカンの主張は、不安の底には、去勢恐怖や去勢脅威ではなく、「去勢自体を喪う恐怖あるいは脅威」である。すなわち「欠如という象徴的支えを喪う」恐怖あるいは脅威である、ーー象徴的支えは去勢コンプレクスによって提供されているーー。これがラカンの不安の定式、《欠如が欠けている manque vient à manquer》が最終的に目指すものである。

不安の核心は「去勢不安」ではない。そうではなく、支えを喪う不安である。主体(そして主体の欲望)が象徴構造としての去勢のなかに持っている支えを喪う不安、これが核心である。この支えの喪失が幽霊的な対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如は、絶対的「過剰性」として象徴界のなかに現前する。この幽霊的対象は、「欲望の対象」を駆逐し、その場処に「欲望の原因」を顕現させる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005)


【欲望の原因】
フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)
ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマ agalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)




2019年2月20日水曜日

ボロメオの環変奏

ラカンのボロメオの環の正式版は次の通りである。



ここでは、いくつかのヴァリエーションを示す。





ーーマテームを上のように置いた理由は、「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」を参照。ここでは簡易図表のみを示しておく。




まず、いくらかの用語注釈。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

想像界はなによりも先ず、文字通りのイマージュである(後詳述)。


■空集合∅について

∅とは、《穴としての空集合 le trou comme ensemble vide (Ø)》[参照であり、身体の出来事である。身体の出来事はサントーム(原症状)、フロイトの固着のことである(参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群)。

ラカンはフロイトの固着を、骨象・文字対象aとも呼んだ。骨象aとは、身体に突き刺さった骨である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER 、2001年)


■ファルスΦについて

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971)

このファルスの意味作用によってモノの殺害が起こる。

シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死 mort は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)

このモノの殺害が、ラカン派における「去勢」の最も基本的意味「象徴的去勢」である。

去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (Lacan, S17, 18 Mars 1970)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


■フェティッシュφについて

ラカンがボロメオの環において「sens」と記すときの意味は、直接的には「意味の享楽 sens-joui (Js)」だが、事実上は「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche」のことである。

対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet » dans la dernière leçon du Séminaire XXIII.(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)
対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993年)



フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」である(ラカン、S10、16 janvier 1963)
ラカンが不安セミネール10で詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004)


以下、最も基本的なフェティッシュについての観点も付記しておく。

フェティッシュは、女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)
母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン、E877、1965)
(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)
ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である(a/−φ)。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年)


■去勢(-φ)について

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

以上が、それぞれの用語の概ねの意味合いである。





■去勢の原像

出産外傷としての去勢の原像についても付記しておこう。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

⋯⋯⋯⋯

次に「イマージュ」についてもういくらか詳しく記す。

フロイトの「事物表象 Sachvorstellung」と「語表象 Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」(イマージュ)と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)

ここでフロイト概念を、ラカンのボロメオの環のなかに置いてみよう。




ところでラカンは想像界の箇所を身体ともしているが、これは身体のイマージュということである。

( La troisième 、1-11-1974)

この身体のイマージュは、現実界→象徴界を経由した想像界の身体であり、言語によって殺害された身体である。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)

つまりイマジネールな身体とは、本来の身体的なものではなく、心的なものに属する。これが前期ラカンの身体である。

だが後年、次のように言う。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

ラカンが「身体は穴」というときの穴とは、身体は想像界と現実界の重なり箇所を示している。

(S23, 13 Avril 1976)


ところで、想像界(イマーゴとしてのイマージュ)は、フロイトの自我 Ichでもある。

イマーゴとしてのイマージュimage comme imagoをフロイトは「自我 le moi」と呼んだ。(Jacques-Alain Miller, L'Être et l'Un, 18 mai 2011)

したがって、フロイト用語の「自我」と「エス」を想起しつつ再度、フロイト版のボロメオの環を別の形で示せば次のようになる。






フロイトはエスと自我の関係について次のように言っている。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)


ラカン版とフロイト版を横並びにしておこう。



ラカンはこうも言っていることを付け加えておこう。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

穴とはラカン用語においてトラウマのことである。

現実界は、⋯「穴-トラウマ troumatisme 」をつくる ラカン、S21、19 Février 1974 )
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。よ(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

⋯⋯⋯⋯

ところで若きニーチェはこう言っている。

言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される。(⋯⋯)

人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)

この考え方をボロメオの環で示せば、次のようになる。




ニーチェにおいては、ラカンの「身体の出来事」、フロイトの「リビドー固着」の箇所が、「神経刺激」となる。

ニーチェの記述にあるように、神経刺激とは、人間と動物とに共通なものである。では、ラカンの「身体の出来事」、フロイトの「リビドー固着」も同様に、人間と動物とに共通なものと言いうるだろうか? ーーおそらく(ほぼ)そう考えうると私は思う。

以下の図表は、フロイトとラカン概念の対照表である。どの語彙・表現もフロイトの「固着」、あるいは固着による症状に帰結する。


ーーより詳しくは、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」を参照。




最後に動物の外傷神経症をめぐる中井久夫の記述を掲げておこう(参照:「動物の外傷神経症」)。

「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。それは、一つは「PTSD(Rを含む)にかかっている精神科医はPTSD(R)を診断することが困難である」という点にある。これは災害時だけでなく、自身に傷口が開いたままの外傷を持っている治療者には平時においても起こることと考えなければならない。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。(⋯⋯)

ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)



2019年2月15日金曜日

動物の外傷神経症

動物は端的に苦痛を表出し、強迫とヒステリー行動を示し、生命にかかわる拒食や変形を残す自傷を行い、時に死ぬが、また適切な精神療法に反応し、臨床心理士の実習に取り入れてよいとさえ思われる。ただ、擬人化した思い込みは、ある程度は人間の本性に根ざしたもので避け難い。しかし、その自覚は必要だろう。

「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。それは、一つは「PTSD(Rを含む)にかかっている精神科医はPTSD(R)を診断することが困難である」という点にある。これは災害時だけでなく、自身に傷口が開いたままの外傷を持っている治療者には平時においても起こることと考えなければならない。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。(⋯⋯)

ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)
⋯⋯⋯⋯

以下、上に2番目に引用した「トラウマについての断想」をもう少し長く抜きだす。

一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。私は獣医学にうといので、私自身の観察を挙げる。

1995年1月17日未明の阪神淡路大震災の直後から、私は折にふれてペットを観察した。多くのペットの受けたダメージはその飼い主であるヒトをはるかに凌ぐものであった。この地域は六甲山の北側であって地盤がよく、家屋損傷に留まり、震度は5程度であったかと思われる。

〔症例1〕 ある裕福な家庭のゴールデン・リトリーヴァーは、せっかくの訓練が全部抜けてただの甘え犬になった。初対面の私にもすりよってきた。(……)

〔症例2〕 一軒屋の家屋に接した犬小屋にいた雑種犬は、通りかかる人にいつも垣根の端から端まで吠えていた犬であった。震災の朝も彼は繋がれていなかったと思われる(……)が、道に面した凸レンズ形の庭石の上に「忠犬ハチ公」の姿勢で不動であり、前に立つ私を眼にもとめなかった。8カ月後にようやく私を認めて一声弱々しくワンと吠えた。彼が石を離れた時1年を越えていた。2、3年後には多少は吠えるようになっていたが、かつての元気が戻ることはなかった。(……)

〔症例3〕 震度6―7の地域のマンションの2匹の飼い猫である。若い1匹は本に押しつぶされたが、8歳のもう1匹は機敏に安全な場所に逃れた。大学英文科教授の夫人は、猫がおかしい行動をすると私に語った。その後まもなく、彼は、夫婦を起こすようになり、起きるまで髪の毛を前肢で掻くのであった。(……)起こすのは、朝の5時台で、必ず震災の起こった5時46分より前であった。(……)ちなみに、朝寝坊であった私も、震災以後、強力な睡眠薬を使用した数度を除いて、必ず、5時46分以前に目覚めて今に至っている。ちょうど、その時刻に目覚めることがある。このことを意識したのは、この猫をみて以来であった。最近、時刻の生物時計の全身細胞への分布が明らかとなっている。……

〔症例4〕 垣根の中で放し飼いだった2匹の犬は、震災直後も前同様、通りかかる私に吠えてやまなかった。この犬の飼い主にたまたま会った。犬は2匹とも2年以内に亡くなっていた。

(……)私が挙げた動物症例では、ペットに比して飼い主の地震に対する反応は非常に軽い。それはどうしてであろうか。さまざまな付随的事情が飼い主に有利なこともあろうが、ヒトが開発した言語の存在が大きいと思われる。言語は伝承と教育によって「地震」という説明を与えた。家族、近隣との会話を与えた。そして、ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。記憶はそもそも五官ではなしえない「眼の前にないものに対する警告」として誕生した可能性がある。外傷性記憶は特にそうである。その鮮明な静止的イメージは端的な警告札である。一般にイメージは言語より衝拍が強く、一瞥してすべてを同時的に代表象REPRESENTしうる。人間においてもっとも早く知られたフラッシュバックは覚醒剤使用者のそれである。そもそも幼児記憶も同じ性格を帯びており、基本的な生存のための智慧はそれによって与えられている。外傷性記憶が鮮明であるのに言語的な表現が困難であるのは、外傷という深く生命に根ざした記憶という面があってのことと思われる。「回避」はもっとも後まで残る症状とされるが、これは動物が主にそれによって行動するような言語以前の直観によるものであると私は思う。私がなぜ回避するかは、理屈はつけられるだろうが、実状は「いやーな感じ(あるいは恐怖のようなもの)がしてどうしても足が向かない」のが回避である。したがって、心的外傷は、言語によって知られる他の精神障害の多くより伝達性に乏しい。言語化しにくいだけではない。痛みというものは訴えても甲斐がない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

⋯⋯⋯⋯

次にフロイトにおける「外傷神経症」定義文である。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1916年)

⋯⋯⋯⋯

中井久夫は《心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない》と言っているのを示したが、ラカンにおいて現実界はトラウマのことである。

ジジェクは、現実界について、次のように定義しているが、これは後期ラカン観点からいえば誤謬である。あるいは現実界の一つの相しか示していない。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」=親密な外部 extériorité intime である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pastout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ジジェクのこの定義は、「簡潔版:二つの現実界」で示した現実界①、つまり象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」にのみ関わる。

現実界①とは、ラカンが次のように言うときの現実界である。

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

他方、この現実界①とは別に、後期ラカンにおいては現実界②がある。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在(法なき現実界)を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


ラカンにとって現実界とは穴=トラウマのことであり、ジジェクの現実界は、下記の図の象徴界の穴のことである(現実界①)。


ジジェクの現実界の定義は、想像界と現実界の重なり箇所の「真の穴 vrai trou」への言及がまったく欠けている。だがこの真の穴が、現実界②である。

この真の穴は、フロイトの「トラウマへの固着」(リビドー固着)のことであり、言語を使用しない動物にもおこる「身体の上への刻印」である。

サントームの永遠回帰


このトラウマへの固着は、まさに、中井久夫が言っている《心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない》にかかわるトラウマ的出来事の身体の上への刻印、あるいはその刻印による反復強迫なのである。









簡潔版:二つの現実界

以下、「「二つの現実界」についての当面の結論」と「女性の享楽は享楽自体のこと」の簡潔版である。

⋯⋯⋯⋯

象徴秩序(言語秩序)のなかには現実界の機能(テュケー)がある。

シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それがオートマトン αύτόματον [ automaton ]であり…他方、テュケー τύχη [ tuché ]は現実界との出会い rencontre du réel と定義する。(ラカン、S11, 05 Février 1964)
テュケーtuchéの機能、出会いとしての現実界の機能fonction du réel ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。(ラカン、S11、12 Février 1964)

ここでのオートマトンは見ての通り、象徴界のなかの自動連鎖(機械)という意味で、晩年のラカンの《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire 》(S 25, 10 Janvier 1978)という意味でのオートマトン(自動反復)とはまったく異なる。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

ラカンが上のように言うときは、フロイトの《反復強迫 Wiederholungszwang》、あるいは身体の《自動反復 Automatismus 》のことである(後述)。

現在、主流臨床ラカン派では「二つの現実界」ということが強調されている。それは1975年「サントーム」のセミネールでラカンが示した二つの穴に直接的にかかわる。




ラカン用語において穴Trou(トラウマ)とは現実界のことである。

現実界が…「穴=トラウマtroumatisme 」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

上のボロメオの環図式における象徴界のなかの穴が、「象徴界のなかの現実界の機能」である。他方、想像界と現実界の重なり箇所にある「真の穴」が、フロイトの「リビドー固着による反復強迫としての現実界」である。

現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)


以下、現実界①と現実界②として記述する。



現実界①とは、象徴界(シニフィアンのネットワーク)のなかの自動反復(オートマトン)の裂け目に、偶然として不可能な現実界との遭遇があるということである。フロイトの「自由連想」もこの審級にある。科学的現実界も同様。


ラカンが次のように言うときは現実界①である。

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel : ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)


上にもいくらか引用したが、ラカンが次のように言うときは、現実界②である。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在(法なき現実界)を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


法なき現実界は、ジャック=アラン・ミレールの次の文に現れる。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)


現在の主流臨床ラカン派(コレット・ソレール、ジャック=アラン・ミレールに代表される)においては、ラカンはセミネール20「アンコール」の後半で移行があったとされている。上のミレール文は、アンコールにおける名高い「性別化の式」のデフレ(価値下落)を示している。


そしてこの現実界②とは、フロイトの反復強迫のことである。この反復強迫は、リビドー固着(身体の上への刻印)による自動反復である。フロイトは「トラウマへの固着」とも呼んだ(参照:リビドーのトラウマへの固着)。

私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, Le PartenaireSymptôme 19/11/97)
フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwangの作用、その自動反復 automatisme de répétition( Automatismus)の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

フロイトから抜き出せば次の通り。

「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ミレールによる次の文における「反復」を「オートマトン」(=現実界の「自動反復」)に置き換えて読めばここで言っていることが瞭然とするだろう。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

中期ラカンにおいてもすでにフロイト語彙に準拠しつつこう言っている。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

モノ、すなわち、《フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。》(ラカン、S23, 13 Avril 1976)



2019年2月10日日曜日

固着文献

次に示した語彙群はすべて等価の内実をもっている。ようするに人間の原症状(サントーム)は、すべて「リビドー固着」としてよい。





⋯⋯⋯⋯

【固着とサントーム】
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)
症状(原症状・サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


ーーフロイトのいう「幼児期の純粋な出来事的経験」とラカンのいう「身体の出来事」は、同じ意味である。


【固着と享楽】
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


【固着=サントームΣ=S(Ⱥ) =S1 sans S2】
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions》(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller, L'être et l'un、2011)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)

上に《サントームsinthome=S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps 》とあったが、ラカン派における「自閉症」とは、サントームのことである。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)



【原抑圧(固着)と穴】
「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧 Die Verdrangung』1915年)

ラカンが次のように言うとき、ほとんど上の文のパクリのようである。

私が排除Verwerfungというとき、……問題となっているのは、原シニフィアンを外部の闇へと廃棄することである。ce rejet d'une partie du signifiant (signifiant primordial) dans les ténèbres extérieure (Lacan, S3、15 Février 1956)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


上のボロメオの環の象徴界のなかの穴Trouが、象徴界のなかの現実界の機能であり、想像界と現実界に重なり箇所の真の穴vrai trouが、 リビドー固着(原抑圧)であり、人が感知しうる真の現実界である。

現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)


【現実界と穴】
現実界が…「穴=トラウマtroumatisme 」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


「夢の臍 Nabel des Traums」 とは、「我々の存在の核 Kern unseres Wese」のことである(『夢解釈』)。フロイトは別に「菌糸体 mycelium」とも呼んだ。これらの概念は、次の項の「欲動の根Triebwurzel」と等価である。



【欲動の根・抑圧の根(原抑圧)】
たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることが明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
フロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )


【固着と「一のようなもの Yad'lun」】
《一のようなものがある Yad'lun 》とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)
サントーム……それは《一のようなものがある Y a de l’Un》と同一である。
si je veux inscrire le sinthome comme un point d’arrivée de la clinique de Lacan (je l’ai déjà identifié à ce titre).Une fois que Lacan a émis son « Y a de l’Un »(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

ようするに、リビドー固着があるゆえに、「性関係はない」である。


【固着と骨象】
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)


【異物と異者としての身体】
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷 ichfremde 部分である。…ichfremde Stück der Innenwelt statt, das durch das Symptom repräsentiert wird (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)


【リビドー固着と残存現象(=異物)】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【トラウマへの固着と不変の個性刻印(我々の存在の核)】
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
フロイトは『夢解釈』にて「原無意識」に相当するものを、「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」 ・「菌糸体」mycelium」「夢の臍 Nabel des Traums」と呼んだ。それは決して表象されえない。しかし固着過程を通して、背後に居残っている。フロイトはこれを「原抑圧」と呼んだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)


【モノと外密(=対象a)】
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)


【モノと穴】
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
モノは無物とのみ書きうる la chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


【モノと反復強迫】
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu (=モノ)の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )


【不気味なものと反復強迫】
心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


【不気味なもの Unheimlicheと外密 Extimité】
われわれにとって最も興味深いのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの・気持のいいもの des Heimliche が、不気味なもの・秘密のもの des Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、1985)


【不気味なものと女性器】
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)は⋯⋯欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)

ーー《欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。》(Lacan、1976、 AE573)



【去勢(穴)と享楽の控除】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

ようするに、去勢 (- φ) =享楽控除 (- J)  =穴 Ⱥ である。


【モノとȺ】
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

ーー去勢 (- φ) =享楽控除 (- J)  =穴 Ⱥ=モノ das Dingである。



【身体という大他者、母という大他者(モノ)】
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
原大他者 Autre primitif は母である。(ラカン、S4、06 Février 1957)
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

ようするに原大他者側にも、主体側にも穴Ⱥがあいている。つまり去勢(- φ) がある。したがって穴埋めしなくてはならない、《-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。》(ミレール 、2011)





【去勢の原像と原初に喪失したもの】

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

もっともフロイトは、オットー・ランクの『出産外傷 Das Trauma der Geburt』に触れつつ、ランクの観点、《子供は出産にさいして、特定の感覚的印象、ことに視覚的印象をうけていて、この印象を新たにするとき出産外傷の記憶 Erinnerung an das Geburtstrauma、ひいては不安反応 Angstreaktion をひき起こしうるという前提》に反対して、《子供が出産過程 Geburtsvorgang について、触覚や一般感覚 taktile und Allgemeinsensationen 以上のものをもっているとは考えられない》(『制止、症状、不安』第10章)としている。

だが死の枕元にあったとされる草稿には、こうもあるのである。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【モノと享楽の空胞】
享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)
現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)


………


上に掲げた語彙群以外に、ラカンの「自ら享楽する身体」「他の身体の享楽」「他の身体の症状」「ひとりの女」「女性の享楽」等は、すべてリビドー固着、あるいは固着による反復強迫である。





【自ら享楽する身体と自体性愛】
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール, L'être et l'un、2011)

-ーー「性関係はない」とは、固着ゆえの・自体性愛ゆえの非関係である。

穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体(リビドー固着)のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


【他の身体の症状とサントーム】
穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは、「身体の出来事 un événement de corps」(AE569)、享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」「一人の女 une femme」でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant )
女性性 féminité は、女たちにとっても異者 étrangère である。……

ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)


【サントームと女性の享楽】
純粋な身体の出来事(サントーム)としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


【享楽と自体性愛】
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
女性の享楽(「他の享楽 autre jouissance」)、それは社会的結びつきから排除されたものである。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)

ようするに享楽あるいは女性の享楽あるゆえの、「性関係はない」である。


【自体性愛と原ナルシシズム】
愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次的ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
・同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。

・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)

ーーリビドー固着が自体性愛の核心である。

(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーにもまつわりつかれている(備給されているbesetzt)こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。

ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)


【自体性愛=原ナルシシズム=自閉症的享楽】 
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)

【固着=サントームΣ=S(Ⱥ) =S1 sans S2】の項で、これらの用語はラカン派における「自閉症」と等価であるのをみたが、「原ナルシシズム」・「自体性愛」も同じく等価である。



【自体性愛と異物】
フロイトは、幼児が己れの身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. (LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ーーこの発言後、ラカンは症例ハンスをめぐって語り、「自体性愛 autoérotisme」に反対する理由を、「異物 (異者étrangère)」という語によって説明している。要するに、上の文に現れる「ヘテロ的 hétéro」とは、「異性の」という意味ではなく、「異物の」という意味である。

フロイトは性的現実を自体性愛的と呼んだ。だがラカンはこの命題に反対した。性的現実は興奮・小さな刺し傷との遭遇に関係する。「遭遇」が意味するのは、自体性愛的ではなく、ヘテロ的、異物的である。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体性愛的だと言われる。だが、私の観点からは、これはフロイトとその幼児性愛の誤った読解である。

…幼児は部分欲動から来る興奮を外的から来る何か、ラカンが文字「a」にて示したものとして経験する。幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母(母なる大他者)の反応を通してのみ、子供は、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005年)

自体性愛とは実質上、異物愛である。


【母による身体の上への刻印(固着)という異物】
享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係している。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・

享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)



【自体性愛と去勢】
《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


【サントームと反復強迫】
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)



【性別化の式のデフレ】
ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)



【他の享楽=身体の享楽=女性の享楽】

アンコール以後のラカンにおいて、性別化の式のデフレがあっても、語彙的には、他の享楽=身体の享楽=女性の享楽である。

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacan,20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


【自動反復と現実界】
この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, Le PartenaireSymptôme  19/11/97)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwangの作用、その自動反復 automatisme de répétition( Automatismus)の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)


【死の欲動と享楽】
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

以上、上に掲げた次の二図が、フロイト・ラカンにおける原症状にかんして何よりも肝要である。



人は、数多くの専門用語に騙されないために、まずは「リビドー固着」とは何なのかをしっかり把握すべきである。

もっとも殆どに人はそんなことはムリであろうから、そうであるなら、まず原初のおとし物を思考したらよいのである。


【おまんこというおとし物】

かなしみ   谷川俊太郎


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった


六十二のソネット「41」

空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする



なんでもおまんこ


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ



【喪われた子宮内生活への回帰運動】
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


【知の欲動の起源】
小児の性生活が最初の開花に達するのと同じ時期、つまり三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知の欲動あるいは探究欲動 Wiß- oder Forschertrieb にもとづく活動の発端が現われてくる。

この欲動は、本源的な欲動成分 elementaren Triebkomponenten とみなすわけにもゆかず、またセクシャリティSexualität だけに区分することもできない。この活動は一方では独占 Bemächtigung の昇華された仕方 sublimierten Weise に対応し、他方では覗見欲Schaulustのエネルギーを用いて行われる。しかし性生活への関係がとくに重要なのであって、それというのは、小児たちの知の欲動 Wißtrieb は思いもよらないほどに早く、また意想外に激しい仕方で、性的問題 sexuellen Problemen に惹きつけられる、いやそれどころか、おそらくは性的問題によってはじめて目ざめさせられる、ということをわれわれは精神分析によって知ったからなのである。

小児における探究活動の働きを進行させるのは、理論的な関心ではなくて、実践的な関心である。次の子供が実際に生れたり、やがては生まれるという予想のために自分の生存条件が脅かされたり、またこの出来事と関連して、親の愛や庇護を失うかもしれないと恐れるために、小児は物思いがちになったり、敏感になったりするのである。この探究活動の発達段階において、小児が熱中する最初の問題は、性差 (ジェンダー差異 Geschlechtsunterschiedes)の問題ではなく、子供はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎である。(フロイト『性欲論三篇』)

ーーフロイトは、「出産外傷 Das Trauma der Geburt」、母への「原固着 Urfixierung」、「原抑圧 Urverdrängung」、「原トラウマ Urtrauma」用語を等価なものとして扱っている(『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)。

⋯⋯⋯⋯

最後に上に掲げた語彙群を「死の欲動・反復強迫関連語彙群」として、そのエキスの語彙を抽出して示しておく。