2017年4月19日水曜日

二者関係先進国日本

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

…………

以下、雑に要点をまとめたもの。

肝腎なのは《人間の思考はその人間の母語によって決定される》(ロラン・バルト)こと。単純に日本の「根回し」文化・「空気を読む」文化を批判しても何も始まらない。

いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980)

日本語が敬語的だとは、二者関係的だということ。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)

二者関係的とは、フロイト理論に依拠すれば「自我理想」が正常には機能しない国であるということ。自我理想とは「理念」と言い換えてもよい(もちろんこれは「一神教」文化とそうでない文化との相違にもかかわる)。

フロイトの『集団心理学と自我の分析』における名高い「自我理想」図は次の通り。




この図を、仏女流ラカン派分析家の第一人者コレット・ソレールは簡略化させて次のよう図示している。





この自我理想が機能しなければ、二者関係的になり、各自我は《一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である》という構造に陥る。これがたとえば「いじめ天国」日本の主要な原因のひとつであるに相違ない(自我理想が空位になれば、「自我⇔自我⇔自我」となって、二者関係的権力関係となる)。

重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

このバーハウ文や上の中井久夫の文は、ハンナ・アーレントの 《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》(『権威とは何か』)とともに読むことができる。

あるいは次のように引用してもよい。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できない享楽主義 inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016、pdf

いずれにせよ日本語遣いは、本来的に「悪の陳腐さ」の構造をもっている。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014、Paul Verhaeghe、What About Me? )

…………

日本語の二者関係性は、かつてはしばしば語られており、当時の「常識」(その後、この「常識」を覆す議論があったかどうかについては知らない’)。

日本語を見ておりますと、日本語で何か言うわけです。「私は生徒です」とか「これは本です」とか言っているわけですが、よく考えて見ますと、「です」というのはいったい何だろうか。「です」というのは話しことばですから「私」しかそれを言わない。あなたがそれを言う時にそれを私から見る場合に「です」と言うのはぜんぜん意味をなさないわけでしょう。「これは時計です」というのは、私が時計ですということを言うわけです。と同時に「です」の中に「あなた」が入っている。もし、目の前に非常に偉い、白いひげの生えたおじいさんが来たら、「これは時計でございます」と無意識に言ってしまう。それから前に弟とか息子が出てくると、「これは時計だ」と言うわけでしょう。すると「です」とか「でございます」とか「だ」とことになっている。(……)これは一人称的な性格を持っていると同時に、二人称の如何がそれに影響しているわけです。ですから、「だ」とか「です」とか「ございます」とかいう、いわゆる敬語というものは(……)実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。(……)

だから何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。(……)私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1974年)

ロラン・バルトの日本旅行論も同様の文脈で読みうる。バルトの《言葉の空虚な大封筒》(パロールの空虚な大封筒 une grande enveloppe vide de la parole)とは、時枝の風呂敷のこと。

……日本語には機能接尾辞がきわめて多くて、前接語が複雑であるという特徴から、つぎのように推測することができる。主体は、用心や反復や遅滞や強調をつうじて発話行為を進めてゆくのであり、それらが積み重ねられたすえに(そのときには単なる一行の言葉ではおさまらなくなっているだろうが)、まさに主体は、外部や上部からわたしたちの文章を支配するとされているあの充実した核ではなくなり、言葉の空虚な大封筒のようになってしまうのである、と。したがって、西欧人にとっては主観性の過剰のようにみえること(日本人は、確かな事実ではなく印象を述べるらしいから)も、かえって、空虚になるまで細分化され微粒化されて言語のなかに主体が溶解し流出してゆくようなこといなってしまうのである。(『記号の国』)

バルトの記号の国に刺激を受けて日本旅行をしたラカンが、その直後に書いたリチュラテールもほとんど同じことを言っている。

主体がおのれの基本的同一化として、 「単一の徴 le trait unaire」(=自我理想) にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。

日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法のもとに置かれていることから、強化している。 (ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, Autres Écrits所収)

他方、欧米語遣い(のほとんど)は、《主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる》、それは彼らの《言語のうえに跨がっている》(ロラン・バルト)。

……これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』)

ラカンなら《主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる》機能をファルスの機能と呼ぶ。

横棒 barre の機能はファルスと関係ないわけではない la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus. (ラカン、S20 )

ここでの横棒とは、ソシュールのS/s(意味するもの/意味されるもの)の横棒のこと。





この横棒がファルス=繋辞であり、日本語はその風呂敷構造(時枝誠記)により、仮に繋辞と似たものがあってもーー「助詞〈は・が〉」などや「である」等ーーその繋辞の機能は曖昧である。

繋辞が曖昧であるなら、存在論などというものはない。

存在論は、言語のなかの繋辞 copula の使用に脚光を浴びせる、繋辞をシニフィアンとして分離してだ。「あるêtre」という動詞に囚われることは…ひどく危険な大仕事だよ。そこには何もないのだがね、主人の言説(discours du maître )、つまり「私が有る m'être(私支配)」という言説が、「有る être」という動詞を強調しなかったら。(ラカン、S20)

もし「ある être」という動詞がなかったら、「存在」なんてものはなかったのだが。s'il n'y avait pas le verbe être, il n'y aurait pas d'être du tout.(S21)

こうして「理論的には」、ファルスや自我理想が正常に機能しない日本語を日常的に遣う者たちは、欧米語遣いとは違った風に「世界を眺め」ている、ということになる。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』)

もちろん文体として欧米文体がベースになっている日本語の書き手もいるだろうし、日本人でも欧米に長年居住していれば、「人が変わる」とことはあるだろう(それは、母語の箍が外れるということにもかかわる)。

 日本語遣いがかつてからこうだとしても、1968年の学園紛争による「権威の斜陽」、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」によって、世界的に、二者関係的な世界になっている、というのが、ラカンの「主人の言説」から「資本の言説」への移行の指摘(1972年)の重要な意味。



資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

ラカンは資本の言説の特徴を去勢の排除(精神病)だと言っているが、現代ラカン派はおおむね倒錯の用語で、資本の言説を捉えている。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)

精神病であれ倒錯であれ、神経症の三者関係(エディプス的関係)に対して、前エディプス的なのが「資本の言説」の時代。ラカンにとっての言説とは「社会的つながり」という意味であり、前エディプス的社会的つながりが主流になっている時代ということ。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。 (Lacan, ミラノ、1972)

日本は二者関係の先進国なのだから、バカの一つ覚えのように欧米理論に依拠せず、日本自体の構造を分析しなくてはならない。日本でも全面的に二者関係的ではなく、なにか第三項的なものが仮にわずかであれ機能していた時期があったはずだから。

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

重要なのは、父の名(自我理想)という権威ではなく、父の名の機能である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)

柄谷行人の「帝国の原理」は、「父の名の機能」と相同的。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

資本の論理に席捲されている現代、父の名の原理を模索しなくてはならない。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

あまりより例ではないが、仮に二項関係的な社会的つながりをもった日本においても、たとえば現在でも次のような形で「父の名」が機能している。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

これは「父の諸名」の名付けと類似している。

父の諸名 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである、(LACAN 、S22,. 3/11/75)

「一の徴 einzigen Zug」(単一の徴)という自我理想の徴は、日本でも機能しないことはないのである。

同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921)
「一の徴 trait unaire」、それは理想 idéalとして機能することになる原同一化の徴la marque d'une identification primaire である。(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

 「自我理想」の徴は機能しないことはないが、だがそのとき決定的なのは、リチュラテールの日本文化論だろう。再掲しよう。

主体がおのれの基本的同一化として、 「単一の徴 le trait unaire」(=自我理想) にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。

日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法のもとに置かれていることから、強化している。 (ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, Autres Écrits所収)

…………

二者関係的とは、別の言い方をすれば「差別的」だということ。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)

日本がいじめ先進国であるにしろ、世界的にも「いじめ」ーーレイシズム・ナショナリズム等ーーが顕著になってきたのは、権威の凋落によるところ大。

ノーベル賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンのひとりだったドリス・レッシングは、その自伝にて次のように言っている。

子どもたちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子どもが悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。(ドリス・レッシングーー「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles」 Paul Verlweghe 2000より)

2017年4月15日土曜日

佐々木中の名文「中井久夫賛」

知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。

この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。

まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。

それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)