2016年12月26日月曜日

1989年以降の世界の変貌

マルクス主義は、合理論的、目的論的な思考(大きな物語)として批判されてきた。実際、スターリニズムはそのような思考の帰結であった。歴史の法則を把握した理性によって人々を指導する知識人の党。それに対して、理性の権力を批判し、知識人の優位を否定し、歴史の目的論を否定することがなされてきた。それは、中心的な理性の管理に対して多数の言語ゲームの間の「調停」や「公共的合意」を立て、また、合理論(形而上学)的な歴史に対して経験の多様性と複雑な因果性を立て、他方で、目的のためにいつも犠牲にされてきた「現在」をその質的多様性(持続)において肯定することである。しかし、私が気づいたのは、ディコンストラクションとか。知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

…………


ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996初出『アリアドネからの糸』所収)

私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly、2004、『ジジェク自身によるジジェク』、私訳)

ドゥルーズの超越論的経験論(浅田彰、1996)

ドゥルーズは「超越論的経験論」という一見逆説的なことを言っている。ただちに経験論につく前に、いちど徹底的に超越論的であれねばならない、というわけです。

その立場から見たときに、カントはたしかに超越論的領野を発見したけれども、それを経験的領野の引き写しにしてしまうことで、超越論的な探求を中途半端に終えてしまった、ということになる。

つまり、「私とは一個の他者である」というランボーの言葉を先取りするような形で、超越論的な自己と経験的な自己の分裂、見方を変えれば自己の諸能力の分裂を発見しながらも、経験的領野において前提されていたデカルトの「良識(ボン・サンス)」につながるような「共通感官(コモン・サンス)」における諸能力の調和を密輸入することで、そのような分裂をあまりに性急に縫い合わせてしまった、ということになるわけです。

ただし、カント自身、晩年の『判断力批判』において、「美」の共通感官を論じたあと、「崇高」を論じたところで、それを超える方向を示している。その方向を徹底的に突き進めなければならない。

諸能力を、超越論的というより、超越的に使用すること、つまり、それぞれの能力がそれぞれの原理に従って行くところまで行くようにに仕向けてやることで、「ボン・サンス」や「コモン・サンス」の閉域を突き破り、やはりランボーが「あらゆる感覚の錯乱」と呼んだような非人称的な高次の経験へと突き抜けていかなければならない。そのような経験に定位するのが、高次の経験論、つまり超越論的経験論だということになるわけです。

そういう超越論的経験論の次元での超越論的領野は、さらに存在論の次元では「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるんですね。ドゥンス・スコトゥスが「一義的な存在」を提示し、スピノザがそれを「神即自然」として肯定し、ニーチェがさらにそれを動態化して「永遠回帰」と呼んだ。

この動態化のキーになるのは、「回帰とは生成の存在である」という規定で、それが示すのは、アナーキックな生成が行き着くところまで行けば自ずと堅固さ=一貫性(コンシスタンス)を持つ―――カオスー彷徨(カオエランス)とひとつであるような一貫性(コエランス)を内在的に獲得するということです。

もはやそれを超越する外部の点をもたないこのような領野が、「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるわけですね。

さらに、ベルグソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的differentielな諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化differenciarionの過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。

このように呼び方はさまざまですが、ともあれ、カオス的な領野があって、そこでは私も世界も多数多様な粒子と流束の群れになっているというわけです。したがって、それは独我論の対極に見える。

しかし、すべてがひとつの「内在平面」の内にあって、私も複数、他者も複数なのだから、そこに他者性はない。その意味で、ドゥルーズの哲学は、過激な独我論―――自我さえ必要としないほど過激な独我論だと言ってもいいのではないかと思うんです。

『意味の論理学』(69年)の付録でクロソウスキーとトゥルニエを論じているところを比較してみると、それがよくわかるでしょう。クロソウスキー論で描かれているのはまさに多数多様性の世界であって、カントにおいてまだ保たれていた自我と世界と神の統一性が解体し、すべてが多数多様な変容へと解き放たれる―――小説に描かれたアレゴリーで言うと、一個の身体の中に複数の霊が入ったり出たりして、狂気のような永遠回帰のロンドを踊るということになるわけですね。

ところが、トゥルニエ論の方では、そのような世界は実は孤島のロビンソンに対して現れるのだと言っているんです。ロビンソンが一人で島に流れ着く。それは他者のない世界なんですね。ドゥルーズは、他者というのは「可能世界の表現」だと言う。私の知覚野は狭いけれども、他者は私に見えないものが見えているかもしれないし、私に感じられないものが感じられているかもしれないし、そもそも、そのような他者がいるからこそ知覚野が共同主観的構造として整然と秩序化されているのだ、と。しかし、それは現象のレヴェルの問題にすぎない。たしかに、そういう他者がいなくなると、最初、世界の秩序が崩壊して、ロビンソンは非常な苦しみを体験する。しかし、それを突き抜けていくと、ロビンソン自身も島全体がエレマン(諸元素)の群れとなって立ち上がり、コスミックなロンドを踊り始める。フライデーが出てきても、他者としてではなく、すでにエレマンテールなものとして出てくるにすぎない。それがトゥルニエの偉大な独我論的ファンタスムなのだ、というわけです。

それと併せて見れば、ドゥルーズは、ニーチェからクロソフスキーに至る多数多様性のヴィジョンを、むしろトゥルニエ的な独我論の相で見ていると言えるのではないか。

もしそう言えるとしたら。それを具体的な「外」と接合していくきっかけになったのが、交通の人としてのガタリとの遭遇だ、というのが、最初に言った仮説の後半なのですけどね。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)より)

第二帝政期ツイート

Kim, Yi-Chul@kimarx 蓮實重彦の批評に存する主題のひとつを簡潔にまとめると、「日本は第二帝政期のような時代を迎えつつあり、まもなく書くことの倫理が問われる。その倫理を実践したボードレールやマラルメを準備するためには、ただし、コールリッジとポーが必要だ。私は彼らになれそうにないから、後は任せた」となる。

次のツイートは、第二帝政期ツイートの見本を示しているのだろう。

Kim, Yi-Chul@kimarx「マルクス主義とは、カール・マルクスに対してなされた誤解の総体である」というアンリの言葉をなぞると、「ドゥルーズ研究とは、ジル・ドゥルーズに対してなされた妄想の総体である」という感がある。実質、テクストを読んでさえいないとしか思えない解釈ばかりにつきあたる。

誰の、どういう解釈なのかを全く示さなければ、大衆向けの「記号の記号」の流通ツイートでしかない。あるいは夜郎自大ツイートでしかない。


…………

だが、いわゆる文化の大衆化現象は、たんなる量的な変化をいうのではなく、芸術的な記号の流通過程の変化なのである。少数の特権者によって発信された記号が多数の匿名者によって受信されている限り、大衆化現象は現実のものとはならない。特権的な知は、きまって堅固な階層秩序によって文化を保証しているからである。それは、欠落を埋めるかたちで改めて秩序維持に貢献するだろう。大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。ポンソン・デュ・テラーユの予告された新聞連載小説『ロカンポールの最後通牒』は、読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。したがって、まだ発表されてさえいない作品の作者たる人物が。そこで交換されているものの特権的な発信者とは呼べないだろう。ギュスターヴの『サランボー』の女主人公の名前が評判の料理屋のデザートとなり、皇帝主催の舞踏会に姿を見せた外国人作曲家の夫人の衣裳となり、寄席の年末レヴューのヒロインとなったりするとき、作者たるものはもはやそこでとり交される固有名詞に何ら特権的な所有権を主張しえない事情を思い起してみるなら、大衆化現象がたんなる数の増大でないことは明らかだろう。記号のあり方そのものと、その流通形態とが決定的に変化しているのだ。聴衆が競いあってオッフェンバックの喜歌劇の切符を買い求め、読者が先を争ってポンソン・デュ・テラーユの連載小説の載る『ラ・プチット・プレス』紙の予約購読を申し込むのは、ぜひともその作品に接したいという欲望とはまったく別の理由からである。それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。

この意志は、隣人の模倣を端に発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらす安心感の連帯と呼ぶべきものだが、マクシムが苛立っているのも、まさにそれなのだ。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない。ともにその名を目にしてうなずきあえる記号の記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。

第二帝政期のパリが享楽の都であるとするなら、享楽の対象は間違っても記号ではない。享楽を保障してくれるものは、記号の記号が交換されているその流通の体系そのものなのである。違いは、したがって、数量的なものではない。みずからを流通体系そのものに一体化させる喜びの連帯が一方にあり、いま一方に、記号を解読する喜びがあり、それをへだてるものは数の問題ではないわけだ。それがあっさり数の問題だと錯覚されてしまったのは、不幸にして、大衆新聞に連載された小説を、記号として読むものがほとんどいなかった理由からである。

マクシムもまた、ポンソン・デュ・テラーユをまともに読んでいたとは思えない。だいいち、さきに引用したような言葉で『ロカンポールの最後通牒』を語るとしう姿勢そのものが、否定的な契機に支えられたものだとはいえ、いかにも大衆化時代にふさわしいやり方だといえはしまいか。彼もまた、記号の記号にほかならぬ固有名詞を流通させているだけだからである。みずからを苛立たせるものとしての大衆化現象に、こうして彼は埋没する。まだ読んでいるはずっもない作品の題名を口にすることで、はからずも連帯を実践してしまっているからである。それが、マクシムのいつもながらの凡庸さをきわだたせていることは、いわずもがなであろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
われわれは、ここで、いわゆる第二帝政期が、それに批判的であろうとする姿勢そのものが規格化された言葉しか生み落とさないという悪循環を萌芽的に含んだ一時期であると認めざるをえまい。それは、いわゆる知識人や芸術家たちを積極的にとりこむ力学的な装置のようなものだ。顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序なのだといいかえてもよい。というのも、知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。(同上)