ここでは、いくつかのヴァリエーションを示す。
ーーマテームを上のように置いた理由は、「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」を参照。ここでは簡易図表のみを示しておく。
まず、いくらかの用語注釈。
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
想像界はなによりも先ず、文字通りのイマージュである(後詳述)。
■空集合∅について
∅とは、《穴としての空集合 le trou comme ensemble vide (Ø)》[参照]であり、身体の出来事である。身体の出来事はサントーム(原症状)、フロイトの固着のことである(参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群)。
ラカンはフロイトの固着を、骨象・文字対象aとも呼んだ。骨象aとは、身体に突き刺さった骨である。
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER 、2001年)
■ファルスΦについて
「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971)
このファルスの意味作用によってモノの殺害が起こる。
シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死 mort は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
このモノの殺害が、ラカン派における「去勢」の最も基本的意味「象徴的去勢」である。
去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (Lacan, S17, 18 Mars 1970)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
■フェティッシュφについて
ラカンがボロメオの環において「sens」と記すときの意味は、直接的には「意味の享楽 sens-joui (Js)」だが、事実上は「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche」のことである。
ラカンがボロメオの環において「sens」と記すときの意味は、直接的には「意味の享楽 sens-joui (Js)」だが、事実上は「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche」のことである。
対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet » dans la dernière leçon du Séminaire XXIII.(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)
対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993年)
フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」である(ラカン、S10、16 janvier 1963)
ラカンが不安セミネール10で詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…
倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004)
以下、最も基本的なフェティッシュについての観点も付記しておく。
フェティッシュは、女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)
母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン、E877、1965)
(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)
ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である(a/−φ)。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年)
■去勢(-φ)について
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
以上が、それぞれの用語の概ねの意味合いである。
■去勢の原像
出産外傷としての去勢の原像についても付記しておこう。
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。
(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
⋯⋯⋯⋯
次に「イマージュ」についてもういくらか詳しく記す。
フロイトの「事物表象 Sachvorstellung」と「語表象 Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」(イマージュ)と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)
ここでフロイト概念を、ラカンのボロメオの環のなかに置いてみよう。
ところでラカンは想像界の箇所を身体ともしているが、これは身体のイマージュということである。
( La troisième 、1-11-1974) |
この身体のイマージュは、現実界→象徴界を経由した想像界の身体であり、言語によって殺害された身体である。
私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。
忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。
しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)
つまりイマジネールな身体とは、本来の身体的なものではなく、心的なものに属する。これが前期ラカンの身体である。
だが後年、次のように言う。
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。
L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)
ラカンが「身体は穴」というときの穴とは、身体は想像界と現実界の重なり箇所を示している。
(S23, 13 Avril 1976) |
ところで、想像界(イマーゴとしてのイマージュ)は、フロイトの自我 Ichでもある。
イマーゴとしてのイマージュimage comme imagoをフロイトは「自我 le moi」と呼んだ。(Jacques-Alain Miller, L'Être et l'Un, 18 mai 2011)
したがって、フロイト用語の「自我」と「エス」を想起しつつ再度、フロイト版のボロメオの環を別の形で示せば次のようになる。
フロイトはエスと自我の関係について次のように言っている。
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)
ラカン版とフロイト版を横並びにしておこう。
ラカンはこうも言っていることを付け加えておこう。
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
穴とはラカン用語においてトラウマのことである。
現実界は、⋯「穴-トラウマ troumatisme 」をつくる ラカン、S21、19 Février 1974 )
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée
・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。よ(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
⋯⋯⋯⋯
ところで若きニーチェはこう言っている。
言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される。(⋯⋯)
人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)
この考え方をボロメオの環で示せば、次のようになる。
ニーチェにおいては、ラカンの「身体の出来事」、フロイトの「リビドー固着」の箇所が、「神経刺激」となる。
ニーチェの記述にあるように、神経刺激とは、人間と動物とに共通なものである。では、ラカンの「身体の出来事」、フロイトの「リビドー固着」も同様に、人間と動物とに共通なものと言いうるだろうか? ーーおそらく(ほぼ)そう考えうると私は思う。
以下の図表は、フロイトとラカン概念の対照表である。どの語彙・表現もフロイトの「固着」、あるいは固着による症状に帰結する。
ーーより詳しくは、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」を参照。
最後に動物の外傷神経症をめぐる中井久夫の記述を掲げておこう(参照:「動物の外傷神経症」)。
「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。それは、一つは「PTSD(Rを含む)にかかっている精神科医はPTSD(R)を診断することが困難である」という点にある。これは災害時だけでなく、自身に傷口が開いたままの外傷を持っている治療者には平時においても起こることと考えなければならない。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。(⋯⋯)
ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。
しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)