2019年2月26日火曜日

資本の言説の時代における「欲望の搾取」

欲望の搾取 exploitation du désir、これが資本の言説 discours capitalisteの大いなる発明である。(ラカン、Excursus, 1972)




危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。
私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)
資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

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資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。

しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。

「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸シニフィアン(S2)」との対話に至る。

これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)

市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。

期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。

生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。

資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)



欲望の主体$は、資本の言説において、「真理 S1」の不到達性から逃れるように構築されている。真理の場に到達しうるだけではなく、「知S2」に到るためには「真理」を通り過ぎなければならない。資本家の言説における真理は、占星術における地位と同じ地位である。

S1 → S2(左下から右上への斜めの矢印)は、資本家/労働者の転移がなされる。というのは、生産において仲介するものは、労働力のノウハウだから。…

S1が知を所有していないなら、何が命令する能力を与えるのか? 答えは金融力である。労働者は命令に従って生産する。彼等はマルクスが見出した剰余価値の秘密を生産する。われわれは知っている、マルクスにとってーー誰もがこの点においては異議をとなえない--労働力は、小麦や鉄と同様の「商品」になるという事実によって、資本主義は特徴づけられることを。したがって、資本主義において、剰余享楽 (a) は剰余価値の形態をとる。

剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵を見出すことを意味するのは、、剰余享楽の必然性は、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていることを認めることである。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が、消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないなら、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie)…

新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(ピエール・ブリュノ Pierre Bruno、capitalist exemption, 2010)

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以下、主人の言説から資本の言説への移行の最も基本的な注釈を掲げておく。

■Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf)より



① $ (欲望の主体・言語によって分割された主体)とS1 (主人)は場所替えをしたこと。
② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。
③「動作主agent」と「大他者Autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。

これは上に掲げた図の 「$ とS1の場所替え」以外に、(言説のベースにある形式的構造の)次の図の左から右への移行を叙述している。


ふたつの図をまとめて日本語で図示すればこうなる。




以下、同様にStijn Vanheule 2016から引用する。

三つの変更の影響は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、五番目の言説の特徴ではなくなった。われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係性しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。

実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている)。……

…資本の言説において、主体性は腐蝕させられる。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、主体を混乱させる身体上の緊張との距離の喪失である(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016,)

この移行は、1970年前後(1968年「学園紛争」後)に始まり、1989年「マルクスの父」の消滅以後、決定的になった。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


最後に「資本の言説の時代における主体の変容」について。

(資本の言説における)$ から S1 への動きは、主体の分割の構造的質の否認をもたらす。資本の言説は主体の分割から出発する。しかし、S1 に向かう動きが暗示するのは、主体の分割は、主人のシニフィアンへの疎外(同一化)を通して克服されうるということである。

これは倒錯的運動を物語っている。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する que le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, 》(ラカン、S18)

資本の言説においては、S1 は主体の穴を補填するように促されている。
どちらの場合も、主体の穴は埋め合わせ可能だと信じられている。この理由で資本の言説はしばしば一般化された倒錯の用語で叙述される(Mura, 2015)
(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、2016)