2019年2月26日火曜日

子宮から子宮へ

ギリシア語 tumbos とラテン語 tumulus は、「膨れる、受胎している」という意味のラテン語 tumere と同語源である。すなわち、墓とは子宮であった。

以下、主にフロイト・ラカンにおける「子宮から子宮へ」についての考え方を示す。


【原トラウマ】
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

フロイトは「出産外傷」を「原不安・原トラウマ」と等価なものとして扱っているが、分析治療の対象としては否定している。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)


【ラカンによる出産外傷・原初に喪われた対象】
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラlamelle(≒羊膜)での場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a (喪われた対象)について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である(ラカン、S11、20 Mai 1964)
・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーー『原抑圧の穴」とあるが、ラカンにとって穴とはトラウマのことである。「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」(S21、19 Février 1974)



【享楽の主体】
私は、神秘的な架空の主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance」と呼ぶ。⋯⋯⋯

享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望の主体$(欲望する主体 sujet désirant)としての基礎を構築する。constituer le fondement comme tel du « sujet désirant »、(ラカン、S10、13 Mars 1963)




【廃墟となった享楽への回帰】

ここで冒頭に引用した前年のセミネール9の発言を思い出そう。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

欲望の主体$は、Aを復活させようとするのである。あの廃墟となった享楽を。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【去勢の原像】

上に記してきたラカンの思考は、フロイトの「母の去勢」「去勢の原像」等の文脈のなかにある。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ラカンは「母の去勢」について次のように言っている。

母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)

これについてはポール・バーハウの簡潔な注釈を掲げておこう。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)

ーーより詳しくは、「女陰の奈落」を参照のこと。


ここまで記してきた内容を図示しておこう。

原エロス・原エロスは、フロイト・ラカンにとって次の状態である。





以下、トーラス円図を利用して図示する。









フロイトにとってエロス/タナトスは、次の語彙群に相当する(参照:「受動性と能動性(女性性と男性性)」)。






【母胎内回帰・母なる大地回帰】

トーラス円図などをまぜて示した上の図の最後の円の内容は、次のフロイト文にある。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


上の記述とほぼ同じことだが、フロイトはこうも記している。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


【享楽と去勢】

最晩年のラカンは、享楽と去勢を等置しているが、これは事実上、享楽喪失=去勢という意味である。


享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)


⋯⋯⋯⋯

以上、最も簡潔に図示すれば、フロイト・ラカンにとっての人間の生とは次のように示しうる。




下段は、人間の生は回帰運動(融合欲動)がベースにありつつも、究極の融合(死)を怖れ、分離欲動が働くということを示している。


この図は、中井久夫=安永浩によるファントム空間の「発達」図とほとんど同じ意味内容をもっている。






安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


あるいは、谷川俊太郎において、少年時代から老年にかけて生涯貫いているひとつのテーマとしての「おとし物」は、フロイト・ラカンにおける「原初に喪われた対象」を示しているとさえ捉えうる。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ   谷川俊太郎



空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする

ーー六十二のソネット「41」


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

ーーなんでもおまんこ