2019年3月12日火曜日

リビドーは享楽のことである

■リビドーと享楽

ジャック=アラン・ミレールは2011年にこう言っている。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(Miller, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

これは何も目新しい見解ではない。わたくしの知る限りでも、1990年代から何人かの注釈者がすでに言っていることである。入門辞典にさえ書かれている。

ラカンの享楽概念とフロイトのリビドー 概念とのあいだには強い親和性 affinitiesがある。それは、ラカンが享楽を「身体の実体 Substance du corps」(S20)として叙述したことから明らかだ。(Dylan Evans、An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis 、1995)

もっともミレール はこうも言っている。

享楽は対象aのなかに閉じ込められているだけではない。享楽はシニフィアンのあるところなら何処にでも至るla jouissance s'étend partout où il y a du signifiant。主要な事実は享楽を獲得することl'obtention de jouissance. である。

これが、ラカンとフロイトの相違である。フロイトはリビドー をエネルギーとして考えた。…ラカンは享楽はエネルギーとして刻印されえない la jouissance ne fait pas et ne saurait s'inscrire comme une énergie と考えた。(Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

つまりは、《シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance.》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

とすれば、シニフィアンとは何かを考えればよいことになる。ここではシニフィアンについて広く渉猟することは避け、原シニフィアンとは何かのみを記す。

前期ラカンにおいて原シニフィアンは、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

この母なるシニフィアンは、後年のS(Ⱥ) に相当する(後述)。S(Ⱥ) とは原抑圧のシニフィアンである。そして初期フロイト概念の「境界表象 Grenzvorstellung」である。


抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

ーーこの時点でのフロイトには原抑圧概念はないので、抑圧と言っているが、この境界表象は明らかに原抑圧(リビドー固着Libidofixierungen )である。

※参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群


したがって、肝腎なのはリビドー固着である。この語においてフロイト・ラカン理論の核心は収斂する。





以下、フロイトを中心にしてリビドーについての記述をいくらか拾う。

◼️Libidoと Lust
人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
1910年注:ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求 Bedürfnisses の感覚と同時に満足 Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。


享楽 Lustが欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。―― _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -》(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)

苦痛のなかの快 Schmerzlustは、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)


◼️リビドーと愛の欲動
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



◼️リビドー と逆リビドー (対抗リビドー )
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

フロイトには逆備給(対抗備給)という概念がある。

・逆備給 Gegenbesetzung こそ原抑圧 Urverdrängung の唯一の機制である。

・「 備給 Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい(フロイト『抑圧』1915)
忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、逆備給 Gegenbesetzungen により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)


フロイトの使っている意味合いとは厳密には異なるが、備給=リビドーとあるように、タナトスは、おそらく逆リビドーと呼ぶことができる。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


◼️男性性と女性性
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ーーマゾヒズムは自己破壊欲動、サディズムとは他者破壊欲動とあり、自己破壊欲動は、他者破壊欲動より先行している、とある。

そしてマゾヒズムは女性性、サディズムは男性性に関係があるとしている。

サディズムは男性性、マゾヒズムは女性性とより密接な関係がある。
daß der Sadismus zur Männlichkeit, der Masochismus zur Weiblichkeit eine intimere Beziehung unterhält (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ところが1905年には、リビドーは男性的なものとしている。ここには明らかな矛盾がある。

もし「男性的および女性的 männlich und weiblich」という概念にいっそう明瞭なコノテーションを持たしうるなら、リビドーは男性に現われようと女性に現われようと、いつでもきまって男性的性質をもつ Libido sei regelmäßig und gesetzmäßig männlicher Natur ものであり、リビドー対象を度外視するならば、この男性的性質は、男であっても女であってもよいと主張しうる。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

もっとも註において留保はあることはある。

註)「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)


ラカンはフロイトのリビドー=男性的について疑義を表明して、斜線を引かれた女のシニフィアン S(Ⱥ)について語っている。

私が今年取り組んでいるのは、フロイトが明らかに考慮に入れていないことである。

フロイト曰く « Was will das Weib ? »、つまり «女は何を欲するのか? Que veut la Femme ? »ーー フロイトは、男性的リビドーだけがある il n'y a de libido que masculine と主張した。それはどんな意味だというのだろう、明瞭に無視してよいわけではない領野が無視されているのでなかったら? すべての人間にとってのこの領野…言わば…あなたがたがそう想定するのがお好きなら…彼女の宿命…

…彼女を女 La femme と呼ぶのは適切でない。…女は非全体 pas tout なのだから、我々は 女 La femme とは書き得ない。唯一、斜線を引かれた « La » 、すなわち Lⱥ があるだけだ。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。…(ラカン、S20, 13 Mars 1973)


 最晩年のフロイトは、受動的立場=女性的立場としている。

(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)


冒頭近くに引用したように、S(Ⱥ)は、前期ラカンの「母なるシニフィアン」、フロイトの「境界表象」に相当し、母による身体の上の刻印(欲動の奔馬を飼い馴らす原シニフィアン)である。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)


こういった論拠から、ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE(1999)は、S(Ⱥ)は受動性のシニフィアンだと捉えている。




Ⱥとは穴、S(Ⱥ) とは「穴のシニフィアン」ということでもある。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


この「穴埋め」としての (a)を、ラカンは骨象とも呼んでいる。すなわち身体の上に突き刺さった骨。これがリビドー固着である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


◼️穴とリビドー

後年のラカンは、穴という語を多用するようになる。

リビドーは、その名が示しているように、穴に関与せざるをいられない。La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou

……そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体(リビドー固着)のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)




ーーvrai trouの箇所がリビドー固着(原抑圧)である。

我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


⋯⋯⋯⋯

※注記


冒頭に引用したミレール文の一部を再掲する。

フロイトはリビドー をエネルギーとして考えた。…ラカンは享楽はエネルギーとして刻印されえない la jouissance ne fait pas et ne saurait s'inscrire comme une énergie と考えた。(Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

エネルギーとしては刻印されないが、過剰度の欲動興奮のエネルギーが、トラウマへの固着として刻印される。フロイトの考えでは、それがリビドー固着である。


ミレールは別にこうも言っている。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
フロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )

ところで人がトラウマ的経験をもつとはどういうことか。

経験が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである。das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt (フロイト『モーセと一神教』1939年)

ーーフロイトの考えでは、量的要因 quantitativen Faktors、すなわちQ要因のせいで、人はトラウマ的経験をもつ。

Q要因について、ポール・バーハウの簡潔な注釈を掲げる。

フロイトにおいて、欲動の問題は最初から見出される。欲動概念が導入される以前のはるか昔からである。その当時のフロイトの全ての試みは「エネルギーの量的要因 Energiequantitäten Faktor」とそれに伴った刺激を把握することである。出発点から彼を悩ました臨床的かつ概念的問題のひとつは、内的緊張の高まり、つまり(『科学的心理学草稿 ENTWURF EINER PSYCHOLOGIE』1895 における)名高いQ要因(quantitativen Faktor)である。すなわちそれは身体内部から湧き起こるエネルギーの流体であり、人はそのQ要因から逃れ得ないことである。Q要因は応答を要求するのである(注)。

このQ要因(quantitativen Faktor)は欲動Triebの中核的性質である。すなわち圧力(衝迫 Drang)と興奮 (Erregung) である(『欲動とその運命』1915)。これは欲動の本来の名をを想起すれば明瞭である。独語TriebはTreiben (圧する)である。不快な興奮の集積として、Q要因は解除されなければならない。そしてその過程で数多くの厄介事が発生する。現勢神経症から神経精神病の発生まで。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、ON BEING NORMAL AND OTHER DISORDERS、2004年)

上の文の注には、フロイトの『防衛-神経精神病』からの引用がなされている。

心的機能において、なんらかの量 Quantität の性質を持っているもの(情動割当 Affektbetrag あるいは興奮量 Erregungs-summe)を識別しなければならないーーもっともそれを計量する手段はないがーー。その量とは、増加・減少・置換・放出 Vergrößerung, Verminderung, der Verschiebung und der Abfuhr が可能なものであり、電気的負荷が身体の表面に拡がるように記憶痕跡 Gedächtnisspuren の上に拡がるものである。(フロイト『防衛-神経精神病 DIE ABWEHR-NEUROPSYCHOSEN 』1894年)

フロイトは『ヒステリー研究 STUDIEN ÜBER HYSTERIE』1895年においても、「興奮の量 Quantität von Erregung」という表現を使いながら、トラウマ的要因を神経システムによっては十分には解消しえない「興奮増大 Erregungszuwachs」として定義している。この「興奮増大 Erregungszuwachs」を患者は意識から遠ざけようとする。そして、この「意識的になること不可能な表象 bewusstseinsunfähiger Vorstellungen」が病理コンプレクスの核である、と結論づけている。

この量的要因の多寡が重要なのは、事故的トラウマを考えたらよい。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1916年)

だが幼児期の経験がなぜトラウマ的なものとして固着されるのか。その多くは事故的トラウマほど過剰な経験ではない筈なのに。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916年)
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

トラウマは、己れの身体の上への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

このトラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。…

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

これは幼児期の段階では、言語の減圧機能がまだ発達していないからだと考えられる。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収 )
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ(る)。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。…時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

中井久夫においては、「自己史に統合されない異物」が反復強迫のひとつの核心である。フロイトの「異物」についての記述はこうである。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー上の「リビドー と逆リビドー 」の項にも「異物」についての記述を引用してある。

ラカンはこの異物を「身体の残滓」という意味で「異者としての身体」としている。

異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)


 中井久夫の表現「自己史に統合されない」とは、フロイトの言い方なら「心的装置に同化されない」ということである。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


この心的装置に同化されない異物が、エスの核に居残るのである。

人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

この異物は、リビドー固着の残滓とも呼ばれる。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓 Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)



⋯⋯⋯⋯

※付記



ここでは敢えて触れなかったが享楽とリビドーの関係性についての最も重要な観点は次の三文にある、とわたくしは考えている。


リビドーlibido 、純粋な生の本能pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelleである。…この単純化された破壊されない生vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)