2019年3月1日金曜日

エロス欲動という死の欲動

以下、フロイトにおいて事実上、エロス欲動は死の欲動であることを示す。


■サディズム(他者破壊欲動)より先立って存在するマゾヒズム(自己破壊欲動)

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


■自己破壊欲動(マゾヒズム)は死の欲動である 

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


■原マゾヒズムの外部への投射としてのサディズム

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

以上より、次のように図示できる。




■原欲動(原マゾヒズム)の外部への投射としてのサディズム

原欲動(原マゾヒズム)とは、上にあったように原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb、そして死の欲動である。

この原マゾヒズムの外部への投射がサディズムである。すなわち自己破壊欲動への防衛が他者破壊欲動としてのサディズムである。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。

これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


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■マゾヒズム概念の修正

フロイトにおいて、1919年から1920年にかけて、マゾヒズムの捉え方の修正がある。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。

…daß der Masochismus keine primäre Triebäußerung ist, sondern aus einer Rückwendung des Sadismus gegen die eigene Person, also durch Regression vom Objekt aufs Ich entsteht. (フロイト『子供が打たれる』1919年)

この1919年(フロイト63歳)の考え方を、1920年以降反転させている。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。

Der Masochismus, die Wendung des Triebes gegen das eigene Ich, wäre dann in Wirklichkeit eine Rückkehr zu einer früheren Phase desselben, eine Regression. In einem Punkte bedürfte die damals vom Masochismus gegebene Darstellung einer Berichtigung als allzu ausschließlich; der Masochismus könnte auch, was ich dort bestreiten wollte, ein primärer sein.(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。Durch Rückwendung des im Leben unverbrauchten Sadismus gegen die eigene Person entsteht ein sekundärer Masochismus, der sich zum primären hinzuaddiert.(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)


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次にフロイトにおける「エロスとタナトス」語彙群の代表的なものを掲げる。


■融合と分離・愛と闘争(破壊)
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エンペドクレスの二つの根本原理―― 愛と闘争 philiaφιλίαund neikosνεκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。ひとつは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。他方はその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。

Die beiden Grundprinzipien des Empedokles – φιλία und νεκος – sind dem Namen wie der Funktion nach das gleiche wie unsere beiden Urtriebe Eros und Destruktion, der eine bemüht, das Vorhandene zu immer größeren Einheiten zusammenzufassen, der andere, diese Vereinigungen aufzulösen und die durch sie entstandenen Gebilde zu zerstören. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


■引力と斥力
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


■女性性と男性性(受動性と能動性)
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
サディズムは男性性、マゾヒズムは女性性とより密接な関係がある。
daß der Sadismus zur Männlichkeit, der Masochismus zur Weiblichkeit eine intimere Beziehung unterhält (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)

ーー生物学的男性が必ずしも男性性ではなく、同じく生物学的な女性が必ずしも女性性ではないことに注意。たとえばすべての乳幼児は母という能動者に対する女性性(受動性)をもっている。

もっとも乳幼児において、その受動性への反抗がある。

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)



■取入と排出
おそらく判断ということを研究してみて始めて、原欲動興奮 primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれる。

判断は、もともと快原理にしたがって生じた自我への「取り入れ Einbeziehung」、ないしは自我からの「吐き出し Ausstoßung 」の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。
肯定Bejahung は、融合の代理 Ersatz der Vereinigungとしてエロスに属し、否定は Verneinung は排出(吐き出し)の後裔 Nachfolge der Ausstossung として破壊欲動に属する。(フロイト『否定』1925年)


■マゾヒズムとサディズム(女性性と男性性)
サディズムは男性性、マゾヒズムは女性性とより密接な関係がある。daß der Sadismus zur Männlichkeit, der Masochismus zur Weiblichkeit eine intimere Beziehung unterhält ……(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


最後に冒頭に掲げた文を再掲する。

■自己破壊と他者破壊
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


■自己破壊=死の欲動
我々が仮定として欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


以上を図示してみよう。



■エロス欲動は死の欲動である

上の図からエロス欲動自体が、死の欲動であることがわかる(もちろんタナトスは死の欲動である)。

したがってラカンの次の言明が生まれる。

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

だがなぜエロスが死の欲動なのか?

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

最も原初的な以前の状態とは、フロイトにとって子宮内生活である(詳しくは、「子宮回帰運動」を参照)。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎Mutterleib への回帰運動 (子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

したがって母子融合という原エロスに回帰すること、これが「死」である。《エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)。

別の言い方をすれば、母なる大地との融合である。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


以上はもちろん自我のレベル(欲望のレベル)ではひどく奇妙に思われるだろう。だが話はエスのレベル(欲動のレベル)のことである。

エスの力能 Macht des Es は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安Angst の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事 Aufgabe des Ich である。…

エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

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上に記してきたことから瞭然とするように、大切なのは、エロス欲動にかかわる究極のエロスあるいは究極の享楽とは、その本質においては自己破壊あるいは死にかかわることである。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

他方、タナトス欲動とは、究極のエロス(究極のエロス)=死の引力に惹かれつつも、引力ー斥力という行きつ戻りつの運動である。

サディズムとマゾヒズムは、エロスと攻撃性の二つの欲動の混淆に傑出した事例である。我々はこの関係を一つにモデルとして仮定しつつ前に進む。すなわちどの欲動衝迫Triebregungen も、エロス欲動と攻撃欲動の合金化(融合Mischungen)があると。

もちろんこの融合は混淆比率Mischungsverhältnissenのヴァリエーションがある。エロス欲動は、性的目標の多様性を融合へと導く。攻撃性は、エロス欲動の一方的傾向を緩和Milderungenもしくはなだらかな変移(グラデーションAbstufungen)のみを許容する。(フロイト『新精神分析入門』第32講、1933年)








死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close

・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)



子宮から子宮へ