2019年3月27日水曜日

人はみな享楽喪失の主体である



ここでは神秘的な架空の主体S(原主体 sujet primitif)を「享楽の主体 sujet de la jouissance」と呼ぶ。…

享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望の主体(欲望する主体 sujet désirant)としての基礎を構築する。constituer le fondement comme tel du « sujet désirant »、(ラカン、S10、13 Mars 1963)

「基礎を構築する」とあり、直接に「享楽の主体」から「欲望の主体」への移行があるのではない。

翌年のセミネールにはこうある。

(欲望の主体の核には)欲動の主体 le sujet de la pulsion がある。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

さらに10年後にはこうある。

私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

同時期に 《われわれの享楽の彷徨い égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534) とも表現されている。


要するに、「欲動の主体」とは「享楽の漂流の主体」と捉えうる。喪われた享楽の廻りを彷徨いめぐる主体が、欲動の主体である。あるいは「享楽喪失の主体」とも呼ぶことができる(後述)。

ここまでの記述からまず次のように図示できる。





上の図に示した二つの去勢については以下に記す。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

フロイトは「出産外傷 Das Trauma der Geburt」を、《母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうもの》とし、これを「原トラウマ Urtrauma」と呼んでいる(『終りある分析と終りなき分析』1937年)。

ラカンが上の文で言っているのは、原トラウマであり、フロイト・ラカンにおいて直接的には原去勢という語はないが、実質上「原去勢」である。

われわれ人間の原初に何が起こったのか。出生とともに胎盤あるいは臍の緒が喪われたのである。






例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分part de lui-même que l'individu perd à la naissance…最も深い意味での喪われた対象l'objet perdu plus profondである。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

フロイトの言い方なら、これが母からの分離(原分離)としての《去勢の原像 Urbild jeder Kastration 》である。

去勢ー出産 [Kastration – Geburt]とは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この去勢のせいで、母を含めた全身体を取り戻そうとする運動が起こる。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ラカンは、これを享楽回帰運動と呼ぶ。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

冒頭近くに「欲動の主体」は「享楽喪失の主体」とも呼べる、としたのは、上の文の表現に準拠している。人はみな享楽の喪失の主体である。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010 )

ラカン派における妄想とは、トラウマに対する防衛という意味である。それはフロイトにすでに表れている。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911)

くり返せば、享楽(原享楽)は出生時に去勢されてしまっているのである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)


ラカンが言うように去勢は何種類もある。ここでは簡潔に二つの去勢のみを記す。ラカンは既にセミネール11の段階で二つの去勢を語っている。それは「二つの欠如」と表現されているが、「二つの去勢」のことである(後年のラカン用語なら「二つの穴」)。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

セミネール11には、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》とあり、一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの、つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》とされる。

この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如としている。

これが上に示した、胎盤の喪失、臍の緒の喪失に相当する去勢である。

もう一方の去勢は、言語の世界に入場することによる去勢である。

我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。

S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ここに「喪失として定義される何か=対象a」とあるが、これが象徴的去勢である。そして言語によって「分割された主体$」とは、事実上、「去勢された主体」である。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果(インパクト)によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)

《「話す存在 l'être parlant」における固有の反復》ともあったが、これも言語による去勢にかかわる反復強迫のことである。

すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)

⋯⋯⋯⋯

※付記

■欲望は換喩

欲望は換喩によって定義される。Le désir est défini par la métonymie, (ミレール 、L'Autre sans Autre、2013)
欲望は、欠如の換喩[métonymie du manque]と同じ程度に、享楽喪失の換喩[métonymie du plus-de-jouir]である(=「原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」の換喩である)。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »、2013)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)

le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」については、くれぐれも注意しなければならない。
仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)



■欲望は防衛

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

簡潔に言い直せばこうである。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


■欲望のデフレ

ラカンにおいては「欲望のデフレune déflation du désir」がある…

承認reconnaissanceから原因causeへと移行したとき、ラカンはまた精神分析の適用の要点を、欲望から享楽へと移行した。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )

ーーここでの《享楽とは、より厳密に言えば、剰余享楽である。》(ミレール Jacques-Alain Miller, A New Kind of Love、2011)



■欲望の主体=幻想の主体

欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)