まずエロス/タナトスのポール・バーハウによる簡潔な捉え方を示す。
「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではないのだ。エロスとタナトスが混淆しているように(フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」)、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。…
これらは、男性と女性の対立ではなく、能動性と受動性の対立として解釈するほうがはるかに重要である。しかしながらこれは、受動性が女性性、能動性が男性性を表すことを意味しない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬 Phallacies of binary reasoning」、2004年)
図示すればこうなる。
これはほぼフロイトの記述に則っている。フロイトから列挙しよう。
【欲動混淆】
まず先に欲動混淆の記述を掲げておく。
純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
欲動混淆とは、エロスとタナトス混淆であるが、男性性女性性混淆、能動性受動性混淆の相を代表しつつ、以下にあらわれる二項対立語彙すべての混淆もある。
【融合と分離(攻撃)】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
【愛と闘争(破壊)】
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
【引力と斥力】
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
【受動性と能動性】
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。
その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
ーーフロイトは「女性性の拒否」としているが、前文に「受動的立場あるいは女性的立場」という表現がありように、事実上は「受動性の拒否」である。したがって標準的な幼児は、受動的立場から能動的立場への移行を試みる。これが人間の精神生活のあり方である。
男性と女性 Männlichen und Weiblichen をはっきり区別できるのは、解剖学であって心理学ではない。心理学の分野では、男女の性別は曖昧で、せいぜいのところ能動性と受動性 Aktivität und Passivität の区別になってしまう。そして、無邪気にもわれわれは、能動性と男性的性格、受動性と女性的性格をそれぞれ同列に置くが、これは人間以外の動物の場合、けっして例外なしにあてはまるものではない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
【女性性と男性性】
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。
男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。
…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
ーーここに男性性と女性性の混淆、能動性と受動性の混淆の記述があることに注意しよう。
【取入と排出】
おそらく判断ということを研究してみて始めて、原欲動興奮 primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれる。
判断は、もともと快原理にしたがって生じた自我への「取り入れ Einbeziehung」、ないしは自我からの「吐き出し Ausstoßung 」の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。
肯定Bejahung は、融合の代理 Ersatz der Vereinigungとしてエロスに属し、否定は Verneinung は排出(吐き出し)の後裔 Nachfolge der Ausstossung として破壊欲動に属する。(フロイト『否定』1925年)
※参照
ヒステリー的子供は、大他者から十分に受け取っていない。そして大他者によって取り入れられようと欲する、絶えまない要求主体となる。
強迫神経症的子供は、あまりにも多く受け取り過ぎている。そして大他者から可能な限り逃れようと欲する、拒否・拒絶主体となる。(ポール・バーハウ、OBSESSIONAL NEUROSIS、2001)
【マゾヒズムとサディズム】
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとってなんと悲しい暴露だろうか![traurige Eröffnung für den Ethiker! ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
ーーフロイトにおけるマゾヒズムの捉え方は錯綜しており、より詳しくは「エロス欲動という死の欲動」をを参照。
さてここでもうひとつ、二項対立語彙を掲げる。
【分離不安と融合不安】
◆分離不安
ーーこの相におけるフロイト・ラカンの発言の詳細は、「子宮回帰運動」を参照のこと。ここでは三文だけ引用しておく。
◆融合不安
以下に現れる「貪り喰われる不安」は「融合不安」とすることができる。
ラカンにおいては、この融合不安をめぐって、繰り返されるヴァリエーションがある(参照:貪り喰われる不安)。
【分離不安と融合不安】
◆分離不安
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
ーーこの相におけるフロイト・ラカンの発言の詳細は、「子宮回帰運動」を参照のこと。ここでは三文だけ引用しておく。
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
◆融合不安
以下に現れる「貪り喰われる不安」は「融合不安」とすることができる。
母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
ラカンにおいては、この融合不安をめぐって、繰り返されるヴァリエーションがある(参照:貪り喰われる不安)。
この融合不安とは、母なる原支配者に対して受動的立場におかれる不安(受動不安)だとすることができる。原初の二者関係的母子関係においては、母は能動者(男性性)、幼児は男女両性とも受動者(女性性)に置かれるのである。
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
ここまでの記述にしたがって、次のようにまとめて図示できる。
【エロス人格とタナトス人格】
人間には、常に左項と右項の混淆があることを忘れてはならないが、わたくしの考えでは、幼少時に分離不安を強く抱いた者は、エロス人格となり、反対に溺愛等による融合不安を強く抱いた者は、タナトス人格になる傾向をもつ。
分離不安と融合不安は、二つの「原不安」であり、母という語を使っていえば、「母なる大他者」が必要とされるとき居ないこと(不在)による不安が「分離不安」であり、「母なる大他者」が過剰に現前することによる不安が「融合不安」である。
次のラカンの発言は主に幼児の分離不安にかかわるだろう。
母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)
二つの原不安としたが、分離不安が融合不安に先立っているのは間違いない。
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
したがって明らかにタナトス人格ーーつまりエロス(融合)不安人格ーーとみえる人物にも、その底にはエロスへの希求ーー分離ではなく融合を求める性向ーーがあるはずである。
最後にもうひとつ発達段階的に図示しておこう。
ーー原トラウマ等についてのフロイト・ラカンの考え方の詳細は「子宮から子宮へ」を参照。
ここではさわりだけ再掲しておく。
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
わたくしの考えでは原欲動としての自己破壊欲動とは、究極的には、母なる大他者との融合欲動に収斂する。