われわれがすでに学んだところでは、リビドー的欲動活動は、それがもしも個人の文化的および倫理的な諸観念と衝突すると、病因的抑圧をこうむらなければならない運命にたちいたる。
Wir haben gelernt, daß libidinöse Triebregungen dem Schicksal der pathogenen Verdrängung unterliegen, wenn sie in Konflikt mit den kulturellen und ethischen Vorstellungen des Individuums geraten.
(……)すでに述べたように、抑圧は自我から発する。もっと厳密に、自我の自尊 Selbstachtung des Ichsから発する、といってもいいであろう。ある人間がその内心に生ずるにまかせたり、またはすくなくとも意識的に加工したりするような、同じ印象や、体験や、衝動や、願望が、他の人間からは憤然として拒否されたり、あるいはそれらが意識される前に、はやくもおし殺されてしまったりする。抑圧の条件 Bedingung der Verdrängung をふくんでいるこのような両者間の差異は、リビドー理論を使いこなすことによって容易にはっきりとした形で把握することができるのである。
Die Verdrängung, haben wir gesagt, geht vom Ich aus; wir könnten präzisieren: von der Selbstachtung des Ichs. Dieselben Eindrücke, Erlebnisse, Impulse, Wunschregungen, welche der eine Mensch in sich gewähren läßt oder wenigstens bewußt verarbeitet, werden vom anderen in voller Empörung zurückgewiesen oder bereits vor ihrem Bewußtwerden erstickt. Der Unterschied der beiden aber, welcher die Bedingung der Verdrängung enthält, läßt sich leicht in Ausdrücke fassen, welche eine Bewältigung durch die Libidotheorie ermöglichen.
われわれがいうことのできるのは、一方の人間は自己のうちに一つの理想をうちたて、それに現実上の自我 aktuelles Ich をあわせるのに対して、他方の人間にはそのような理想の形成が欠けている、ということである。自我にとって理想形成は抑圧の条件である Die Idealbildung wäre von Seiten des Ichs die Bedingung der Verdrängungと思われる。
理想自我 Idealich は幼児期にリアルな自我 wirkliche Ich が享楽 genoßしていた自己愛 Selbstliebe に適用される(ターゲットとなる)。ナルシシズムはこの新しい理想的な自我 neue ideale Ich に変位した外観を現す。それは幼児期の自我と同様にあらゆる完全性を所有する。Diesem Idealich gilt nun die Selbstliebe, welche in der Kindheit das wirkliche Ich genoß. Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben, welches sich wie das infantile im Besitz aller wertvollen Vollkommenheiten befindet.
ここで人間は、リビドーの分野においていつでもそうであったように、ひとたび享楽した満足感 genossene Befriedigungを断念するのは不可能であることを示している。彼は幼児期のナルシシズム的完全性narzißtische Vollkommenheit なしではすませないのであって、成長期にいろいろな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりした結果、このような完全性を確保することができなくなると、彼はこれを自我理想 Ichidealいう新しい形式のなかにもう一度獲得しようとする。彼が自己の理想としてその眼前に投射projiziertするものは、彼自身が自己の理想 sein eigenes Ideal であった幼児期の、 喪われたナルシシズムverlorenen Narzißmusの代理物なのである。Der Mensch hat sich hier, wie jedesmal auf dem Gebiete der Libido, unfähig erwiesen, auf die einmal genossene Befriedigung zu verzichten. Er will die narzißtische Vollkommenheit seiner Kindheit nicht entbehren, und wenn er diese nicht festhalten konnte, durch die Mahnungen während seiner Entwicklungszeit gestört und in seinem Urteil geweckt, sucht er sie in der neuen Form des Ichideals wiederzugewinnen. Was er als sein Ideal vor sich hin projiziert, ist der Ersatz für den verlorenen Narzißmus seiner Kindheit, in der er sein eigenes Ideal war.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章)
以下、継続する文付記。
こういう理想形成と昇華とのあいだの関係を探究することは容易である。昇華とは対象リビドーにみられる一つの過程であって、その本質は欲動が性的満足とはかけ離れた、別の目標に突き進んでゆく点にある。そのさいに重要なのは、性的なものからの離脱ということである。理想化というのは対象について行なわれる現象 であって、それによって対象はその性質を変じることなく拡大され、心的に高められる。理想化は自我リビドーの領域においても、また対象リビドー の領域においても可能である。したがってたとえば、対象の性的過大評価は対象の理想化なのである。そこで、昇華が欲動について行なわれるものを現わし、理想化が対象において行なわれるものを現わす以上、両者は概念上区別されなければならない。
Es liegt nahe, die Beziehungen dieser Idealbildung zur Sublimierung zu untersuchen. Die Sublimierung ist ein Prozeß an der Objektlibido und besteht darin, daß sich der Trieb auf ein anderes, von der sexuellen Befriedigung entferntes Ziel wirft; der Akzent ruht dabei auf der Ablenkung vom Sexuellen. Die Idealisierung ist ein Vorgang mit dem Objekt, durch welchen dieses ohne Änderung seiner Natur vergrößert und psychisch erhöht wird. Die Idealisierung ist sowohl auf dem Gebiete der Ichlibido wie auch der Objektlibido möglich. So ist zum Beispiel die Sexualüberschätzung des Objektes eine Idealisierung desselben. Insofern also Sublimierung etwas beschreibt, was mit dem Trieb, Idealisierung etwas, was am Objekt vorgeht, sind die beiden begrifflich auseinanderzuhalten.
自我理想の形成はしばしば、理解が欠けているために欲動の昇華ととり違えられる。Die Ichidealbildung wird oft zum Schaden des Verständnisses mit der Triebsublimierung verwechselt.
ナルシシズムの代わりに高い自我理想をえた者は、リビドー的欲動の昇華に成功したものである必要はない。Wer seinen Narzißmus gegen die Verehrung eines hohen Ichideals eingetauscht hat, dem braucht darum die Sublimierung seiner libidinösen Triebe nicht gelungen zu sein.
自我理想はこのような昇華を要求はするが、これを強要することはできない。昇華はあくまでも一つの特殊な過程なのであって、その開始は理想に刺激されて行なわれるのかもしれないが、その成就はこのような刺激とはあくまでもまったく無関係なのである。
じっさい神経症患者をみると、自我理想の形成と素朴なリビドー欲動の昇華の程度とのあいだにかもしだされる緊張度には、非常な差異のあることが分かるし、リビドーがなんの当もなく鬱積していることを納得させるのは一般に、自分の要求に満足している単純な人間に対してよりも、理想家型の人間に対してのほうがずっと困難なのである。
神経症の原因に関する理想形成と昇華との関係はまったく異なっている。理想形成は、われわれも知っているように、自我の諸要求を高めるとともに、最も強力な抑圧を支える要素である。昇華のほうは、抑圧を惹き起こすことなしに、どうしたらこの要求をみたすことができるかという、逃げ道となっているのである。
Das Verhältnis von Idealbildung und Sublimierung zur Verursachung der Neurose ist auch ein ganz verschiedenes. Die Idealbildung steigert, wie wir gehört haben, die Anforderungen des Ichs und ist die stärkste Begünstigung der Verdrängung; die Sublimierung stellt den Ausweg dar, wie die Anforderung erfüllt werden kann, ohne die Verdrängung herbeizuführen. (フロイト『ナルシシズム入門』第3章)
■母に対する対象備給と父との同一化
父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母にたいする依存型の本格的対象備給を向け始める。ここで、彼は二つの心理的に異なった結合を示す。それは母に対する自然の性的対象備給と、父にたいする典型的な同一化である。(『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)
Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen. Er zeigt also dann zwei psychologisch verschiedene Bindungen, zur Mutter eine glatt sexuelle Objektbesetzung, zum Vater eine vorbildliche Identifizierung.
■原ナルシシズムの後継としての自我理想
われわれは以前にそれを、「自我理想」と名付けて、自己観察、道徳的両親、夢の検閲、抑圧のさいの主要な影響力をその機能に帰した。それは、小児の自我が自己満足を得ている原ナルシシズムの後継者であることをすでに述べた。(『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)
Wir nannten sie das »Ichideal« und schrieben ihr an Funktionen die Selbstbeobachtung, das moralische Gewissen, die Traumzensur und den Haupteinfluß bei der Verdrängung zu. Wir sagten, sie sei der Erbe des ursprünglichen Narzißmus, in dem das kindliche Ich sich selbst genügte. (Massenpsychologie und Ich-Analyse Werke
■母への原ナルシシズム的リビドー固着
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
母へのエロス的固着の残滓 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
■太古の超自我の母なる起源
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。
…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
■自我理想の背後にある幼年時代における原初の同一化
放棄した対象備給の影響に対して、のちになって性格に抵抗がどのように形成されることがあっても、最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』、第3章)
Wie immer sich aber die spätere Resistenz des Charakters gegen die Einflüsse aufgegebener Objektbesetzungen gestalten mag, die Wirkungen der ersten, im frühesten Alter erfolgten Identifizierungen werden allgemeine und nachhaltige sein. Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit.5)
■原初の同一化=両親との同一化(上文註)
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)
Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.
■父なる神に先立つ偉大な母なる神
「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
■母なる原シニフィアンの代理としての父の機能
エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
■超自我とエスの密接な関係
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。
das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)
私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
ーー《太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, 》(ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
(フロイト『新精神分析入門』1933年) |
■他者の取り入れ Introjektion としての超自我
幼児の最初のーーしかしきわめて重要でもあるーー欲動満足を阻止した優位に立つ他者に対し、幼児の心には、その場合要求された攻撃断念の種類にはかかわりなく、かなりの量の攻撃欲動(攻撃性向 Aggressionsneigung)が生まれたに違いない。しかし幼児は、やむなくこの執着的な攻撃vengeful aggressionの満足を断念した。そして心理エネルギーの管理区分上のこの苦境(経済論的苦境 schwierigen ökonomischen Situation )を、周知の心理メカニズムを使って乗り越える。すなわち幼児は攻撃をしかけるわけにはいかないこの優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになり、できれば幼児がその他者に用いたであろうあらゆる攻撃性向 all der Aggression を備えるにいたる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)
Gegen die Autorität, welche das Kind an den ersten, aber auch bedeutsamsten Befriedigungen verhindert, muß sich bei diesem ein erhebliches Maß von Aggressionsneigung entwickelt haben, gleichgiltig welcher Art die geforderten Triebentsagungen waren. Notgedrungen mußte das Kind auf die Befriedigung dieser rachsüchtigen Aggression verzichten. Es hilft sich aus dieser schwierigen ökonomischen Situation auf dem Wege bekannter Mechanismen, indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird und in den Besitz all der Aggression gerät, die man gern als Kind gegen sie ausgeübt hätte.
“indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt”とあるが、前後数箇所に“Introjektion ins Über-Ich”とある。したがって簡潔に言えば「取り入れ Introjektion」である。
■両親の後継者としての超自我
超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten
■超自我の命令の自己破壊性
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)
⋯⋯⋯⋯
■攻撃欲動の起源としてのマゾヒズム(自己破壊欲動)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
■究極の自己破壊は死である。
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod. (フロイト『快原理の彼岸』第5章)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
■エスの声
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。だからこそ、私は彼を久しく避けてきたのだ。私が心がけてきたのは、誰かに先んじること (Priorität)にもまして、とらわれない態度(Unbefangenheit) を持することである。(フロイト『自己を語る』1925年)
⋯⋯⋯⋯
※付記
■欲動の超自我化
フロイトが言ったように、欲動の放棄は、欲動の満足に姿を変える。したがって同じ仕方でフロイトは欲動の昇華sublimation de la pulsionについて語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化surmoïsation de la pulsion,を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96 )
■超自我の仮面としての父の名
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
■超自我(母なる超自我)≒ S(Ⱥ)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez)
■ 母の欲望(≒母なる超自我)=原穴の名=S(Ⱥ)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
■父の名と超自我というコインの表裏
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。Qui se place au-delà de l'Œdipe, s'aperçoit, comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)
「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(ミレール『大他者なき大他者』2013)
■自我理想I(A)と超自我S(Ⱥ)
我々は象徴的同一化におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)
■自己イマージュと i(a)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
■「想像的同一化/象徴的同一化」=「理想自我/自我理想」
想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係ーー理想自我Idealichと自我理想Ich-Idealとのあいだの関係ーーは、ジャック=アラン・ミレール によって構成された同一化と構成する同一化の差異とされる。
簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
■超自我と自我理想のコインの裏表
ラカンの見解では、超自我 surmoi は自我理想 idéal du moi とはっきりと差別化される必要があるとはいえ、超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。両方とも、主体が徴づけられた欠如への関わりとして機能する。その欠如とは、自我と理想自我 moi idéal とのあいだの相互作用にすべて関係がある。
自我理想はこの欠如との関係において「橋を架ける」機能を持つとラカンは言明している。…
超自我は、逆転した効果・分割効果を持つ。ラカン(E.684)は、超自我を次のように特徴づけている。すなわち、「如何に人があるか」(自我)と「如何に人がありうるか」(理想自我)とのあいだの差異を指摘する「内なる声」(内なる命令 intime impératif、E684)として。
事実上、超自我の指摘は、「如何に人がありうるか」の考えを「如何に人はあるべきか」の命令へと変換する。そのようにして、主体の欠陥を強調することになる。いくらか《得意にさせる exaltant》形で機能する自我理想とは対照的に、超自我は《強制する contraignant》効果を持つ(セミネール1)。超自我から湧き起こる無慈悲な非難は、自我理想によって励まされた完全性の期待を与える錯覚を粉々にする。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe, 2005年)
■理想自我に新しい形式を与える自我理想
一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投射 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)
注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投射を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「新しい形式」nouvelle forme de son idéal du moiを提供すると(セミネール1)。 ((ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)
■ 理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichの区別化
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。
〈理想自我〉は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。
〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。(ジジェク『ラカンはこう読め』2005年)