2019年5月20日月曜日

リトルネロとしての女性の享楽

以下、主にリトルネロとララング(母の言葉)をめぐる。


■カオスの留め金としてのリトルネロ
リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)


この文は、まず次のように図示できる。





この図は「父の名の過剰現前の真意」で示した次の図と相同的である。




欲動固着とは無意識のエスの自動反復である。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

欲動固着はリトルネロするのである。

1960年代のドゥルーズはこの自動反復を次のように叙述した。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

トラウマとはラカン語彙では穴である。《穴=トラウマ[troumatisme ]》(S21、1974)

この穴への固着により、人は「強制された運動の機械 machines à movement forcé」になる。

強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

くり返せば、Ⱥとは穴 trou であり、まさにドゥルーズ&ガタリのいうブラックホール trou noir を示す。そしてS (Ⱥ) とはブラックホールを飼い馴らす原シニフィアンである。前期ラカンはこの原シニフィアンを《母なるシニフィアン le signifiant maternel》(S5, 1958)と呼び、のちには《享楽の侵入の記念 commémore une irruption de la jouissance 》あるいは《刻印inscription》(S17、1970)と呼んだ。永続的な反復強迫を生むものとして《死への徴marqué pour la mort》ともしている。


・大他者の中の穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)

・Ⱥという穴 le trou de A barré……S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたはȺという穴 [trou de A barré [Ⱥ]]を支配するmaîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

したがって次の図を示しうる。




S(Ⱥ)とは、別の言い方をすれば、Ⱥーー《法なき現実界 réel sans loi》(ラカン、S23)ーーのクッションの綴じ目である。

「現実界は無法」の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/200
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)



■母の言葉としてのリトルネロ

ところで、リトルネロとはラカンにとってララングでもある。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

そしてこのララングとはサントームΣとほぼ等価である。

ララング  lalangueが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
詩の吐露 Le dire du poèmeは、…「言語の意味の効果 effets de sens du langage」と「ララングの意味外の享楽の効果 effets de jouissance hors sens de lalangue」を結び繋ぐ fait tenir ensemble。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome。(コレット・ソレール Colette Soler、Les affects lacaniens、 2011)

ーーこのコレット・ソレールの文は、《私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.》 (Lacan,17 mai 1976 AE572)に起源がある。

身体の上の、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(Miller, Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP、2012)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan」 LE LIEU ET LE LIEN 」2001)


すなわち lalangue≒S(Ⱥ)=Σであり、さきほどの図の横にこう示せる。




※Jouissance barré、すなわちなぜ享楽に斜線が引かれているのかは「父の名の過剰現前の真意」で比較的詳しく示した。



■リトルネロの多義性

さてここでもう一度冒頭の「リロルネロ ritournelle の三つの相」の文に戻ろう。

①カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。

②一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。

③この外観に逃げ道を接ぎ木 échappée sur cette allure して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。

①はまさしくサントームの基礎的な意味である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

だが②③はどうなのか? ーーこれこそ後期ラカンの「父の名」である。

最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ドゥルーズ&ガタリは冒頭の文の直後、クレーに触れている。クレーのどの絵であるかは示していない。だがわたくしはあの文をクレーの次の絵とともに読むのを好む。

ブラックホールの逃げ道の外には女の足がある・・・

 

Error on green, 1939 by Paul Klee,


これこそ、父の名=サントーム=「père-version」(父の版の倒錯)である。

フェティッシュとしての見せかけsemblantは、ブラックホールを覆う機能があるのはよく知られている。

我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)
足は、不当にも欠けている女性のペニスの代理物である。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. (フロイト『性欲論』1905年)

これだけではおわかりにならない方のためにこうも引用しておこうか。トラウマ(穴)、固着等の用語が出てくるのだから。

我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な unheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される。

こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景 Anblick der Genitalbehaarungの固着 fixierenである。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。

とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間を結晶させているhalten。すなわち女性がファルスをもっている phallisch といまだ見なしうるあの最後の瞬間を捉えている。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

ーーいやあ、いまはこんなダイレクトな話をしているわけではない。ブラックホールに対する防衛としてのフェティッシュという「理論的な」話がしたいのである・・・

 話を戻さねばならない。ここでの問いは格調高いクレーである。あの父の名としてのサントーム、つまり接ぎ木こそ、固着としてのサントームと同一化しつつ距離をとることなのである。

接木? ああ西脇! 

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

ーーいやいやいまは格調高い話をしてるのである。

クレーとともに、原症状(サントーム)との同一化とそこから距離をとる「接木」の話である。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)



■リトルネロとしての女性の享楽

S(Ⱥ)とは、女性の享楽でもある。




私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout [Ⱥ]の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

ーー《S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.》(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


このS(Ⱥ)=Σ=l'objet petit a は、《骨象a[osbjet a]》とも言い換えられている。フロイトの固着である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


ここで誤解のないように次の文を示しておかねばならない。女性の享楽とはいまだ日本ではことごとく誤解されているのだから。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
純粋な身体の出来事 Σ としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



■リトルネロの永遠回帰

さてこうしてーー飛躍があるのはわかっているが、いまはリトルネロの話をしているのである。リトルネロとは「跳躍」であるーー次の三文を「ともに」読むことができる。

ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


こうも引用しておこう。

迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour (Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)
リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)
リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)


そして『千のプラトー』のなかの最も美しい文のひとつを。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれ esquisse d'un centre stableであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ calme, stabilisant et calmant, au sein du chaos。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる début d'ordre dans le chaos。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険 risque aussi de se disloquer à chaque instant もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)


■カオスの治療としてのリトルネロ

こうして《身体から湧き起こる内的カオス》に遭遇している者は、なによりもまずリトルネロを見出すべきであるという結論に達する。そしてそれはじつはどこにでもある。

超自我は我々の欲動ーー身体から湧き起こる内的カオスーーを支配する手助けをする。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

たとえば中上健次の「路地」。あれはサントームΣ=S(Ⱥ)であり、カオスの名付けである。《父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである》(LACAN 、S22. 11 Mars 1975)

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)

もっともドゥルーズ&ガタリのいうように、《 歌(リトルネロ)はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ》ということは熟知しなくてはならない。





安定化のためには、リトルネロのフェティッシュ化が必要である。それが上に引用したラカンの《père-version(父の版の倒錯)》であり、DGの《échappée(逃げ道)》である。

そしてS(Ⱥ)とは実際のところは、ドゥルーズが嫌った超自我なのである。ドゥルーズは《制度的超自我 le surmoi institutionnel》の相ばかりを取り上げて批判してしまっているが。

超自我は我々の欲動ーー身体から湧き起こる内的カオスーーを支配する手助けをする。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

じつは「蚊居肢」とは「路地」のことである。穴の名づけとしての「父の名」=「父の版の倒錯」にかかわる《境界表象 Grenzvorstellung》である。いまだときにブラックホールに吸引されることもあるが、このシニフィアンを発明することにより(理論上)、悪癖ーーつまり西脇順三郎のいう《地獄へゆく昔の道》--への防衛として機能している筈なのである・・・もちろんたんなる老齢のせいであるという疑いもあるが。


スカートの内またねらふ藪蚊哉(荷風)

⋯⋯⋯⋯


■付記:魔女のメタサイコロジー

実は「父の版の倒錯」としてのサントームとは、ラカンがフロイトの「遺書」と呼んだ論文に現れる魔女のメタサイコロジーへの応答である。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologieである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)


ラカンは1976年にこう言った。

私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものだ j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…

サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン、S23、17 Février 1976)

そして1977年にはシニフィアンの発明としてのサントームを語った。

何はともあれ私が言っていることは、シニフィアンの発明 l'invention d'un signifiantは、記憶とは異なった何ものかであることだ。子供はシニフィアンを発明しない。受け取るだけである。…なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

とはいえ魔女のメタサイコロジーはやはりそれほど十全な効き目はない。したがって 死の二年前には次のように告白するのである。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。

La métaphore du nœud bor-roméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le sym-bolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'es-sentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser.(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979)


フロイトの記述によれば、原症状としての《欲動の根 Triebwurzel》あるいは欲動固着の作用は、器質的な相違も大きい。

ーー以下の文で神経症とされるのは、フロイトにとって全症状である。神経症には、精神神経症と現勢神経症があり、前者が言語内の症状、後者が身体(欲動の固着)の症状である。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)

したがって不幸にもラカン的な「魔女のメタサイコロジー」の効用がたいしてない人物もいるのである。

とはいえ、ラカンの分析治療における新しさ(フロイトにはないもの)は、治癒不能の原症状(下図の上段語彙群)に対して、フロイト的エディプスの父との同一化ではなく、「父の版の倒錯」を示したことである。





父の版の倒錯としてのサントーム。このサントーム sinthome は、聖人saint homme と同音である。さらには、聖トマス Saint Thomas とも。聖トマスとは、父キリストを信ぜず、独自の道を歩んだ者である。

日本におけるトラウマ研究のおそらく第一人者中井久夫は次のように語っていることを最後に示しておこう。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)

※参照:トラウマ定義集