2019年5月9日木曜日

超自我と自我理想の区別

フロイトがはじめて超自我概念を提出した『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっており、超自我に触れるほとんどの「思想家たち」はいまだこの二つを等置しているが、よく読めば、超自我と自我理想の区別を『自我とエス』で既にしている。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的 allgemeine und nachhaltigeであるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における父との同一化である(註)Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit。(フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)

そして注にはこうある。

註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(同『自我とエス』)

結局、超自我とは、この『自我とエス』の文をどう読むかに関わるのである。





この両親との同一化としての超自我は、ドゥルーズのいう《制度的超自我 le surmoi institutionnel》(『マゾッホとサド』第11章、1967年)でも、中井久夫のいう《社会的規範を代表する「超自我」》「母子の時間 父子の時間」2003年)でも、柄谷行人のいう《憲法第九条=超自我》(2016)でもまったくない。この誤謬は現在に至るまでの不幸な誤謬ーーある意味最悪の誤謬ーーである。20世紀後半、1972年以降、アンチエディプスーーエディプスの背後ーーには自由があるなどという実にはしたない誤謬がインテリ界隈では通念となってしまったのだから。

ここで誤解のないように断っておかねばならないのは、蚊居肢散人は安吾派だということである。

編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」1947年)


さて話を戻せば、超自我=自我理想というのが破廉恥な誤謬であるという事実を理解するためには、『自我とエス』だけではなく後年の記述で補う必要はある。

フロイトは1930年に次のように言っている。

幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)

“indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt”とあるが、前後数箇所に“Introjektion ins Über-Ich”とあり、簡潔に言えば「超自我への取り入れ Introjektion」である。

1938年にはさらにこうもある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』1938年)

母と父のどちらが最初に個人の行動を監督するのか。母に決まっているのである。それは歴史的太古の時代と同様である。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

こうして若きラカン、『モーセ』が書かれた同時期のラカンはこう言うことになる。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

1938年のラカンがフロイト1937年の文を読んで「太古」という語を使ったのかどうかは知るところではない。

私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

そしてフロイトの死の枕元にあったとされる草稿にはこうある。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

「自己破壊」とは、死の欲動のことである。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

フロイトが示しているのは三層構造である。



死の欲動の箇所をエスと置き換えてもよい。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。

… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


超自我とは死の欲動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


すなわち超自我はエスのエージェントである。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


エスのエージェントとは、死の欲動のエージェントということである。

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)

タマネギと自我」で示したように、超自我とはリビドー固着の別の名でもある。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


リビドー固着には原始時代のドラゴンの残滓が常にあるのである。同時期の最晩年のフロイトは次のように繰り返し強調している。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


したがって超自我は、エスの声の猥褻な命令をするのである。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)

とくに《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)ーー、この父の蒸発後のわれわれの時代、われわれの《禁止の禁止[l'interdit d'interdire]》の時代、超寛容社会においては、ことさらこの内なる命令の声があなたのなかに響き渡っている筈である。よほど不感症でなければ。よほどファルスの覆いが厚くなければ。

重要なのはエディプスの斜陽の時代だからこそ、この超自我が裸のまま露顕することである。

エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

この一文はドゥルーズ&ガタリの『アンチオイディプス』における主張を一瞬で蹴散らかす。 あるいは「家父長制打倒=自由」などというフェミニストたちの主張が児戯に類するものであることが一瞬で瞭然とする。

正しいのは真のニーチェ主義者であり真のフロイト主義者である真のフェミニスト、カミール ・パーリアーー米ポリコレフェミ文化内部におけるバクダン女ーーの見解である。

文明が女の手に残されたままだったなら、われわれはまだ掘っ立て小屋に住んでいただろう。(カーミル・パーリア camille paglia『性のペルソナ Sexual Persona』1990年)
・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。

・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(カミール ・パーリア、Vamps & Tramps、2011年)

母の名 Le Nom de Mère


エディプスの背後には母がいる。母なる超自我がある。

家父長制と男根中心主義は、原初の全能の母権システムの青白い反影にすぎない。 (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、孤独の時代における愛 Love in a Time of Loneliness、1998)

これはなにも母と父自体の問題ではない。一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な未熟児として生れ、かつまた本能の壊れた動物、身体から湧き起こる欲動の内的カオスを自らでは飼い馴らせないヒト族における発達段階的必然だということである。「原初に母ありき」である。古代ローマの至言、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》である。

オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

ーー笑っている蜘蛛や虫は享楽の母にたちまち捻り潰される。あるいは、

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

もっともわたくしは分裂病や自閉症的あり方の優れた相を否定するものでは全くない。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

ファルス秩序(言語秩序)からの退行症状である原ナルシシズムにはこういった相があるのである。

ナルシシズム精神神経症 narzißtischen Psychoneurosen、つまり精神分裂病 Schizophrenien(フロイト『欲動とその運命』1915年)
ナルシシズム的とは、ブロイアーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1915年)

とはいえ(基本的には)分裂病的笑いS(Ⱥ)とは身体から湧き起こる内的カオスȺの青白い反映にすぎない。

なぜならȺとは去勢 (-φ) のことであり、かつまた享楽の喪失(-J)のことでもあるから。
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)






享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)


仮に父の名が享楽の命令をすることがあっても、その声とは底部にある母なる超自我に支えられている。

母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)



超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)

気まぐれの母とは、子供を子宮のなかに九ヵ月も閉じこめておいたくせに、産んだあとは、言ったり来たりする母ということである。

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)


このため人はみな次の状況に陥る。

母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungen をもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

ここにある《喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts》がラカンの対象aの起源である。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


話を戻せば、母なる声とは原穴の声、原トラウマの声である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


ここでトラウマというのは、原初の母との身体的経験(身体の上への刻印=リビドー固着)は、外傷神経症的なものだということでもある。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

ラカンは戦争神経症のような事故的トラウマではなく、発達段階における必然としての構造的トラウマを「身体の出来事=サントーム」と呼んだ。

症状(原症状・サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


これは身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに居残り、外傷神経症のように反復強迫を生むという意味である。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
・フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。

・サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (ミレール MILLER、L'Être et l'Un, 2011))


サントームとはリビドーの固着のことである。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)


フロイトはこのサントーム(原症状)を「トラウマへの固着」とも呼んだ。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

心的装置に翻訳されずそれが外傷神経症と相似形の症状となるとは、フロイトは初期からくり返しているが、ここでは快原理の彼岸から引用しておこう。

私は無意識におけるこの種の過程を、心的「一次過程 Primärvorgang」と命名した。それは、われわれの正常な覚醒時の生活にあてはまる「二次過程 Sekundärvorgang 」と区別するためである。

欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

ようするにーー「焼酎図書の無知集団」で既に記したことだが、

サントームは死の欲動の別の名である。
・サントームは外傷神経症の別の名である。



ところでミレールは次の図を提示している。




NPとは父の名、DMとは母の欲望であり、上でみたように母なる超自我である。そして有限の快原理の彼岸にあるのは無限の享楽である。この有限/無限とは、欠如の名/穴の名という意味でもある。→「欠如の名と穴の名(Nom-du-Manque et Nom-du-Trou)」。


神の死(父なる神の死)を宣言したニーチェは、母なる超自我の声のことをよく知っていた。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

人は、神の死の後こそ、母なる女主人の「内なる声」(内なる命令 intime impératif、E684)の囚われの身となる。

無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis》

これは明らかにナイーヴである。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる si Dieu n'existe pas, alors rien n'est plus permis du tout.》ことを。神経症者は毎日、われわれにこれを実証しているLes névrosés nous le démontrent tous les jours.。(ラカン、S2、16 Février 1955)

⋯⋯⋯⋯


最後に補足的につけ加えておけば、そもそも超自我は、原大他者の取り入れ Introjektionによって生まれるのだから、フロイトのいう母なる原誘惑者 ersten Verführerinが原超自我でないわけがないのである。

それがラカンが次のように言っている意味である。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)


上に長々と引用したが、超自我の定義を把握していれば、これは当然のことである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ーー中段にて原ナルシシズムに触れたが、ここに「原ナルシシズム的リビドー備給」とあることに注意しよう。原ナルシシズムと本源的には、喪われた母へのリビドー備給なのである。原初、自分の身体だったものが去勢されてしまうことーー《一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war》(フロイト、1923) 。その去勢された身体への愛が原ナルシシズムである。すなわち原ナルシシズムとは事実上、原母からの分離とそれを取り戻そうとする運動にかかわるのである。

中期フロイトは次のように言った。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

だがこれは(くり返せば)最晩年のフロイトの観点からは原母を取り戻そうとする運動なのである。ラカンは「自閉症的享楽 jouissance autiste」と「原ナルシシズムnarcissisme primaire」を等置している(参照)。とすれば自閉症的享楽の根にあるものは何か? もう繰り返さない。

安吾は薬物中毒で自閉症的享楽の近似症状を得た。

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代『クラクラ日記』)


自閉症的享楽とは、サントーム(=リビドー固着)の自動反復のことでもある。

反復的享楽 La jouissance répétitive、…ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…それはただ…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



話を戻せば、母なる原誘惑者による身体の上への刻印(固着)は、自我理想でも理想自我でもない。つまり象徴的同一化、想像的同一化にかかわるものでもない(参照)。 であるあるならば現実界的同一化の水準にある超自我でしかないのである。






そして蚊居肢散人の頭においては次のことは当然の帰結である。

・サントームは超自我の別の名である。
・原抑圧は超自我の別の名である。
・リビドー固着は超自我の別の名である。
・女というものは超自我の別の名である。


ーーなぜ世界的にも誰も言っていないのか?

ラカン派というのはよほど遠慮深いのか、
もしそうでなかったら阿呆の集まりのせいであろう・・・

蚊居肢定式を、仏語で重ねて強調しておこう。

Le sinthome est un autre nom de Surmoi
Urverdrängung est un autre nom de Über-Ich
Libidofixierung est un autre nom de Über-Ich
LȺ femme est un autre nom de Surmoi



タナトスは超自我の別の名である Thanatos est un autre nom de Surmoi」、とは上に引用したように、ミレール派ナンバースリーの Pierre Gilles Guéguen に先をこされてしまって蚊居肢子は忸怩たる思いである・・・

とはいえ彼はまだ次のようには言っていない。

・サントームは死の欲動の別の名である。
Le sinthome est un autre nom de Thanatos

・サントームは外傷神経症の別の名である。
Le sinthome est un autre nom du névrose traumatique


ーーええっと、前置詞はこれでいいのかな、ま、細かいことはどうでもよろしい。


日本ラカン派社交界のみさなんにおいては、この結論に至るまで、おそらくあと30年ほどかかることであろう。彼らは互いに湿った眼差しを交わし合い、ウンウン頷き合ったり重箱の隅的批判をし合っているだけなのだから。もっとも彼らは安吾派としての蚊居肢子にとってヤッツケる相手ではないので、固有名を出すのはほとんど常に差し控えている。

ときにどうしても連中の悪臭に耐えられなくなるときカタカナで表示するだけである。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)


そもそも彼らは構造的に問い詰める力能をもっていない。この力能をもつ前提条件は、観客に背を向けること、読者に背を向けることである。

学生や読者の眼差しに向けてばかり語っている学者たちが精神の中流階級でしかない理由はここにある。

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)

これはラカンが大学人の言説にて形式化していることでもある。





もっともこの大学人の言説とは教育機関としての「大学」だけに限らない。公衆の眼差しに向けた言説はすべてこの構造にある。ようするに「公衆からの酒手」派の言説はすべて同様である。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)


観客相手のエネルギーの費消派はみな問い詰める力能を犠牲にしている。蚊居肢定式はーーGuéguenを含めて七つの定式はーー、次の七つの文章群の意味合いを十全に把握していれば、七分ほどで瞭然となる話なのである。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(⋯⋯)

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)