2019年5月3日金曜日

母の名 Le Nom de la Mère

ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)

ラカンは、フランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文でこう書いている。

ロバート・グレーヴスRobert Gravesが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神 Déesse blancheの諸名のひとつに過ぎない le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche(ラカン、AE563, 1974)

このロバート・グレーヴスの「白い女神 Déesse blanche」を、ミレールは「母なる神 la déesse maternelle」としている(Miller J.-A., « Religion, psychanalyse », 2003)。

したがって《最初期の父の諸名は、母の名である》となる。これはフロイトもすでに言っている。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)


母の名とは、母なる超自我のことでもある。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque(ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

ようするにS(Ⱥ)とは、母なる超自我であるとともに、母の名 Le Nom de la Mèreである。そもそも超自我が母にかかわるのは個人の発達段階史においても必然である。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。

Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten (フロイト『モーセと一神教』1939年) 

ーーだれが最初に乳幼児を監督するのか? これは言うまでもない。

S(Ⱥ)は、もちろん穴Ⱥのシニフィアン、穴の名 Le Nom de Trouでもある。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

そして「父の名は存在しない」のシニフィアンが、S(Ⱥ)である。《大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)》(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)


母の名、すなわち母なる超自我とは「太古の超自我」であり、原大他者としての「母なる女の支配」を示す。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)

太古の超自我とはエスにかかわる超自我ということである。

私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

この超自我は、自己破壊的な命令をする。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)


母なる超自我、すなわち母の名とは、死の欲動の名である。

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2016)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


人は熟知しなければならない、見せかけsemblantとしての父の名とは、死の欲動としての母の名S(Ⱥ)を飼い馴らすものだということを。

そして「エディプス的父なる超自我/前エディプス的太古の超自我」という対立項があるのである。



「エディプス的父なる超自我(フロイトの超自我)Surmoi paternel œdipien (le Surmoi Freudien)」/「前エディプス的太古の超自我(ラカンとクラインの超自我)Surmoi archaïque pré-œdipien(le Surmoi Lacanien et Kleinien)」(ROSSI GIOVANNI, « Surmoi et destin du Surmoi chez la mère de l'enfant en situation de handicap mental», 2013)





S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

「欲動のクッションの綴じ目」とは、欲動の超自我化のことであり、最も初期には「欲動の母なる超自我化」のことである。

フロイトが言ったように、欲動の放棄は、欲動の満足に姿を変える。したがって同じ仕方でフロイトは欲動の昇華sublimation de la pulsionについて語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化surmoïsation de la pulsion,を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96 )


S (Ⱥ)とは享楽の固着、S2なきS1(S1 sans S2)、欲動の固着のことでもある。したがってS (Ⱥ)は享楽の名 Nom du Jouissance でもある。

享楽は身体の出来事(=サントーム)である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、…ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(miller、L'être et l'un、 23/03/2011)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(J.-A. MILLER、L'être et l'un, 30/03/2011)




人は父の法、エディプスの法としての「父の名」と「超自我」の区別を厳然とつけなければならない。ドゥルーズをはじめとして、日本でも柄谷行人や中井久夫でさえこの区別ができていない。




我々は象徴的同一化におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)


くり返せば、原超自我S(Ⱥ)は、元来、欲動の現実界の穴を埋める機能、原象徴化の機能がある。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
超自我は我々の欲動を支配する手助けをする Super-Ego – helps us to master our drives (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation:2019)

原象徴化でありながら、その象徴化は十分にはなされない。フロイトはこれをリビドー固着 Libidofixierungen の残存現象 Resterscheinungen と呼んだ(参照)。ようするに象徴化には常に残滓がある(対象aがある)。したがって超自我は内的カオスの境界表象ーーS(Ⱥ)、すなわちトラウマの名ーーとしての「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」なのである。

境界表象とは初期フロイト概念である。

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

そしてこの原抑圧とは翻訳の失敗・拘束の失敗を意味する。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896)
エスの内容の一部分は、エゴに取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

死の欲動、その反復強迫とは、基本的に外傷神経症を意味する。ラカンのサントーム(原症状=身体の出来事)の核心的内実のひとつは外傷神経症である。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

父の名自体、穴の境界表象S(Ⱥ)をさらに飼い馴らす機能がある。

ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。Qui se place au-delà de l'Œdipe, s'aperçoit, comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)

「父の名は超自我の仮面に過ぎない」とは、ここでも十分な飼い馴らしができないということである。したがって対象aが発生する。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)

どの段階においても十全な飼い馴らしは不可能である。常に残滓(対象a)がある。






重ねて強調するなら、父の名がたんなる仮面あるいは幻想(あるいは妄想)にすぎないものであるにせよ、なんらかの形で父の名の機能は必要なのである。それはトラウマの名であるS (Ⱥ)に対する防衛のためである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010)
・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation.

・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée(L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


母の名に対する防衛として人はなんらかの形で穴埋めしなくてはならない。これが現代ラカン派で主張される、人がみな必要な「一般化倒錯délire généralisé」(あるいは「一般化妄想 délire généralisé」)と呼ばれるものの内実である(参照)。



そしてこの穴埋めのひとつが父の版の倒錯と呼ばれるものである。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)

ーーサントームの両義性についてはくれぐれも注意する必要がある→「二種類のサントーム」。