2019年10月30日水曜日

簡潔版:四つの言説と資本の言説

以下、ある意図があってラカンの四つの言説の図を示すが、Patrick Valas版のセミネール20(アンコール)旧版と『三人目の女 La troisième』(1974)に現れる対象aの四様相も含めて示す(これはMiller版には図示されていない)。




最後に示されている「構造」とは、四つの言説の基礎構造という意味であり、この四つの空箱に四つの要素が入り、主人の言説をベースに回転する。

日本語でしめせば次の通り。



基本的には人間はこの四つの言説のどれかで話したり暮らしたりしている。同じ人間でも時と場合によって異なった言説をもつ。現在、たとえばツイッターでみれらる語りは、ほぼヒステリーの言説か大学人の言説である。

ヒステリーの言説を、ヒステリックな女というような意味にとってはならない。言語を使用することによって身体的なものと分割されてしまっている人間は基本的にはみなヒステリーである。

私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ。je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme(Lacan, S24, 14 Décembre 1976)

大学人の言説とは、教育機関の大学とは関係がない。「普遍の言説」あるいは「知の言説」「プロレタリアの言説」とでも訳すべき意味合いをもっている。

(現在の)社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire,(LACAN La troisième 1-11-1974)

男性の論理の審級にある「全体化 S2」=大学人の言説と、女性の論理の審級にある「例外なし$」=ヒステリーの言説は次のように注釈されることが多い。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ジジェクはこの論理のもと次のような内容の注釈をしている(ここでは要約する)。

男性の論理の 「普遍性・全体(S2)」とは「例外S1」によって支えられている。たとえば、女は男にとって全てである、キャリア・公的な生活の例外S1を除いて。

他方、女性の論理の「非全体a」とは、「例外なし$」ゆえの非全体である。例外がないため全体・普遍性はない(非一貫性)。したがって非全体が「外立」する。たとえば女の性生活にとって、男は非全体pas-tout (すべてではない)である。なぜなら女にとって性化されない何ものもないから。

アンコールに示されている図を基準にしていくらかの補足を加えて図示すれば次のようになる。



女性の享楽 jouissance de la femmeは…非全体の補填 suppléance de ce « pas-toute »を基礎にしている。(……)彼女は(a)とい穴埋め bouchon を見いだす。(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

これがアンコールまでのラカンの考え方である。ただし最も注意しなければならないのは、アンコール以後、性別化の式のデフレ(価値下落)が起こり、女性の享楽の意味合いが転回したことである(参照:女性の享楽簡潔版)。


話を四つの言説の冒頭図に戻そう。

対象aについては、実際のところは四様相だけではない。

(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960)

ここでは分析の言説にあらわれる対象a=声についてのみいくらかの補足をする。

われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)

ラカンはセミネール10で、この声ーー「声の形式[la forme « des voix » ] 」ーーを、「声としての対象aの形式[la forme de (a) qui s'appelle la voix]」、「超自我の遮る命令の声の形式[la forme des impératifs interrompus du Surmo])とした。

後にはこの対象aを穴と呼ぶことになる。

対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

たとえばジジェクはしばしば「自我理想の眼差し/超自我の声」としているが、これは「父の眼差し/母の声」でもある。「エディプス的父なる超自我の眼差し/前エディプス的母なる超自我の声」としてもよい。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

分析の言説の対象aとは、直接的には破壊的や執着的ではないが、すくなくとも分析主体(被分析者)を裸にする機能をもっている。

ジジェクはソクラテスのイロニーは分析の言説だと言っている。ここでの記事の意図とは異なり、いささか長い引用になるが、とても示唆あふれるのでそれを示しておこう。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。

ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。

この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。

(⋯⋯)対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。

プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。(……)ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

………

さて四つの言説以外に資本の言説がある。その具体的な内容はここでは触れない(参照:資本の言説の時代における「欲望の搾取」)。

ここではラカンの発言をひとつだけ掲げる。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)



不可能が消えていることに注意しよう。

この「不可能」とはフロイトの思考から来ている。

ラカンの「四つの言説 quatre discours」とは、もともと最晩年のフロイトが示した「三つの不可能な仕事」(支配、教育、分析)に、フロイトが示さなかった最も基本的な「不可能な仕事=欲望(ヒステリー)」をつけ加えたものである。

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンの言説とは「社会的結びつき lien social」という意味であり、これまたフロイトの「愛の結びつき Liebesbeziehungen」(エロス的結びつき)から来ている(ジャック=アラン・ミレールによる)。

ところで資本の言説の時代に生きるわれわれの愛の結びつきはどうなのか?

われわれの時代の愛は「愛のビジネス」だとするコレット・ソレールの注釈を掲げておこう。

愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。………

われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しないla jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。…

次の前提を見失わないようにしよう。ラカンが構築した四つの言説の各々は、主人と奴隷、教師と生徒、ヒステリーと主人、分析家と分析主体(被分析者)である。これは歴史において証明されている。いかに多くの男女のカップルが、この四つの関係を元に結びついてきたかを。(……)
資本の言説はカップルを創造しない。ラカンは…とても確信的にこれを示そうとした、資本家と労働者によって構成されるペアは、主人と奴隷の近代的ヴァージョンではないことを。

資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。…英語圏のひとびとが使用する "an affair" という表現は、実に症候的である。affair とは、何よりも先ず、ビジネスのことである(すなわちラブアフェアーとは、愛のビジネスである)。…

資本の言説は、愛の事柄 choses de l'amour について何も語らない。人々が《アフェアーles affaires》と呼ぶもの、つまり生産と消費のみについてのみ語る。以前の言説(主人の言説内部の四つの言説)とは異なり、現実界的非関係 non-rapport réel を補填しないのである。…この意味は(われわれの時代は)「性関係はない」という事実にいっそうの光を照射するということだ。以前の時代に比べ、性的非関係 non-rapport sexuel の孤独 solitudeと気紛れ précarité の帰結がさらにいっそう暴露されたままになっている。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)