症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ラカンが上のように言ったとき、この症状は原症状であり、サントームとも呼んだ。この原症状は、固着としての現実界的症状である。
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixionである。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
この原症状は、サントームの享楽とも呼ばれる。
サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité , 2018)
この「の」は同格であり、「サントームという享楽」と訳すべきかもしれない。
以下の文で「享楽は身体の出来事」とミレールがいうとき、「サントームは身体の出来事」という意味である。
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
フロイトにおいて、ラカンの「身体の出来事」に相当する表現は、たとえば次の二文に現れる。
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…
このトラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…
これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
だがフロイト・ラカンが言っている固着=刻印とは、基本的には事故的トラウマではなく、構造的トラウマにかかわる。これがフロイトが上の『モーセ』で言っている「病因的トラウマ ätiologische Traumen」ある。
晩年のラカンにとって現実界とは、事実上、トラウマ界のことである。
フロイトも最終的に、すべての神経症障害ーーここで言っている神経症とは精神病もふくめた全症状であるーーがトラウマにかかわると言うことになる。
以上の前提で以下の引用群を読んでみよう。
すると享楽の固着(リビドー固着)あるいはサントームとは、女性の享楽=享楽自体[参照]であり、これらを「暗闇に蔓延る異者としての女」と呼びうる。
別の言い方なら「固着によって現実界に置き残された女というもの=身体的なもの」、あるいは「現実界に蔓延る異者としての身体」である。
………
ラカンを読む上で最も注意しなければならないことの重要な一つは、ラカンには二つの現実界があることである。
象徴界のなかにある穴が、象徴界のなかの現実界の機能であり、これがアンコールまでのラカンの現実界である。他方、想像界と現実界の重なり目にあるのが、アンコール以後のラカンの現実界であり、享楽の固着(フロイトのリビドー固着)としての現実界である。
ラカンは最晩年になって、それまでの科学の現実界のラカンから、身体の現実界のラカンへと、真にフロイトに回帰したのである(もっともこの身体の現実界のラカンは、セミネール10にある。したがってセミネール11からセミネール20の5月前後の講義までが科学の現実界のラカンである)。
したがって、女性の享楽のポジションもアンコール以後、移行している。
このミレールが言っていることが、ここまで記してきた固着としての現実界であり、この観点については、たとえばジジェクの現実界は完全に抜け落ちている。
わたくしはジジェクを長いあいだ好んで読んできたが、彼を読むときに最も注意しなければならないのは、ジジェクの現実界は贔屓目にみても半分しか正しくないことである。
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
フロイトも最終的に、すべての神経症障害ーーここで言っている神経症とは精神病もふくめた全症状であるーーがトラウマにかかわると言うことになる。
すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。
概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なものとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)
以上の前提で以下の引用群を読んでみよう。
すると享楽の固着(リビドー固着)あるいはサントームとは、女性の享楽=享楽自体[参照]であり、これらを「暗闇に蔓延る異者としての女」と呼びうる。
別の言い方なら「固着によって現実界に置き残された女というもの=身体的なもの」、あるいは「現実界に蔓延る異者としての身体」である。
ひとりの女=サントーム=他の身体の症状=異者としての身体の症状
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ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
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異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
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異者としての身体の症状=異物としての症状
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たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
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トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイラー『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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異物=暗闇に蔓延る異者
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われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)
欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
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暗闇に蔓延る異者=女への固着の残滓=トラウマへの固着
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女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her,(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
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原抑圧(固着)によって現実界に置き残される女というもの=身体的なもの
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フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
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原抑圧=女というものの排除
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本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
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「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
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女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”
この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)
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「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse, 26 novembre 2008)
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サントーム=享楽の固着
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サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne、1987)
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「一と享楽に結びつき[connexion du Un et de la jouissance]」が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'être et l'un, 30/03/2011)
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フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
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享楽の固着とそのトラウマ的作用がある fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
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反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
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享楽の残滓=リビドー固着の残滓=原始時代のドラゴン
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不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)
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発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
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固着による自動反復=無意識のエスの反復強迫=身体の自動享楽=サントーム
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欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=享楽の固着)による身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un -23/03/2011)
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サントーム=女性の享楽
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
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純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
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享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
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ラカンを読む上で最も注意しなければならないことの重要な一つは、ラカンには二つの現実界があることである。
象徴界のなかにある穴が、象徴界のなかの現実界の機能であり、これがアンコールまでのラカンの現実界である。他方、想像界と現実界の重なり目にあるのが、アンコール以後のラカンの現実界であり、享楽の固着(フロイトのリビドー固着)としての現実界である。
ラカンは最晩年になって、それまでの科学の現実界のラカンから、身体の現実界のラカンへと、真にフロイトに回帰したのである(もっともこの身体の現実界のラカンは、セミネール10にある。したがってセミネール11からセミネール20の5月前後の講義までが科学の現実界のラカンである)。
二つの現実界
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象徴界の穴
(象徴界の中の
現実界の機能)
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テュケー τύχη [ tuché ]を現実界との出会い rencontre du réel と定義する。(ラカン、S11, 05 Février 1964)
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テュケーtuchéの機能は、出会いとしての現実界の機能fonction du réel ということである。(ラカン、S11、12 Février 1964)
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(テュケーとしての)象徴的形式化の限界との出会い、書かれることが不可能なものとしての現実界との出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
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現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を為す。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
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現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation (LACAN, S20、20 Mars 1973)
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真の穴
(享楽の固着)
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現実界は書かれることを止めない。le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)
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症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps (Lacan, AE.569, 16 juin 1975)
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症状は、現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (Lacan, La Troisième, 1974)
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純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
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症状とはラカンが固着に与えた名である。Le symptôme est le nom que Lacan donne à la fixation (Pierre-Gilles Guéguen, Options lacaniennes de mars 1994)
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フロイトの固着…、それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
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ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。
その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。
Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole.
(⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」のちに介入された「二次的構築物」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。
…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
このミレールが言っていることが、ここまで記してきた固着としての現実界であり、この観点については、たとえばジジェクの現実界は完全に抜け落ちている。
現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体[the non‐All of the symbolic]である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。
存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰り[the Real is an impasse of formalization]だから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ[the Real is nothing but an impasse of formalization]。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体以外の何ものでもない[The Real is nothing but the non‐All of formalization](ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
わたくしはジジェクを長いあいだ好んで読んできたが、彼を読むときに最も注意しなければならないのは、ジジェクの現実界は贔屓目にみても半分しか正しくないことである。