2019年11月15日金曜日

二つのプンクトゥム

ジャック=アラン・ミレールはこう言っている。

『明るい部屋』のプンクトゥムpunctumは、ストゥディウムstudiumに染みを作るfait tache dans le studiumものである。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才 le génie propre de Roland Barthes が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果l'Effet de réelと呼ばれるものである。(Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011)

この発言自体、バルトファンのわたくしにはーードゥルーズ・フーコー・デリダなどは屁みたいなもので、あんなものはニブイ学者用であるーー、ようやく臨床主流ラカン派のボスがこう指摘してくれることになったか、ととてもお気に入りの文である。だがバルトのプンクトゥムはミレールのいう「現実界の効果」だけではないように思える。事実、バルトは二つのプンクトゥムを提示している。


二つのプンクトゥム  
プンクトゥム  ①:ストゥディウムに染みを作るプンクトゥム  
ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。

プンクトゥム(punctum)――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou小さな染み petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章、1980年)
確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau.…そして私が絵の中の何ものか quelque chose dans le tableau なら、…それは染み tâche としてある(絵のなかの染み tache dans le tableau)(ラカン、S11, 04 Mars 1964)
一人の立派なハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかな染み tache がある。純白の頭巾に。une tache, un léger frottis de merde, comme un besoin de pigeon, sur la capuche immaculée.(ロラン・バルト『偶景』1969年テキスト、死後出版1982)
私は何よりもまず、次のように強調しなくてはならない。すなわち、眼差しは外部にある le regard est au dehors。私は見られている(私は眼差されている je suis regardé)。つまり私は絵である。これが、視野における、主体の場の核心に見出される機能である。視野のなかの最も深い水準において、私を決定づけるものは、眼差しが外部にあることである。…私は写真であり、私は写真に写されている je suis photo, photo-graphié。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
プンクトゥム ②:失われた時あるいは傷としてのプンクトゥム  
ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça―a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第39章「プンクトゥムとしての時間 Le Temps comme punctum」)
(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷 blessure もないのである。)(ロラン・バルト『明るい部屋』第30章)
展開しえないもの、ある本質 (心の傷のそれ)[une essence (de blessure)]それは変換しうるものではなく、ただ固執 l'insistance (執拗なまなざしregard insistant によって) という形で反復されるだけである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第21章)
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すme livrerことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』第19章)
補足、身体の記憶としてのプンクトゥム  ②
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ーー中井久夫のいっている「異物」はフロイト概念であり、固着による身体的なものの残滓である。

フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体側からの反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004ーー「ファルス享楽と女性の享楽」の二重構造)


いま先にかかげた引用群から判断するかぎり、バルトの二つのプンクトゥムは、二つの現実界に相当するにちがいないとわたくしは思う。もちろん「エッセイスト」ーー「真のアマチュア=アマトゥール(愛する人)」ーーバルトが厳密にそんなことを記すわけがない(バルト自身、記述にいくらかの混淆がある)。とはいえ臨床ラカン派でさえ2010年前後からようやく掴みかかってきた後期ラカンの現実界に相当するものを、バルトはその遺作『明るい部屋』で既に(すくなくとも)暗示しているのである。


ラカンのセミネール23には次の二つの穴が示されたボロメオの環がある(穴とは、ラカンの定義上、現実界である)。




いま上にかかげた下のほうのボロメオの環に矢印でしめした内容は、誰もこう示しているのをみたことがないが、論理的にはこうなる筈である。

ようするに「象徴界のなかの現実界の機能としての穴」が現実界①=プンクトゥム①であり、想像界と現実界の重なり箇所にある「真の穴」が現実界②=プンクトゥム②である。

これはわたくしがこう判断するということであり、いま上に掲げたバルト文の列挙とこれから掲げるラカン・ラカン注釈者・フロイト文を読み比べれば、どうしたったこうなるのである。



二つの現実界
(テュケーとしての)象徴的形式化の限界との出会い、書かれることが不可能なものとしての現実界との出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能」 la fonction du réel dans le Symboliqueである。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、(フロイトの)固着としての症状 Le symptôme, comme fixionである。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)
現実界①:象徴界の中の現実界の機能    
テュケーtuchéの機能は、出会いとしての現実界の機能fonction du réel ということである。(ラカン、S11、12 Février 1964)
シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それがアリストテレスのオートマトン αύτόματον [ automaton ]であり…他方、テュケー τύχη [ tuché ]は現実界との出会い rencontre du réel と定義する。(ラカン、S11, 05 Février 1964)
現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界②:身体の出来事(トラウマへの固着)による反復強迫
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel, (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
病因的トラウマ ätiologische Traumenは…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。……これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
フロイトが固着と呼んだものは、…享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
…この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する要素 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es でなる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
享楽の固着とそのトラウマ的作用 fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler 、2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)