2019年11月23日土曜日

現実界の意志(エスの意志)

これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…

心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)

………

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )
精神分析とショーペンハウアーの哲学との大幅な一致、ーー彼は感情の優位と性の際立った重要さを説いただけでなく、抑圧の機制すら洞見していたーーは、私がその理論を熟知していたがためではない。ショーペンハウア一を読んだのは、ずっと後になってからである。哲学者としてはもう一人ニーチェが、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。だからこそ、私は彼を久しく避けてきたのだ。私が心がけてきたのは、誰かに先んじること (Priorität)にもまして、とらわれない態度(Unbefangenheit) を持することである。(フロイト『自己を語る』1925年)


ニーチェを心理学者として扱うならーーフロイト語彙なら「メタ心理学者」として扱うならーー、次の五つの文が核心だとわたくしは捉えている。



エスの声、自己固有の出来事、傷つけることを止めないもの、力への意志(欲動力)、飼い馴らされていない欲動
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。
Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)

もうひとつこう付け加えておいてもよい。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

フロイト・ラカン理論の核は(もちろんその臨床治療の相を除けば、という意味だが)、上のニーチェの六つの文の真意を十全に把握すればだいたいはいけるのではないだろうか? わたくしはそう考える。


ここではまず③と②についていくらかの文献を列挙する。

まず③を再掲しよう。

◼️ 傷つけることを止めないもののみが記憶に残る
「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)


◼️トラウマは書かれることを止めない
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

◼️身体の上への刻印は書かれることを止めない
症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


次に②である。

◼️ 常に回帰する自己固有の出来事
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


◼️不変の個性刻印は永遠回帰(反復強迫)する
同一のものの反復の不気味さ das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr がいかにして幼児の心的生活から演繹されうるかを、ここではただ示唆するにとどめて、そのかわりこれについてはすでに、これを別の関連において詳細に論じた仕事のあることをお知らせしておく。

つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫 Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快原理を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を思い出させうるものこそ不気味なもの unheimlich として感ぜられると見ていいように思う。(フロイト『不気味なもの』1919年)
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


◼️ 自己身体の上への出来事(トラウマへの固着)は反復強迫する
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…このトラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)


◼️不変の刻印として永続する記憶は外傷性記憶である
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


◼️すべての症状の根には初期の外傷体験がある
すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章, 1937年)
たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章, 1937年)


◼️トラウマの記憶は異物(異者としての身体)のようにたえず刺激や反応現象を起こしている
トラウマ(心的外傷)ないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)

 ーーこの「たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状」とは、「いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる」とともに読むこともできる。

われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

………

①④についてはやや長くなるが次のとおり。

フロイトが「エスの意志 Willen des Es 」あるいは「エスの力能 Macht des Es」というときそれは「力への意志 Wille zur Macht 」と等価な表現として扱える。

エスの意志=力への意志
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』、死後出版1940年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)



ラカンが現実界というときもそれはエスであり、ようするに「力への意志」とは「現実界の意志」である。


エス=モノ=現実界
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)
現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
モノ=外密=対象a=異物(異者としての身体)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
対象a は外密的である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガー が使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
異者としての身体=他の身体
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
現実界が…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)
欲動の現実界le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
サントーム=モノの名=現実界
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名(モノの名)、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
享楽自体、穴を為すものである、 la jouissance même qui fait trou(J.-A. MILLER, Passion du nouveau、2003)

モノ=穴
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。

Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre. La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
モノ=原母=喪われた対象=穴の名
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
サントーム=享楽の固着=無意識のエスの反復強迫=永遠回帰の意志
厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、…反復的享楽 jouissance répétitiveであり…それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)=固着を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'être et l'un、23/03/2011) 
自動反復 Automatismusとは、…固着による無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
フロイトの固着は…享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)



最後の文は、ドゥルーズやクロソウフキーの次の文とともに読めばよりわかりやすいだろう。

力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retourは力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。…

しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


⑤についてはもはやいささか蛇足気味だが、やはり引用しておこう。



欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。

Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)
荒々しいwilden、「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 vom Ich ungebändigten Triebregung 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)
蠢動(欲動蠢動 Triebregung)は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14  Novembre  1962)

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)