2020年1月16日木曜日

男に疎外された女



女性の仮装=男に疎外された女
女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた享楽である。…この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。そしてこの場から、彼女は女性性とは何かという謎に接近する。

ヒステリーから逃れた別の女たちは、(ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 Autre jouissance(身体自体の享楽)、女性の享楽 jouissance féminineへのアクセスが可能になる。

ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと女性の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。

しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。

彼女は、パートナーの幻想が彼女に要求する対象であることを見せかける。見せかけることとは、欲望の対象であることに戯れることである。彼女はこの場に魅惑され、女性のポジション内部で、享楽する jouisse。しかし彼女は、この状況から抜け出さねばならない。というのは、彼女はいつまでも、見せかけの対象aの化身ではありえないから。…

女性の享楽は、「大他者の大他者はない」すなわち「性関係はない」という経験へのアクセスを獲得しうる場である。(Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)
女性の享楽=享楽自体
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

享楽=自体性愛
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

女性の享楽=性関係はない
女性の享楽(「他の享楽 autre jouissance」)、それは社会的結びつきから排除されたものである。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール, L'être et l'un、2011)



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女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性 féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)
男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)
男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)




※参照:「イマジネールな身体」と「リアルな身体」