2020年1月18日土曜日

異物の享楽 jouissance du corps étranger


以下、ラカンの享楽=「自己身体の享楽 jouissance du corps propre」は、実際は「異者としての身体の享楽 jouissance du corps étranger」であるだろうことを示す。

………

次の二文の「他の身体」と「異者としての身体」は同じ意味である。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

二文を混淆させて言えば、「ひとりの女は異者としての身体の症状」である。

「異者としての身体」とは、フロイトの「異物Fremdkörper」と訳される語と同義である。Fremdkörperとは由緒正しい語であり、ラテン語のcorpus alienumが起源らしい。「エイリアンの身体」と訳せる語である。

したがって「ひとりの女はエイリアンの身体の症状」である。

ここでの症状は、人間の誰しもがもつ原症状=サントームのことであり、ゆえにラカンはこうも言う。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

以下、表現としては「異者としての身体の症状」「エイリアンの身体としての症状」のほうを好むにもかかわらず、長すぎるので「異物としての症状」とする。繰り返せば「異物」とは本来「異躰」とするほうが望ましい。

フロイトは次のように言っている。

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…

われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

すなわち、自我にとって治外法権にあるエスの欲動蠢動、これを異物としての症状と呼ぶのである。別の言い方なら、「無意識のエスの反復強迫Wiederholungszwang des unbewußten Es」をもたらす症状である。

この異物という表現は、フロイトにおいて最初期からあるが、おそらくブロイアー  起源である。

トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

ラカンの享楽とは、実はこの異物の享楽である。「異物の享楽 jouissance du corps étranger」と直接的に言っているラカン派はいまだいないが、次のミレール文を意訳すればそうなる。

自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。…これはむしろ精神病の要素現象(本源現象)の審級にある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre… là c'est plutôt de l'ordre du phénomène élémentaire de la psychose ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

自己身体の享楽とは、自体性愛autoérotisme(自己身体エロス)のことである。

フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…が、自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. 

…ヘテロhétéro、すなわち「異物的(異者的 étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

見ての通り、ラカン自身、自体性愛は実際は「異物エロス」だと言っている。

ここで確認の意味でミレール 文をふたつ掲げておこう。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

この二文から読み取れるように、享楽=自体性愛=女性の享楽である。この女性の享楽が享楽自体であり、別名、原症状としてのサントームである。

そして冒頭から記してきたように、ひとりの女=異物(異躰)である。この「異物」を「女性の享楽」の「女性」に代入すれば、「異物の享楽」となる。これがフロイトのいう「異物としての反復強迫症状」である。

ここで最も注意しなければならないのは、ミレール のいう「享楽形態はつねに男性側から考えられていた」における「男性」というシニフィアンである。これは生物学的な「男性」ではなく、「言語内の」という意味である。そして言語外の享楽を女性の享楽=享楽自体と呼ぶのである。

したがって後期ラカンにおいては、生物学的な女性でも、言語内の享楽(象徴界の享楽)、さらに言語によって構造化されたイマジネールな享楽(想像界の享楽)に終始していれば、男性の享楽(ファルス享楽)なのである。このファルス享楽とは、後期ラカンにおいての「自己身体の享楽=享楽自体」を受け入れるなら、事実上「享楽」ではなく、ファルス快楽である。

さてもうひとつ、享楽(=サントームの享楽)が異物の享楽であるだろうことをわたくしが想定した文を掲げる。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名(モノの名)、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

サントーム=モノの名とある。

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガー が使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)

すなわち、モノ=外密=異物(異者としての身体)である。したがってサントームとは異物の名である。

冒頭近くに引用した文を再掲しよう。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

こうして「ひとりの女は異者としての身体の症状」であることが確認できた筈である。そしてこれが女性の享楽=享楽自体であり、ゆえに異物の享楽(異者としての身体の享楽)となる。

この異物の享楽とは、喪われた身体の享楽のことでもある。

ここでも簡略に確認しておこう。

上にモノ=異物としたが、モノとは喪われた対象である。

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…それはフロイトのモノ La Chose(das Ding)だ…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

したがって喪われた対象=異者としての身体である。この喪失によって身体は穴が空く。《身体は穴である。corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

より具体的には固着による穴である。

ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。 (ピエール・ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

いくらか表現的に奇妙にきこえるかもしれないが、穴の享楽JȺ(jouissance du trou)と異物の享楽(jouissance du corps étranger)とは同義なのである。

そしてこの穴、ーーリビドー固着Libidofixierung(享楽の固着 fixation de jouissance)によって空いた穴ーーの別名は、去勢である。

享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)

こうして異物の享楽(jouissance du corps étranger)=穴の享楽(jouissance du trou)=去勢の享楽(jouissance de la castration)ということになる。

もっとも去勢は何種類かの享楽(象徴的享楽、想像的去勢、現実界的去勢、原去勢等)がある。異物の享楽=穴の享楽がかかわるのは、基本的には現実界的去勢(たとえば母の乳房の喪失)、原去勢(出産外傷)だけであるとわたくしは考えている。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

結局、幼児期の去勢とは自分の身体だとみなしていたものが喪われたるということであり、これが異者としての身体である。そしてこの喪われた異物を取り戻そうとする運動が、「享楽= 原ナルシシズム的リビドー」である。

だが究極的には「喪われた母なる身体=異者としての身体」を取り戻すことは、母なる大地への回帰=死である。ゆえにラカンはこういう。

JȺ(穴の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)

では何の享楽があるのか? 穴埋め享楽のみがある。

-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)

すなわち剰余享楽 plus-de-jouirである。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

………

以上、現在のわたくしはこう捉えているということであり、繰り返せば(ネット上で検索する範囲では)世界中のラカン派においてもジカには、異物の享楽という表現は誰も使っていない。したがってここでの記述の取り扱いにはくれぐれもお気をつけを!

とはいえ、「異物の享楽=穴の享楽=去勢の享楽」を裏付けうるだろうもういくつかの文を付記しておこう。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt (=固着)との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、 Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方で、この対象a を(-φ)にて示している。(ラカン、S11,   11  mars  1964 )
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からに反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a (=喪われた対象、去勢)を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴 Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance 、1999)


※補足➡︎対象aの起源