2020年4月21日火曜日

「愛はインチキ」の起源にある思考

愛はインチキ」に引き続く


自体性愛の対象=永遠に喪われている対象
われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
自体性愛=享楽=欲動
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

自体性愛(享楽)の対象は空洞 creux・空虚 videと言っているが、後年、これを穴Trou と呼ぶ。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

注意しなければならないのは、ここでの大他者の穴とは、原大他者=母なる大他者という意味もあるが、身体の穴という意味もあることである。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

そしてこういった流れのなかで次のように言うのである。

享楽の対象=モノ=喪われた対象
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

モノについては記述が長くなるのでここでは触れない➡︎モノ=斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」を参照のこと。

ここでの文脈で、このセミネール17の文で重要なのは、「享楽の対象は喪われた対象」と言っていることであり、冒頭に掲げたセミネール11では、「自体性愛の対象は喪われた対象」と言っていることである。すなわち、ジャック=アラン・ミレールの享楽=自体性愛が確認できた筈である。

ところで最晩年のラカンは享楽について次のように言っている。

享楽は去勢
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

この文は何よりもまず次のフロイト文とともに読むべきである。

・去勢は自己身体の重要な部分の喪失
・原去勢は出産による母からの分離
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり「自己身体の重要な部分の喪失VerlustVerlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils 」と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

例えばラカンは母胎の喪失が最も深い喪われた対象だと言っている。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった自己自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象をシンボライズする。
le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン, S11, 20 Mai 1964)

ラカンが上に上げたセミネール17で言っている「享楽回帰 retour de la jouissance」の反復運動とは、根源的には、喪われた母胎を取り戻そうとする不可能なエロス欲動のことである。

なぜ不可能なのかは、生きている存在にとって母胎回帰の内実は、母なる大地との融合=死でしかありえないから。

大他者の享楽=エロス=死
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

フロイトの死の枕元にあった草稿には次の記述がある。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

繰り返せば、母胎回帰=享楽回帰=究極のエロス=死である。

エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)

フロイトラカンのこのような思考は原ナルシシズム概念を軸にすると捉え易い。

ラカンは既にセミネール10の段階で、「自体性愛 auto-érotisme」と「原ナルシシズムnarcissisme primaire」 と「自己身体の享楽jouissance du corps propre」を等置している。自体性愛Autoerotismusとは「自己身体エロス =自己身体の享楽=原ナルシシズム欲動」なのである。そして自己身体とは、上に見てきたように「去勢によって喪われた自己身体」である。

まずフロイトは次のように欲動を定義している。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

究極の以前状態とは出生によって喪われた母胎内生活である。

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)

絶対的な自己充足をもつナルシシズムを取り戻す運動が、原ナルシシズム欲動である。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

フロイトは喪われた乳房が原ナルシシズム的リビドー(欲動)の対象だと言っているが、これは上に見たように、喪われた母胎から見れば二次的なものである。

疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、第7章、死後出版1940年)

「喪われた」とは繰り返せば、「去勢された」という意味であり、「喪われた原ナルシシズム状態」とは、「原エロスの控除=原享楽の控除」という意味である。

これは出生とともに「斜線を引かれたエロス =斜線を引かれた享楽」の存在にわれわれはなるという意味である。




(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

以上のフロイトラカンの思考はおそらくとくに目新しくない。例えばーー最近気づいたのだがーーレオナルド・ダ・ヴィンチが「原カオス」という用語を使って次のように言っているが、原カオスを原ナルシシズムとすればほとんどそのままフロイトラカンである。

我々の往時の状態回帰(原カオス回帰)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)