フロイト以降、原抑圧概念は全く忘れられるつつある。証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現以前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, DOES THE WOMAN EXIST?、 1997)
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この現象はいまだほとんど修正されていない。
だがフロイトには二種類の無意識がある。
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システム無意識(原抑圧)/力動的無意識(抑圧)
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フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。
システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。
他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」における基盤となる無意識 Unbewusstenは、システム無意識 System Ubwを表す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)
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抑圧の無意識が、フロイト的臨床(自由連想、徹底操作)の対象としての神経症者の無意識であり、これが一般的にはフロイトの無意識とされるが、上に「無意識の後裔」とあるように、実際は二次的な無意識である。フロイトの古典的臨床では、原無意識、つまり前エディプスの審級(言語外の身体的審級)にある精神病や倒錯の原抑圧の無意識は対応できない(ちなみに「言語外」とはフロイトラカンにとって「トラウマ的」という意味をもつ)。
臨床的に対応不可能だとは言えーー可能なのはこの原無意識的症状に対する防衛としての別の症状の構築であり、これをラカンは明瞭化したーー、核心の無意識は、この原抑圧=固着の原無意識である(フロイトはこの原抑圧の無意識を「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」「欲動の根 Triebwurzel」等とも呼んだ)。神経症的力動無意識の底部にもこの原抑圧の無意識がある。これを「症状の二重構造」と呼ぶこともある。
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原抑圧(=リビドー固着)による原無意識
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われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
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分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向があることである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
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自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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このリビドーの固着を現代ラカン派は享楽の固着と呼ぶ。
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フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
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享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
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享楽とは事実上、リビドーの固着による身体的な反復享楽のことであり、これを原症状としてのサントームとも呼ぶ。
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反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。
この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
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フロイトの二種類の無意識は、ラカンの次の二文に相当する。
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無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage (ラカン、S11、22 Janvier 1964)
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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ーー前者が抑圧の無意識、後者が原抑圧の無意識である。ラカンの無意識は一般に前者の「言語のように構造化されている無意識」と捉えられているが、これはフロイトの無意識と同様、半分しか正しくなく、後者の「話す身体のリアルな無意識」のほうがむしろ核心である。
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真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
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フロイトの原抑圧としてのリアルな無意識を、晩年のラカンは「言存在 parlêtre」と呼ぶようになるが、これが享楽(話す身体の享楽)である。
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ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…
言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。
言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtre は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現 une émergence de jouissanceである 。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《ひとりの女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)
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ーー「身体の出来事」、「他の身体の症状」、「ひとりの女」とあるが、すべてサントーム(原症状)のことである。
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
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ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
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「ひとりの女」は、解剖学的女性とは関係がない。この「ひとりの女」は、言語内の審級にあるファルス享楽に対する「女性の享楽」(=身体の享楽)にかかわる。欲動の身体は男性にも女性にもある。したがって女性の享楽は生物学的女性の享楽ではけっしてない。他方、ファルス享楽は、実際は、ファルス快楽・ファルス欲望とすべき内容をもっており、ファルスの彼岸(快原理の彼岸)にある女性の享楽が、事実上の享楽自体である。ーー《欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance》 ( Miller, L'économie de la jouissance, 2011)
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享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps …享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
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純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
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最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
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このあたりは、現在でもラカン派プロパでさえ「女性の享楽」はセミネール20「アンコール」までの第1期の女性の享楽として捉えられておりーー批評家等ならさらにいっそうそうであるーー、最も注意しなければならない点である(今、アンコールまでと記したが、アンコールの最後の方の講義1973年5月に転回がある)。
要するに享楽(=女性の享楽)とはリビドー固着による無意識のエスの反復強迫のことであり、これを原症状としてのサントームと呼ぶのである。
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欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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以上に記した内容の要点語彙等を、ミレール2005の図表の上に付け加えて示しておこう。
右項に「穴」とある。この用語だけ確認の意味でラカン自身から直接引いておこう。ーー《現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».》(ラカン、S21、19 Février 1974)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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