2020年4月25日土曜日

コードレッド


超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)


父の名(自我理想)は超自我を飼い馴らす機能をもっている。だが十全には飼い慣らせず、必ず残滓(享楽の残滓)がある。以下、ジジェク文を三つ引用するが、いま上に示した内容のヴァリエーションである。


社会的自我理想と猥雑な超自我
二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり 社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という 概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

コードレッド
公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない。ロブ・ライナー監督の『ア・フュー・グッド・メン』を思い出してみよう。ふたりの米海軍兵士が、同僚を殺した罪で軍法会議にかけられる。軍検察官は計画的殺人だと主張するが、弁護側(トム・クルーズとデミ・ムーアという最強コンビだから裁判に負けるはずはない)は被告人たちがいわゆる「コード・レッド」に従っただけなのだということを立証してみせる。このは、海兵隊の倫理基準を破った同僚を夜ひそかに殴打してもよいという、軍内部の不文律だった。このような掟は違法行為を宥恕するものであり、非合法であるが、同時に集団の団結を強化するという役目をもっている。夜の闇に紛れ、誰にも知られず、完璧におこなわれなければならない。公の場では、誰もがそれについて何も知らないことになっている。いや積極的にそのような掟の存在を否定する(したがって映画のクライマックスは、予想通り、殴打を命じた将校ジャック・ニコルソンの怒りの爆発である。彼が公の場で怒りを爆発させたということは、彼の失脚を意味する)。
このような掟は、共同体の明文化された法に背いている一方で、共同体の精神を純粋な形で表象し、個々人に対して強い圧力をかけ、集団の同一化を迫る。明文化された<法>とは対照的に、このような超自我的で猥雑な掟は本質的に、人から見えない所で密かに口にされる。そこに、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の教訓がある。カーツ大佐という人物は野蛮な過去からの生き残りなどではなく、現代の権力そのもの、<西洋>の権力の必然的結果である。カーツは完璧な兵士だった。そしてそれゆえに、軍の権力システムへの過剰な同一化を通じて、そのシステムが排除すべき過剰へと変身してしまったのである。『地獄の黙示録』の究極の洞察はこうだーー権力はそれ自体の過剰を生み出し、それを抹殺しなければならなくなるが、その操作は権力が戦っているものを映し出す(カーツを殺すというウィラードの任務は公式の記録には残らない。ウィラードに命令を下す将軍が指摘するように、「それは起きなかった」ことなのである。)(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年)

ペドフィリア生産装置としてのカトリック教会
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。

彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。

それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理的現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。

人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、否認された猥褻な裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。

言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻な秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この隠匿された面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。

したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。

慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ! (ジジェク 、Tolerance as an Ideological Category , 2007)