たとえ知識があろうとも、 それだけでは誰にも行動を促すことはできない。(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』2005)
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プロジェクトの時間(投企の時間 le temps du projet )は支配的議論の原理を覆す。過去は取り消せないものではない。過去は固定化されていない。現在の行為が、過去の上に反事実的力をもつ。[Le passé n'est pas irrévocable, il n'est pas fixe, l'action présente a un pouvoir contrefactuel sur le passé.](Jean-Pierre Dupuy, 「啓蒙カタストロフィ主義のために ーー不可能性が確実になるとき Pour un catastrophisme éclairé Quand l'impossible devient certain」2004)
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カタストロフィ的出来事は運命として未来に刻印されている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来futur antérieurにおいては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事がアクチュアルになること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのである。[C'est donc l'actualisation de l'événement – le fait qu'il se produise – qui crée rétrospectivement de la nécessité.](Jean=Pierre Dupuy, Petite métaphysique des tsunami, 2005)
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デュピュイの提唱する破局への対処法…。まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することである。
われわれは受け入れてなくてはならない、可能性の水準においては、われわれの未来は運命づけられており、カタストロフィは起こるだろうことを。それはわれわれの運命である。そしてこの受容の背景に対して、運命自体を変える行為の遂行を動員すること。このようにして、過去のなかに新しい可能性を挿入するのだ。
逆説的ながら、大惨事をさけるための唯一の道は、それを不可能なこととして受け入れることである。バディウにとってもまた、出来事への忠誠性の時間は、前未来 futur antérieurである。つまり時間を超えて未来に追いつき、向きあって、実現してほしい未来がすでにそこにあるかのように、いま行動するということだ。(ジジェク 『ポストモダンの共産主義』 2009年)
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例えば、現在の黙示録的状況[apocalyptic situation]、未来の究極的地平は、ジャン=ピエール・デュピュイJean‐Pierre Dupuyが呼ぶところのディストピア的「固定点 point fixe」(dystopian “fixed point,” )であり、エコロジカル瓦解、世界経済的・社会的カオス等のゼロ点である。もしそれが無限に延期されても、このゼロ点は、われわれの現実がそれに為すがままになって向かい続ける「潜在的アトラクター」である。
未来のカタストロフィと闘う方法は、このディストピア的「固定点 point fixe」に向けての「駆動力drifting」を中断する行為を通してのみ存在する。行為とは、「来るべきラディカルな他者性を生み出すリスクを引き受けることである。
われわれはここで「前途に見込みがない(未来はないno future)」というスローガンが如何ようにも解釈されることを見る。それは、より深い水準では、変化の不可能性を示しているのではない。そうではなく厳密に、われわれに覆い被さっているカタストロフィ的「未来」を突破するために闘争すべきであることを示している。それによって、「来るべきべき」新しい何ものかのための空間を開くのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
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標準的視野によれば、過去は固定化されている[the past is fixed]。既に起こったことが起こったのであり、やり直しはきかない。そして未来は開かれている[the future is open]。未来は予期できない偶然性によって決まる。
われわれが提案していることは、この標準的視野の転倒である。すなわち過去は開かれている[the past is open]。過去は遡及的な再解釈に開かれている。他方、未来は閉じられている[the future is closed]。その理由はわれわれは(因果的)決定論の世界に生きているから。これは、未来は変えられないことを意味しない。それが意味するのは、未来を変えるためには、われわれは先ず過去を(「理解する」のではなく)変化させなければならないことだ。過去を再解釈すること。過去の支配的視野によって暗示された未来とは別の、異なった未来に向けて開かれているように過去を再解釈すること。(ジジェク、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019)
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