◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第二部「アンチロゴス」(1970年第二版より)
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プラトンのレミニサンス réminiscence platonicienne (想起 remémoration)
ーー理知が常に先にくる l'Intelligence vient toujours avant
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われわれはプルーストに、或るプラトニズムがあったことを認めてきた。『失われた時を求めて』全体は、レミニサンス réminiscence とエッセンスの実験である。プルーストは、能力を無意志的 involontaire に行使するとき、それを分割 disjoint して用いるが、そのモデルがプラトンにあることをわれわれは知っている。つまり、プラトンはシーニュの力に対して開かれている感受性、シーニュを解釈し、その意味を再発見する、記憶作用をする魂 âme、エッセンスを見出す理知的思考を用いているのである。しかし、プルーストとプラトンとのあいだには、明らかな差異がある。
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プラトンのレミニサンス réminiscence platonicienne の出発点は、相互に捉えられ、その生成と、変化と、不安定な対立と、《相互融合 fusion mutuelle》とにおいて把握された性質と、感覚的関係の中にある(たとえば、或る点では不平等な平等、小さくなる大きなもの、軽いものと不可分な重いものなど)。しかしこの質的生成は、どうにかこうにか、またその力にしたがってイデアを模倣する物の状態、世界の状態を示している。そして、レミニサンスの到達点としてのイデアは、安定したエッセンスであり、対立したものを分離し、全体の中に正しい尺度(平等でしかない尺度)を導入する物それ自体である。イデアが、たとえあとから見出される場合でさえも、常に《前に avant》あり、常に前提とされているのはそのためである。出発点は、到達点をすでに模倣できるという能力によってのみ価値がある。その結果、いくつかの能力を分断して用いることは、それらの能力全体を同じひとつのロゴスに統一する弁証法への《前奏 prélude》にほかならない。それは円弧の部分を作ることが弧全体の回転を準備するのに似ている。弁証法に対する批判の全部を要約してプルーストが言うように、理知が常に先にくるのである l'Intelligence vient toujours avant。
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プルーストのレミニサンス
ーー魂の状態の中に書き込まれる inscrits dans un état d'âme
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『失われた時を求めて』においては、これとは全く同じではない。質的生成、相互融合、《不安定な対立 instable opposition》は、魂の状態の中に書き込まれる inscrits dans un état d'âme のであって、もはや、物や世界の状態の中に記されるのではない。夕陽の斜めの光線・匂い・味・空気の流れ・束の間の質的複合体は、それらが入り込んで行く《主観的側面 côté subjectif》においてのみ価値を持つはずである。それが、レミニサンス réminiscence が介入してくる理由である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」1970年)
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◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第一部第五章「記憶の二次的役割」より
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意志的記憶 la mémoire volontaire
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意志的記憶 mémoire volontaire には、「過去の即自存在 l'être en soi du passé 」という本質的なものが欠けているのは明らかである。意志的記憶は、過去が以前に現在であったのちに、過去が過去として構成されたかのようにふるまう。(……)確かに、われわれは過去を現在として経験しているその同じときに、何かを過去として把握することはない(……)。しかしそれは、意識的知覚と、意志的記憶との結合された要求によって、もっと深いところで両者の潜在的共存 coexistence virtuelle が存在しているところに、実在的連続 succession réelle が作られるからである。
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一気に、過去そのものの中に自らを置くこと
qu'on se place d'emblée dans le passé lui-même
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もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現実の現在から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成するのではなく、一気に、過去そのものの中に自らを置くことqu'on se place d'emblée dans le passé lui-même。
もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現勢的な現在 actuel présent から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない on se place d'emblée dans le passé lui-même。この過去は、過去の何かを代表象するものではなく ce passé ne représente pas quelque chose qui a été、現在存在するもの、現在としてそれ自体と共存する何か coexiste avec soi comme présent だけを代表象する。。この過去は、過去の何かを表象するものではなく、現在存在するもの quelque chose qui est、現在としてそれ自体と共存する何か qui coexiste avec soi comme présent だけを表象する。
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ベルクソンの「潜在的なもの le virtuel」
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過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからである。――これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在をベルクソンは「潜在的なもの virtuel」と呼んだ。同様にプルーストも、記憶のシーニュによって帰納された状態について、《現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits》と言っている。
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ベルクソンとプルーストの相違
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確かにそこを出発点として、プルーストとベルクソンとでは問題が同じではなくなる。ベルクソンにとっては、過去がそれ自体で保存されることを知れば足りる。(……)これに対してプルーストの問題は、それ自体において保存される過去、それ自体において生き残るような過去をどのように救うかという問題である。(……)この問題に対して、無意志的記憶 mémoire involontaire のはたらきという考え方が解答を与える。
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無意志的記憶 La mémoire involontaire
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無意志的記憶のはたらきは、まだ第一に、ふたつの感覚、ふたつの時間の間の類似性に依存しているように思われる。しかし、もっと深い段階では、類似性からわれわれは厳密な同一性へと導かれる。それは、ふたつの感覚に共通な性質の同一性か、あるいは、現在と過去というふたつの時間に共通な感覚の同一性である。
たとえば味であるが、味は、同時にふたつの時間に拡がる、或る量の持続 durée を含んでいる。しかしまた逆に、同一の性質である感覚は、何か差異のあるものとのひとつの関係を含んでいる。マドレーヌの味は、それに含まれたものの中に、コンブレーを閉じこめ、包んでいる。われわれが意志的知覚に留まっている限り、マドレーヌはコンブレーと全く外的な接近関係しか持たない。われわれが意志的記憶に留まる限り、コンブレーは、過去の感覚と不可分のコンテクストとして、マドレーヌに対して外的なままである。しかし、ここに無意志的記憶の特質がある。無意志的記憶はこのコンテクストを内在化し、過去のコンテクストを、現在の感覚と不可分なものにする。
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内在化された差異 différence intériorisée
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ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している接近性は、もっと深い差異へとおのれを越えて行く。コンブレーは現在の感覚の中に再現され、過去の感覚とその差異は、現在の感覚の中に内在化される。したがって、現在の感覚は、異なった対象 objet différentとのこの関係とはもはや分離できない。
無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異 différence intériorisée である。レミニサンス réminiscence が芸術と類比的で、無意志的記憶が隠喩と類比的であるというのは、この意味においてである C'est en ce sens que la réminiscence est l'analogue de l'art, et la mémoire involontaire, l'analogue d'une métaphore。無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの異なった対象 deux objets différents》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み、両者の関係を、何らかの内的なものにする。
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純粋過去 passé pur 、あるいは
純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur
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マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたち forme absolument nouvelle になっている。
コンブレーは、かつて現在 été présent であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。
それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、意志的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、リアリティréalité においてではなく、その真理において現われる。コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の意志的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現勢的もの actuel である現在と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去の即自存在 l'être en soi du passé である。《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、「局在化した時間の本質 l'essence du temps localisée」である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第一部第五章「記憶の二次的役割」)
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きらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、
純粋状態にあるわずかな時間 un peu de temps à l'état pur
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単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。
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ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念 l'idée d'existence を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続 la durée d'un éclair、純粋状態にあるわずかな時間 un peu de temps à l'état pur ――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。
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あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。
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ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時の秩序から解放されたある瞬間が、時の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時のそと hors du temps に存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト「見出された時」井上究一郎訳、一部変更)
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もっとリアルな、もっとみのりゆたかな陶酔
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ヴァントゥイユの音楽のなかには、いわば表現することが不可能な、じっと見ることが禁じられているとでもいった、そんなもろもろの視像(ヴィジョン)があった、というのも、ねむりにはいろうとして、人がもろもろの視像の非現実的な魅惑に愛撫されるとき、まさにそのようなときに、理性はすでにわれわれをすてさり、目はとじられ、表現しえぬものどころか目に見えぬものさえつかむ余裕を失っていて、人はもう眠り込んでいるからである。私が仮説のなかで芸術は実在するであろうと考えて、その仮説に身をまかせたとき、音楽がつたえうる歓喜は、いい天気や一夜の阿片がもたらす単なる神経的な歓喜以上のものであるばかりか、すくなくとも私の予感したところでは、もっと現実的な、もっとみのりゆたかな陶酔une ivresse plus réelle, plus fécondeであるように思われた。それにしても、彫刻とか音楽とかで、より高次な、より純粋な、より真実な感動をそそるものが、一種の霊的な現実に照応していないはずはない、そうでなかったら、人生はなんの意味ももたないことになるだろう。したがって、ヴァントゥイユの美しい一楽節にも増して、私がこれまでの人生で何度か味わったあの特別の快感に似ているものはなかったのだ。Ainsi rien ne ressemblait plus qu'une telle phrase de Vinteuil à ce plaisir particulier que j'avais quelquefois éprouvé dans ma vie.
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たとえば、マルタンヴィルの鐘塔のまえで、あるいはバルベックの街道の何本かの木々のまえで、あるいはもっと早い話がこの作品の冒頭で、ふと何かのお茶を一杯飲んでいたときに味わった快感である。その一杯のお茶とおなじように、ヴァントゥイユが作曲のときに自分の生きていたその世界からわれわれに送ってくるあのように多くの光の感覚、あかるいざわめき、音を発する色彩は、私の想像力のまえに、私がゼラニウムの花びらの絹地の匂にもたとえることができる何物かを、おしつけるかのように、しかし想像力がそれを把握することができるにはあまりにも早く、ちらつかせるのであった。回想のなかでは、われわれは諸種の状況を突きあわせて、たとえばなぜある風味がわれわれに光の感覚を呼びおこすことができたかを説明できるので、右のように漠としたものも、深められはしないが明確にすることはできるのだが、ただ、ヴァントゥイユによってあたえられる漠とした諸感覚の場合は、それらが何かの回想からきているのではなくて、ある印象から(マルタンヴィルの鐘塔のそれのようにある印象から)きているために、彼の音楽のゼラニウムの芳香については、その具体的な説明を見出すことよりも、むしろその深い等価物、すなわち未知の多彩な饗宴(うたげ)を見出すべきであり(彼の諸作品は、そうした饗宴のばらばらになった断片、深紅にさけた破片であるように思われた)、そういう調子(モード)のもとに、彼が宇宙を「耳にきき」、宇宙を自分の外部に投影しているというべきであったろう。il aurait fallu trouver, de la fragrance de géranium de sa musique, non une explication matérielle, mais l'équivalent profond, la fête inconnue et colorée (dont ses œuvres semblaient les fragments disjoints, les éclats aux cassures écarlates), le mode selon lequel il « entendait » et projetait hors de lui l'univers. (プルースト「囚われの女」)
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扉を開く魔法の鍵
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(プルーストの)「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。(…)
解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(…)
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病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。(……)
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敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」1990年)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveur をももたらしうるものである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)
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中井久夫の言っている解離とはフロイトの排除と等価である➡︎「排除された身体の回帰」