2020年9月20日日曜日

原抑圧=固着=排除[Urverdrängung = Fixierung = Verwerfung]

現在の主流ラカン派においては、フロイトの原抑圧=固着が臨床の核である。


後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)



以下、原抑圧=固着、あるいは原抑圧=排除について記す。



原抑圧S(Ⱥ)=固着=女の置き残し

フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.  ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


原抑圧=排除(女の排除)

私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(J.-A. MILLER, - Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)



少なくとも私が大きく依拠してきたこの二人の言っていることをまとめればこうなる。




もっともここではすぐさま、固着と排除は完全に等価というつもりはない(一般的には固着は身体の論理、排除はシニフィアンの論理のレベルで語られることが多い)。


バーハウ の原抑圧=固着としてのS(Ⱥ)は、ミレール 自身、サントーム=固着としている。



Σ=S(Ⱥ)=Fixierung

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](フロイトが固着Fixierungと呼んだもの)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)




原抑圧が事実上、固着であり、暗闇つまりエス=現実界に女を置き残すことであるのは次の文が示している。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者(異物)が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)




他方、フロイトが次のように言うとき、本源的に抑圧されているもの=原抑圧は排除だとみなせる。


自我は堪え難い表象をその情動とともに排除(拒絶 verwirft)し、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。daß das Ich die unerträgliche Vorstellung mitsamt ihrem Affekt verwirft und sich so benimmt, als ob die Vorstellung nie an das Ich herangetreten wäre. (フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (⋯⋯)(例えば)男たちが本源的に抑圧しているのは、女性的要素であるWas die Männer eigentlich verdrängen, ist das päderastische Element(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)



最晩年のフロイトが「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」というときも、これは「女性性の排除 Verwerfung der Weiblichkeit」だと捉えうる。


(原母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellungをとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)



ラカン自身、フロイトの Verwerfung の訳語として最終的には forclusionとしたが、それ以前には「拒否」に相当する語を使っている。






そもそも本来「原抑圧」に相当するものをラカンは「抑圧」と言ったりしており、用語遣い自体が厳密ではない。


女というものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように。[La Femme dans son essence,  …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme]


なによりもまず、女の表象代理は喪われている。人はそれが何かわからない。それが「女というものである。[- d'abord en ceci que le représentant de sa représentation est perdu, on ne sait pas ce que c'est que La Femme](ラカン, S16, 12 Mars 1969)


上の文で「抑圧」と言っているのは明らかに「原抑圧」である。それは次の文が証する。


表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。

Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)


次の発言では排除と抑圧を等置している。


私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、…象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,… tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)



以上、基本的には、原抑圧=固着であり、原抑圧=排除である。上にも記したが、後者の原抑圧=排除はシニフィアンの論理の文脈で示されることが多い。



人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。(…)もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)


この一般化排除の穴は上に引用したミレール のいう「女というものの排除」(女性のシニフィアンの排除」の穴と等価である。これがラカンの《女というものは存在しない》の内実である。


女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”。この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)


そしてこれ自体、フロイト起源である。


男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。ここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、(徴としての)ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)


象徴秩序(言語秩序)はファルス秩序であり、この言語秩序には女性の表象はない。男性の表象しかない。これがシニフィアンの論理における原抑圧=排除だが、排除の原義「外に放り投げるVerwerfung」を視野に収めれば、身体の論理としての原抑圧=固着(身体的なものを「リアルな無意識としてエスのなかに置き残すbleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.」フロイト、1939)をも含意しうる。この二重の意味では、原抑圧=固着=排除[Urverdrängung = Fixierung = Verwerfung]としうる。



長年、紋切型のように繰り返されてきた「父の名の排除」は実際は「S2の排除」だというのは、現在、主流ラカン派(フロイト大義派)で、ようやくほぼコンセンサスになりつつある。


「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)

精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)



ミレールの言明は晩年のラカンの、たとえば次の発言からの帰結である。


父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

ジャック=アラン=ミレールはこう言った、《私は排除概念の一般化をしたい。…ラカンの排除はたしかに精神病と父の名に関して設置された。だがこれは基本的に限定された排除の原則[doctrine de la forclusion restreinte]である。一般化排除の原則[doctrine de la forclusion généralisée]の余地がある。》(Ce qui fait insigne, 1987)

エリック・ロランはこれを受け、去勢に関して、限定された去勢と一般化去勢[la castration restreinte et de la castration généralisée.]があるとミレール に公式に喚起した。(Roger Cassin, Tout le monde délire, 2011)



以上