2022年8月3日水曜日

欲動とリビドーの相違

 


例えばジャック=アラン・ミレールはこう言っている。

享楽の名は、リビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance, … le terme freudien de libido …faire équivaloir. ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 -30/01/2008)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


この二文を素直に取れば、「享楽=リビドー=欲動」となる。これはラカンの次の三文をやはり「すなおに」読めばそうなる。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou]〔・・・〕そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


穴あるいは原抑圧とあるが、まず穴とはラカンにとってトラウマのことである。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


さらに確認すれば、

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)


すなわち現実界の享楽(欲動の現実界=リビドー)はトラウマである。

享楽はトラウマの審級にある[la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


もうひとつ、原抑圧とはフロイトにとって固着である。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕この欲動の固着 は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege]

(フロイト『症例シュレーバー』1911年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


異者[ fremd]とあるが、これは異者としての身体[Fremdkörper]のことであり、トラウマである。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] として作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


したがってラカンの現実界の享楽は固着の異者(固着のトラウマ)である。

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)




フロイトにとって異者としての身体は、エスの欲動蠢動であり、これが欲動の最も簡潔な定義である。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。

Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



…………………


ところで、である。


まず次の三文を読んでみよう。

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält.] (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


ミレールが言うように享楽は固着だとしても、フロイトはリビドーは可動性のあるもので、そのリビドーの内の一部に「リビドーの固着」があるとしている。

その意味で、リビドーは上でミレールの定義する享楽あるいは欲動よりもっと大きな概念なのである。

これはミレール自身の1990年代のセミネールにも現れている。


彼は、リビドーの三相 [Troi avatars de la libido]という表現を使いつつ次のように言っている。

想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー[libido dans lê resistre de l'imaginaire. …la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet.]

象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー[libido en fonction du registe du symbolique. … à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique]

現実界の審級の享楽としてのリビドー[la libido en tant que jouissance oui est du reeiste du réel]  (Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995)


つまりここではリビドーと享楽を厳然と区別している。享楽はリビドーの三相の一相に過ぎないと。


ジャック=アラン・ミレールは他にも次のように言っている。


フロイトの愛=リーベ[Liebe]は、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない[il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


ラカンの愛とは一貫してナルシシズムである。

ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme  ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


つまりは、フロイトのリーベは、ラカンのナルシシズム、欲望、享楽であり、フロイトの自己愛[Selbstliebe]、対象愛[Objektliebe]、エスの欲動 [Triebe des Es]に相当する。

ラカンの欲望自体、大他者への愛であり、ナルシシズムは自己への愛である。

愛と欲望…これはナルシシズム的愛とアタッチメント(愛着)的愛のあいだのフロイトの区別である[l'amour et le désir …la distinction freudienne entre l'amour narcissique et l'amour anaclitique]〔・・・〕

ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある[l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique ](J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)


そして実際に、フロイトのリビドーの定義は愛あるいはエロスなのである。


リビドーは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している[Libido ist…welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann].(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




重要なのは固着であって、「エスの欲動蠢動=異者としての身体」はリビドーの固着によるものである。



幼児期の純粋な偶然的出来事は、リビドーの固着を置き残す傾向がある[daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen. ](フロイト 『精神分析入門』 第23講 1917年)

常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



そして先に示したように、リビドーは愛であり、「リビドーの固着=愛の固着=享楽の固着」である。次の二文は同じことである。


初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.](フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance.] (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


…………………


なおここでは、欲動=享楽の前提で記したが、ラカンには剰余享楽概念がある。


だが剰余享楽とは、実際は享楽あるいは欲動ではない。

剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄の機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

剰余享楽は既に享楽の亡霊である。シニフィアンの形式の上の享楽の形式化である。c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance, un modelage de la jouissance sur le modèle du signifiant.(J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016)


剰余享楽とは欲動の昇華である。

間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である。au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir (J.-A. Miller,  L'Autre sans Autre May 2013)


抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする機制がある。…この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。…だがこの種の満足は「上品で高級」 »feiner und höher« なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[primärer Triebregungen]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)