プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882) |
ニーチェ=プラトンのいう性欲動[Geschlechtstrieb]はフロイトのリビドー[Libido]のことである。 |
人間や動物にみられる性的欲求[geschlechtlicher Bedürfnisse]の事実は、生物学では性欲動[Geschlechtstriebes]という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドー[Libido]という言葉を用いている。(フロイト『性理論三篇』1905年) |
したがってフロイトはエスのリビドーの昇華を言っている。 |
エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 [die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert ](フロイト『自我とエス』4章、1923年) |
エスのリビドーは性欲動のことである、《性的欲動力の昇華[Sublimierung sexueller Triebkräfte]》(フロイト『性理論三篇』1905年) |
人間の日常生活の観察が示しているのは、たいていの人は性的欲動力を大部分を彼らの職業活動に振り向けることに成功していることである。性欲動はこの種の貢献を為すのにとくに上手く適合している。というのは、性欲動は昇華の能力に恵まれているから。つまり手近な目標を、別のもっと高く評価された非性的目標と取り替えうる。 Die Beobachtung des täglichen Lebens der Menschen zeigt uns, daß es den meisten gelingt, ganz ansehnliche Anteile ihrer sexuellen Triebkräfte auf ihre Berufstätigkeit zu leiten. Der Sexualtrieb eignet sich ganz besonders dazu, solche Beiträge abzugeben, da er mit der Fähigkeit der Sublimierung begabt, d, h. im stände ist, sein nächstes Ziel gegen andere, eventuell höher gewertete und nicht sexuelle, Ziele zu vertauschen. (フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第1章、1910年) |
フロイトは1905年の性理論、1910年のダヴィンチ論の段階では、ほとんどのひとは性欲動の昇華の能力に恵まれていると言っている(なお蛇足かもしれないが、フロイトの性欲動は必ずしも性器への欲動ではない。フロイトにおいて「性的」と「性器的」は厳然と区別されており、それはプラトンのエロスが性器に直接関わらないのと同じである)。 |
さらに後年のフロイトは性欲動の昇華と言わず、たんに《欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]》(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)とも言うようになるが、同じことである。 この欲動あるいはリビドーがラカンの享楽である。 |
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance(…) le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008) |
欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
ラカンはセミネールⅦの時点では次のように言った。 |
ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science](ラカン、S7, 03 Février 1960) |
とはいえ後年のラカンにとっては、人間のあらゆる症状は享楽の昇華(欲動の昇華)となる。つまりヒステリーとしての芸術、強迫神経症としての宗教、パラノイアとしての科学に限らない。そして、《症状なき主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )である。 |
ところでフロイトはこうも言った。 |
人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人において完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。 抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
つまり1920年『快原理の彼岸』以降のフロイトにとって欲動の昇華は十分にはなされないとなった。もっともこの不可能性の示唆は1920年以前にもふんだんにある。それは欲動の固着(リビドーの固着)をめぐる記述を通して読むと瞭然とする[参照]。 そしてこの昇華の不可能性が、例えばニーチェの『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレに現れる次の文に相当する。 |
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年) |
ラカンの剰余享楽は享楽の昇華のことである。 |
間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir] (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013) |
ここで確認しておけば、享楽と剰余享楽の関係は穴と穴埋めである。 |
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要) |
対象aが享楽の穴と剰余享楽の穴埋めの両方の意味があるのは、次の二文に示されている。 |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
(ボロメオの環の)中心の楔は対象aを定義する。これが剰余享楽の場である。[le coincement central définit l'objet(a). …c'est sur cette place du plus-de-jouir](ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974) |
そして享楽は身体(欲動の身体)であるのに対し、剰余享楽は、言説に関係する。 |
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[ Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
享楽の穴とは欲動の穴、リビドーの穴と等価である。 |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
そしてこの穴はトラウマーーフロイトの定義において「身体の出来事」ーーを意味する。 |
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界は穴=トラウマをなす[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
ーー《トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]》(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
剰余享楽は穴埋めとあったが、ラカンは穴埋めに関して、例えば次のようにも言っている。 |
父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père] (Lacan, S17, 18 Mars 1970) |
愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou].(Lacan, S21, 18 Décembre 1973) |
父の名は言語であり、象徴界の欲望である。 |
言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96) |
欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013) |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
愛はイマージュであり、すなわち想像界の愛である。 |
愛はイマージュである[l'amour ; soit de cette image](Lacan, AE193, 1965) |
象徴界の欲望と想像界の愛による現実界の享楽の穴埋め、この別名が「防衛」である。 |
現実界は明らかに、それ自体トラウマ的であり、基本情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。 The Real is apparently traumatic in itself and yields a primal anxiety as a basic affect. The psychical working-over of it within the Imaginary and the Symbolic aims at building up a defence against this traumatic Real. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997) |
我々の言説はすべて現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel] (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018) |
なお防衛とは抑圧のことでもある、ーー《私は後年、(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念を「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。》(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)
先に示したフロイトが、昇華に関わって欲動抑圧[Triebverdrängung]、抑圧された欲動[verdrängte Trieb]としているのはこれゆえであり、この抑圧された欲動は一次抑圧(原抑圧)に関係する[参照]。
さて、上に「享楽の穴としての対象a」と「剰余享楽の穴埋めとしての対象a」があることを示したが、ラカンは対象aについてこうも言っている。 |
残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu. Ce reste, …c'est le petit(a). ](Lacan, S10, 21 Novembre 1962) |
享楽は、残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
対象a=残滓=固着である。 |
いわゆる享楽の残滓 [un reste de jouissance]がある。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。 C'est disons un reste de jouissance. Et Lacan ne dit qu'une seule fois mais au fond ça suffit, d'où il s'en inspire chez Freud quand il dit au fond que ce dont il fait ici une fonction, ce sont des points de fixation de la libido. 固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ] 固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.] (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004) |
この意味は、享楽の穴は剰余享楽によって穴埋めされるが、常に穴としての享楽の残滓、ーー固着の残滓ーーがあるということである。 |
常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
この享楽の残滓としてのリビドー固着の残滓がエスのリビドーの昇華の不可能性に相当するのである。 |