◼️ニーチェの「神たちはいる」とラカンの「女たちはいる」
神性はある。つまり神たちはいる。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年) |
女なるものは存在しない。女たちはいる[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme , 1975) |
問題となっている女なるものは、神の別の名である。その理由で女なるものは存在しないのである[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas](Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
◼️ニーチェにおける神=至高の力[höchste Macht ]➡︎力への渇き「Durst nach Macht]=力への意志 [Wille zur Macht ]=欲動 [Triebe] |
私は多くの種類の神たちがいることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente) |
神は至高の力である。これで充分だ![Gott die höchste Macht - das genügt! ](ニーチェ遺稿、1887) |
欲動は聖なるものとなる、つまり「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht". ](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887) |
すべての欲動力は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888) |
要するにニーチェにおいて神は欲動である。そしてラカン派における「欲動と神のシニフィアン(女なるもののシニフィアン)」は穴の表象S(Ⱥ)であり等価である[参照]。 |