フロイトは宗教的感情の起源を、幼児期の寄る辺なさと措定している。 |
われわれが明確な線を辿って追求できることは、幼児の寄る辺なさという感情までが宗教的感情の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung in klaren Umrissen verfolgen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年) |
寄る辺なさ[Hilflosigkeit]とは、フロイトがしばしば使った語で無力[helplessness]とも訳される。 |
フロイトはこの語をトラウマ、不安、さらには喪失と等置している。 |
経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を呼び起こす。 eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (…) ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
この寄る辺なさは、母を見失うーー《母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] 》(『制止、症状、不安』第8章、1926年)ーーというトラウマ的不安に関わる(すべての幼児にとって母はいつもそばにいるわけではない、母は行ったり来たりする存在である)。 |
母を見失う(母の喪失)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年) |
さらにフロイトは心的寄る辺なさ[psychischen Hilflosigkeit ]だけでなく生物学的寄る辺なさ[biologischen Hilflosigkeit] にも触れている。 |
不安は乳児の心的寄る辺なさの産物である。この心的寄る辺なさは乳児の生物学的寄る辺なさの自然な相同物である。die Angst als Produkt der psychischen Hilflosigkeit des Säuglings, welche das selbstverständliche Gegenstück seiner biologischen Hilflosigkeit ist. 出産不安も乳児の不安も、ともに母からの分離を条件とするという、顕著な一致点については、なんら心理学的な解釈を要しない。Das auffällige Zusammentreffen, daß sowohl die Geburtsangst wie die Säuglingsangst die Bedingung der Trennung von der Mutter anerkennt, bedarf keiner psychologischen Deutung; |
これは生物学的にきわめて簡単に説明しうる。すなわち母自身の身体器官が、原初に胎児の要求のすべてを満たしたように、出生後も、部分的に他の手段でこれを継続するという事実である。es erklärt sich biologisch einfach genug aus der Tatsache, daß die Mutter, die zuerst alle Bedürfnisse des Fötus durch die Einrichtungen ihres Leibes beschwichtigt hatte, dieselbe Funktion zum Teil mit anderen Mitteln auch nach der Geburt fortsetzt. 出産行為をはっきりした切れ目と考えるよりも、子宮内生活と原幼児期のあいだには連続性があると考えるべきである。Intrauterinleben und erste Kindheit sind weit mehr ein Kontinuum, als uns die auffällige Caesur des Geburtsaktes glauben läßt |
心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている。忘れてはならないことは、子宮内生活では母はけっして対象にならなかったし、その頃は、いったい対象なるものもなかったことである。 Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. Wir dürfen darum nicht vergessen, daß im Intrauterinleben die Mutter kein Objekt war und daß es damals keine Objekte gab. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
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これらのフロイトの思考からは、究極的な宗教の起源は喪われた子宮内生活 [das verlorene Intrauterinleben]にあるとすることができる。 |
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性である[Der biologische ist die lang hingezogene Hilflosigkeit und Abhängigkeit des kleinen Menschenkindes. ]。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界[realen Außenwelt ]の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる[der Wert des Objekts, das allein gegen diese Gefahren schützen und das verlorene Intrauterinleben ersetzen kann, enorm gesteigert.]。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年) |
フロイトにとって、父なる神とはこの母なる神の代理物である。 |
歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年) |
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なお冒頭に掲げた「宗教的感情は幼児の寄る辺なさ」とする文は、直接的には、宗教の源泉は「大洋的感情」にあるのではないかというロマン・ロラン問いに対するフロイトの応答である。 |
宗教を錯覚(イリュージョン)[die Religion als Illusion]だと断定した私の小論(『ある錯覚の未来』)をすぐれた友人のひとり(ロマン・ロラン)に送ったところ、彼は返事の中で、「自分は宗教についてのあなたの判断にまったく賛成である。しかし、あなたが宗教のそもそもの源泉[eigentliche Quelle der Religiosität ]を十分評価していないのが残念だ。それは一種独特の感情で、つねづね一瞬たりとも自分を離れず、ほかの多くの人々も自身がその種の感情を持っていることをはっきり述べているし、また無数の人々についても事情は同じと考えてよいものだ。それは、「永遠」の感情[Empfindung der »Ewigkeit« ]と呼びたいようななにかしら無辺際・無制限なもの、 いわば 「大洋的」な感情[ein Gefühl wie von etwas Unbegrenztem, Schrankenlosem, gleichsam »Ozeanischem«]である。この感情は、純粋な主観的事実で、信仰上の教義などではない。この感情は、死後の存続の約束などとは無関係であるが、宗教的エネルギーの源泉であり、さまざまの教会や宗教体系によって捕捉され、一定の水路に導かれ、じじつたしかに消費されてもいる。たとえすべての信仰、すべてのイリュージョンは拒否する人間でも、こうした大洋的な感情[ozeanischen Gefühls]を持ってさえおれば、自分を宗教的な人間だと称してさしつかえない」と書いてきた。 |
イリュージョンの持つ魔力をかつてみずからもその作品の中で高く評価したことのある尊敬すべき友人のこの言葉に、私は少なからずとまどってしまった。私自身のどこをどう探してもこの「大洋的な」感情は見つからない[Ich selbst kann dies »ozeanische« Gefühl nicht in mir entdecken]。・・・(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年) |
ロマン・ロランの「大洋的感情」は、19世紀のインドの聖者ラーマクリシュナに大きく影響されているように見える。ロランの『ラーマクリシュナの生涯』には、例えばラーマクリシュナの言葉を引用してこうある。 |
私が知った唯一のこと、それは私の魂は、かつて経験したことのない、言語に絶する歓喜の大洋[un océan de joie ineffable ]に包まれたことだ。同時に、私自身の深淵に、母なる神[la Mère Divine]の聖なる現前に気づいたことだ。 La seule chose dont je me rendais compte, c’est ue mon âme contenait un océan de joie ineffable dont je n’avais jamais eu l'expérience auparavant. En môme temps, au plus profond de moi-même, j’étais conscient de la présence bénie de la Mère Divine.» (ロマン・ロラン『ラーマクリシュナの生涯』Vie de Ramakrishna、1929年) |