2023年11月8日水曜日

抑圧されたものの回帰=失われた時のレミニサンス

  

最晩年のフロイトは、抑圧されたものの回帰はトラウマに関わると言っている。


抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


もともとフロイトにとってトラウマは抑圧されている、《抑圧されたトラウマ[verdrängte Trauma]》(フロイト『精神分析技法に対するさらなる忠告』1913年)

つまり、抑圧されたものの回帰とは何よりもまずトラウマの回帰[Wiederkehr des Traumas] である。事実、1926年の『制止、症状、不安』でも次のように記している。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


《原初のトラウマ的不安状況の回帰[Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation]》とあるが、「トラウマ的不安状況」は重複表現である。なぜならフロイトにおいて不安自体がトラウマだから。


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11B1926年)


つまりトラウマ的不安状況の回帰は、簡潔に言えば、トラウマの回帰であり、これが抑圧されたトラウマの回帰である。


※注:フロイトにおけるトラウマ概念は事故によるトラウマだけではなく、欲動の身体に関わる構造的トラウマであり、人はみなこのトラウマを抱えている。つまり抑圧されたトラウマとは《抑圧された欲動[verdrängte Trieb]》(『快原理の彼岸』第5章、1920年)でもある。すなわち事実上、欲動=トラウマである[参照]。


ところで、トラウマとしての不安は、対象の喪失でもある。


自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11C1926年)


とすれば、抑圧されたものの回帰=トラウマの回帰は、喪われた対象の回帰[Wiederkehr des verlorenen Objekts]とも言い換えうる。


………………


さて、私はここまで上の如く記してきたが、言いたいことは次のことである。

抑圧されたものの回帰が喪われた対象の回帰であるなら、プルーストの「失われた時のレミニサンス」とどう違うのだろう、この記事の問いはこれである。


そもそもフロイトの回帰はレミニサンスのことだ。


少し廻り道して確認しよう。まずフロイトは「抑圧されたものの回帰=不気味なものの回帰」としている。

不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


この不気味なものは異者ーー(「異物」とも訳されてきた)「異者としての身体 [Fremdkörper]」ーーと等価である。


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)


ラカンを引用して確認しておこう、

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


そしてこの異者としての身体がトラウマであり、レミニサンスする。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


以上、抑圧されたものの回帰=トラウマの回帰(喪われた対象の回帰)=不気味なものの回帰=異者のレミニサンスである(なおここでの抑圧は原抑圧であることに注意[参照:原抑圧と後期抑圧])。



ラカンが次のように言っているのは、この文脈のなかにある。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


さらに、プルーストの次の文もこれらの文脈のなかで読みうる。


私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)


以上、抑圧されたものの回帰としての喪われた対象の回帰(トラウマの回帰)のひとつは、失われた時のレミニサンスであるだろう。


最後に確認しておくなら、フロイトが最晩年の『モーセ』で示した「抑圧されたものの回帰」を宗教現象に結びつけた思考の下では、抑圧されたものの回帰は忘れられたものの回帰[Wiederkehren des Vergessenen]であり、過去の復活[Wiederherstellungen des Vergangenen]である。


宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘れられた重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる。そして、宗教現象はその強迫的特性をまさにこのような根源から得ているのであり、それゆえ、歴史的真実に則した宗教現象の内実の力が人間にかくも強く働きかけてくる[als Wiederkehren von längst vergessenen, bedeutsamen Vorgängen in der Urgeschichte der menschlichen Familie, daß sie ihren zwanghaften Charakter eben diesem Ursprung verdanken und also kraft ihres Gehalts an historischer Wahrheit auf die Menschen wirken. ](フロイト『モーセと一神教』3.1b  Vorbemerkung II )

先史時代に関する我々の説明を全体として信用できるものとして受け入れるならば、宗教的教義や儀式には二種類の要素が認められる。一方は、古い家族の歴史への固着とその残存であり、もう一方は、過去の復活、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰である。

Nimmt man unsere Darstellung der Urgeschichte als im ganzen glaubwürdig an, so erkennt man in den religiösen Lehren und Riten zweierlei Elemente: einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen.   (フロイト『モーセと一神教』3.1.4  Anwendung)

忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである。Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


これは上に示してきたように宗教現象だけに限らない。「過去の復活、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰」とは、忘れられた過去の回帰であり、失われた時のレミニサンスである。


ここまで示してきたフロイトに関わる表現群をまとめておこう。



なおフロイトの抑圧[Verdrängung]には、「抑える」や「圧する」の意味合いはないので注意➡︎「抑圧は誤訳




※附記


プルースト自身、フロイトと同じように「過去の復活」という表現を使っている。


過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され [Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。(プルースト「見出された時」)


この過去の復活こそ、忘れられたものの回帰、つまりレミニサンスである。

この「スワン家のほう」はある意味で極めてリアルな書だが、 無意志的記憶を模倣するために、突如のレミニサンスによって支えられており、この書の一部は、私が忘れてしまった私の生の一部であり、マドレーヌのかけらを食べているとき、突然に再発見したものである。C'est un livre extrêmement réel mais supporté en quelque sorte, pour imiter la mémoire involontaire …par des réminiscences brusques une partie du livre est une partie de ma vie que j'avais oubliée, et que tout d'un coup je retrouve en mangeant un peu de madeleine  (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)