2024年12月15日日曜日

ナショナリズムは最も強力な政治イデオロギー

  

ミアシャイマーはこう言っている。

◾️ナショナリズムは最も強力な政治イデオロギー

ナショナリズムは地球上で最も強力な政治イデオロギーであるため、ナショナリズムとリベラリズムが衝突すると必ずナショナリズムがリベラリズムに勝り、秩序の根幹を揺るがすことになる。

さらに、世界貿易と投資の障壁を最小化しようとしたハイパーグローバリゼーションは、リベラルな世界全体で失業、賃金の低下、所得格差の拡大をもたらした。また、国際金融システムの安定性を低下させ、金融危機の再発につながった。これらの問題はその後、政治問題へと変化し、リベラルな秩序への支持をさらに損なうことになった。〔・・・〕ナショナリズムが最も強力な政治イデオロギーである世界では、自決権と主権はすべての国にとって極めて重要である。

Because nationalism is the most powerful political ideology on the planet, it invariably trumps liberalism whenever the two clash, thus undermining the order at its core. 

In addition, hyperglobalization, which sought to minimize barriers to global trade and investment, resulted in lost jobs, declining wages, and rising income inequality throughout the liberal world. It also made the international financial system less stable, leading to recurring financial crises. Those troubles then morphed into political problems, further eroding support for the liberal order.(…) In a world in which nationalism is the most powerful political ideology, self-determination and sovereignty matter hugely for all countries.

(ミアシャイマー「失敗する運命ーーリベラルな国際秩序の興亡」 John J. Mearsheimer, Bound to Fail The Rise and Fall of the Liberal International Order,  2019)



さらにこうもある。


◾️リベラリズム/ナショナリズム=個人主義/集団主義=普遍主義/個別主義

リベラリズムとナショナリズムは明らかに異なるイデオロギーである。リベラリズムの核にある個人主義は、不可侵の権利の強調と相まって、普遍主義的なイデオロギーとなっている。対照的に、ナショナリズムは、個人よりも集団の重要性を強調し、どこまでも個別主義的である。〔・・・〕

無制限のリベラリズムがナショナリズムにとって非常に危険なのは、国民的アイデンティティ、つまり個人が国家と密接に同一化する強い傾向を弱める可能性があることである。

Liberalism and nationalism are obviously distinct ideologies. The individualism at liberalism's core, coupled with its emphasis on inalienable rights, makes it a universalistic ideology. Nationalism, in contrast, stresses the importance of the group over the individual and is particularistic all the way down. (…) 

What makes unbounded liberalism so dangerous to nationalism is its potential to weaken national identity―that is the powerful inclination for individuals to closely identify with their nation.

(ミアシャイマー「現代アメリカにおけるリベラリズムとナショナリズム」John J. Mearsheimer, Liberalism and Nationalism in Contemporary America, 2020)


◾️ナショナリズム≒リアリズム

ナショナリズムとリアリズムの間には何らかの類似性があるに違いない[there must be some affinity between nationalism and realism, even if nationalism is not a key variable in realist theory. ](ミアシャイマー「いとこ同士のキス:ナショナリズムとリアリズム」John J. Mearsheimer, Kissing Cousins: Nationalism and Realism, 2011)



この区分は、柄谷区分と基本的には同一である。





人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている (『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。


それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。〔・・・〕自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


デモスは一種の「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)であるという点で近代国家に似ていた。アテネのデモクラシーはこの種のナショナリズムと切り離せない[the demos resembled the modern nation in being a kind of “imagined community” (Benedict Anderson). Athenian democracy is inseparable from this kind of nationalism. ](柄谷行人『世界史の構造』第5章、2010年)



ところで、少し前まではナショナリズムは戦争の原因だと言われた。


例えば、ミッテランは次の遺言を残して死んでいった。

ナショナリズム、それが戦争だ!(フランソワ・ミッテラン演説、1975年1月17日)

(Le nationalisme, c'est la guerre !   François Mitterrand, 17 janvier 1995



マイケル・ハドソンは面白いことを言っている。グローバリズムは米国のナショナリズムだと。



◾️マイケル・ハドソン「高度な金融と投資の植民地主義」

High Finance & Investment Colonialism By Michael Hudson, August 29, 2023

人々の考え方には大きな変化があった。 私がリベラル派や左翼、マルクス主義者と話していた1960年代、彼らはナショナリズムに反対していた。


彼らは第二次世界大戦からちょうど抜け出したばかりで、第二次世界大戦の教訓は、ナショナリズムがあれば対立が生じ、ドイツやヨーロッパ諸国、第一次世界大戦のイギリスのように戦争になると考えていた。そして、解決策は、皆がひとつの幸せな家族になる国際秩序になるだろうと考えていた、ナショナリズムをなくせば対立が解消されるかのように。

そして、誰もはっきりと予想していなかったのは、国際主義(インターナショナリズム)とは、戦争につながるのは一極的な国際主義だということだ。米国は基本的に、800の軍事基地で世界全体に宣戦布告し、次から次へと国に干渉している。

そして、1945年以来、あるいは少なくとも1950年以来、ほぼずっと戦争を続けている。おそらく数年間は戦争をしていなかっただろうが。つまり、今日の国際主義とグローバリゼーションは戦争経済であるというのが事実である。

Well, there’s been a whole shift in the way people are thinking. Back in the 1960s, when I was talking to liberals and to the left-wing and Marxists, they opposed nationalism.

They were just coming out of World War II when they thought the lesson of World War II was if you have nationalism, you’re going to have rivalries and that they’re going to go to war, like Germany did and like the European countries did, England in World War I, and they thought the solution was going to be an international order where everybody will be one happy family, as if getting rid of nationalism would cure the rivalries.

And what nobody really anticipated so clearly was that there has been an internationalism, but it’s been a unipolar internationalism that is leading to war, is the United States has basically declared war on the whole rest of the world with 800 military bases, interfering with one country after another.

And it’s been waging war almost the entire time since 1945, or at least since 1950, maybe a few years it hasn’t been at war. So the fact is that today’s internationalism and globalization is a war economy.


ーーこれは米国の自由主義=グローバル資本主義は戦争ばかりやっているということだが、次の記事には「今日のグローバリズムは米国のナショナリズムだ」とある。


◾️マイケル・ハドソン「偽りのないセクター」

The Honest Sector By Michael Hudson, April 29, 2021

マイケル:あなたはいくつかの点を指摘しました。1960年代には、私が知るほぼ全員があなたのナショナリズムに関する見解に同意していました。彼らは第二次世界大戦を経験したばかりです。彼らはそれをナショナリズムの現れと見なしていました。原則的には、ナショナリズムの解毒剤はグローバリズムになるだろうと思われていました。しかし、グローバリズムが今日のような形に変わるとは誰も予想していませんでした。ナショナリズムが悪いのであれば、米国が主導する一方的なグローバリズムも悪いのです。今日のグローバリズムは米国のナショナリズムです。

ヨーロッパ人は最もナショナリストで、悪意に満ちたナショナリストです。しかし、彼らは米国のためのナショナリストなのです!

Michael: you made a number of points. Back in the 1960s almost everybody I knew agreed with your views about nationalism. After all they just went through World War II. They looked at that as an expression of nationalism. In principle it seemed to be that the antidote to nationalism was going to be globalism. But nobody expected that globalism would turn into what it’s turned out today. If nationalism is bad, so is a unilateral globalism run by the United States. Globalism today is American nationalism.

Europeans are the most nationalistic, viciously nationalistic people of all. But they’re nationalistic for the United States!



現在においてはナショナリズムもグローバリズムもどっちもナショナリズム的戦争経済だということだ。


そして繰り返せばナショナリズムは民主主義である。



民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質な者の排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


民主主義における同質性とはファシズムの原義「束」であり、異質な者の排除は、日本的ムラ社会の特徴「村八分」にもよく現れている。あれこそナショナリズムの特徴にほかならない。


ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった[Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない[Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)



で、ここでのナショナリズム=民主主義=ファシズムを受け入れて言うなら、「ファシズムは最も強力な政治イデオロギー」となる。



この異質な者の排除殲滅としての民主主義=ナショナリズムは、ベネディクト・アンダーソンの定義上でもそうなる。

ネーション〔国民Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属nationality〕、ナショナリズム〔国民主義nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕

国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛[fraternity]の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。


これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力[shrunken imaginings]が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年)


ネーションあるいはナショナリズムは宗教だとあるのに注目しておこう。


信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容になりがちである[Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)



なおフロイトにとってナショナリズムはナルシシズムでもある。少し長くなるが、二つの論文から抜き出しておこう。



人間性の不滅の特徴である攻撃性向…人間にとってこの自分の攻撃性向を断念するのが容易でないことは明らかである。そんなことをすれば、どうにも気持が落ち着かないのだ。比較的小さな文化圏には、自分の文化圏に属さない人間を敵視することでこの攻撃欲動を発散できるという利点があるが、この利点はなかなか重要である。攻撃の対象になりうる他人が残存しているかぎり、 かなりの数の人間を相互に愛で結びつけることはつねに可能だ。

der unzerstörbare Zug der menschlichen Natur(…) Es wird den Menschen offenbar nicht leicht, auf die Befriedigung dieser ihrer Aggressionsneigung zu verzichten; sie fühlen sich nicht wohl dabei. Der Vorteil eines kleineren Kulturkreises, daß er dem Trieb einen Ausweg an der Befeindung der Außenstehenden gestattet, ist nicht geringzuschätzen. Es ist immer möglich, eine größere Menge von Menschen in Liebe aneinander zu binden, wenn nur andere für die Äußerung der Aggression übrigbleiben.

まえに私は、スペイン人とポルトガル人、北ドイツ人と南ドイツ人、イギリス人とスコットランド人など、隣同士であり、その他の点でもたがいに類似した人間集団に限ってかえってたがいに敵視しあい蔑視しあうという現象を研究したことがある。私はこの現象を「些細な差異のナルシシズム」と呼んだが、この名称そのものはこの現象の解明には大して役に立たない。ところでこの現象の中には、それによってその人間集団の構成員相互の団結が容易になるという、攻撃性向の安易かつ比較的無害な充足が認められる。

Ich habe mich einmal mit dem Phänomen beschäftigt, daß gerade benachbarte und einander auch sonst nahestehende Gemeinschaften sich gegenseitig befehden und verspotten, so Spanier und Portugiesen, Nord- und Süddeutsche, Engländer und Schotten usw. Ich gab ihm den Namen »Narzißmus der kleinen Differenzen«, der nicht viel zur Erklärung beiträgt. Man erkennt nun darin eine bequeme und relativ harmlose Befriedigung der Aggressionsneigung, durch die den Mitgliedern der Gemeinschaft das Zusammenhalten erleichtert wird.


世界中にちらばっているユダヤ民族は、このようにして、自分たちが住んでいる国々の文化にたいして顕著な貢献をしてきた。ところが残念なことに、あれほどたくさんのユダヤ人虐殺が行なわれたにもかかわらず、中世という時代は、キリスト教徒たちにとって、それ以前の時代より平和でも安全でもなかった。 使徒パウロが普遍的な人類愛を自分のキリスト教教会の基礎にした以上、キリスト教徒以外の人間にたいする極度の不寛容はその必然の結果だった。国家の基礎を愛に求めなかったローマは、宗教は国家のものであり国家は宗教びたしになっていたにもかかわらず、宗教的不寛容とは無縁に終わった。

Das überallhin versprengte Volk der Juden hat sich in dieser Weise anerkennenswerte Verdienste um die Kulturen seiner Wirtsvölker erworben; leider haben alle Judengemetzel des Mittelalters nicht ausgereicht, dieses Zeitalter friedlicher und sicherer für seine christlichen Genossen zu gestalten. Nachdem der Apostel Paulus die allgemeine Menschenliebe zum Fundament seiner christlichen Gemeinde gemacht hatte, war die äußerste Intoleranz des Christentums gegen die draußen Verbliebenen eine unvermeidliche Folge geworden; den Römern, die ihr staatliches Gemeinwesen nicht auf die Liebe begründet hatten, war religiöse Unduldsamkeit fremd gewesen, obwohl die Religion bei ihnen Sache des Staates und der Staat von Religion durchtränkt war.


ゲルマン人による世界征服の野望がその一環としてユダヤ人排斥を呼号したのも、理解に苦しむような偶然ではなかったし、ロシアにおいて新しい共産主義文化を建設しようという試みがブルジョアジー迫害によって心理的に支えられていることも、充分理解できる現象だ。ただちょっと心配なのは、ソヴィエトでブルジョアジーが根こそぎにされたあと果して何が起こるだろうかという点である。

Es war auch kein unverständlicher Zufall, daß der Traum einer germanischen Weltherrschaft zu seiner Ergänzung den Antisemitismus aufrief, und man erkennt es als begreiflich, daß der Versuch, eine neue kommunistische Kultur in Rußland aufzurichten, in der Verfolgung der Bourgeois seine psychologische Unterstützung findet. Man fragt sich nur besorgt, was die Sowjets anfangen werden, nachdem sie ihre Bourgeois ausgerottet haben.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)



この1930年のフロイト論文における《些細な相違のナルシシズム[Narzißmus der kleinen Differenzen]》は、1927年の『ある錯覚の未来』Die Zukunft einer Illusion(旧訳『ある幻想の未来』)では、より一般化した形で、自国文化の《ナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]》、《文化理想が与えるナルシシズム的満足[Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal ]》とある。これらは、愛国心あるいはナショナリズムのナルシシズム的性格、と言い換えうるだろう。


ところで、とかくわれわれは、ある文化が持っているさまざまの理想ーーすなわち、最高の人間行為、一番努力に値する人間行動は何かという価値づけーーをその文化の精神財の一部とみなしやすい。すなわち、一見したところ、その文化圏に属する人間の行動はこれらの理想によって方向づけられるような印象を受けるのである。ところが真相は、生まれつきの素質とその文化の物的環境との共同作業によってまず最初の行動が生じ、それにもとづいて理想が形成されたあと、今度はこの理想が指針となって、それらの最初の行動がそのまま継続されるという逆の関係らしい。

したがって、理想が文化構成員に与える満足感は、自分がすでに行なってうまくいった行動にたいする誇りにもとづくもの、つまりナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]のものである。この満足感がもっと完全になるためには、ほかのさまざまな文化ーーほかのタイプの人間行動を生み出し、ほかの種類の理想を発展させてきたほかのさまざまな文化――と自分との比較が必要である。どの文化も「自分には他の文化を軽蔑する当然の権利がある」と思いこんでいるのは、文化相互のあいだに認められるこの種の相違にもとづく。このようにして、それぞれの文化が持つ理想は、異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種になるのであり、このことは、国家と国家のあいだの現状に一番はっきりとあらわれている。

Die Befriedigung, die das Ideal den Kulturteilnehmern schenkt, ist also narzißtischer Natur, sie ruht auf dem Stolz auf die bereits geglückte Leistung. Zu ihrer Vervollständigung bedarf sie des Vergleichs mit anderen Kulturen, die sich auf andere Leistungen geworfen und andere Ideale entwickelt haben. Kraft dieser Differenzen spricht sich jede Kultur das Recht zu, die andere geringzuschätzen. Auf solche Weise werden die Kulturideale Anlaß zur Entzweiung und Verfeindung zwischen verschiedenen Kulturkreisen, wie es unter Nationen am deutlichsten wird.


文化理想が与えるこのナルシシズム的満足はまた、同一文化圏の内部でのその文化にたいする敵意をうまく抑制するいくつかの要素の一つでもある[Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal gehört auch zu jenen Mächten, die der Kulturfeindschaft innerhalb des Kulturkreises erfolgreich entgegenwirken]。

つまり、その文化の恩恵を蒙っている上層階級ばかりではなく、抑えつけられている階層もまた、他の文化圏に属する人たちを軽蔑できることのなかに、自分の文化圏内での不利な扱いにたいする代償が得られるという点で、その文化の恩恵に浴しうるのである。「なるほど自分は、借金と兵役に苦しんでいる哀れな下層階級にはちがいない。でもそのかわり、自分はやはりローマ市民の一人で、 他の諸国民を支配自分の意のままに動かすという使命の一端をになっているのだ」というわけである。 しかし、抑えつけられている社会階層が自分たちを支配し搾取している社会階層と自分とをこのように同一化することも、さらに大きな関連の一部にすぎない。すなわち、この社会階層の人々は、一方では敵意を抱きながらも、他面においては、感情的にも支配階層に隷属し、支配階層を自分たちの理想と仰ぐことも考えられるのだ[Anderseits können jene affektiv an diese gebunden sein, trotz der Feindseligkeit ihre Ideale in ihren Herren erblicken. ]。基本的には満足すべきものであるこの種の事情が存在しないとするならば、大多数を占める人々の正当な敵意にもかかわらず、多数の文化圏がこれほど長く存続してきたことは不可解という他はあるまい。(フロイト『ある錯覚の未来』第2章、1927年)


以上、デモクラシーはナショナリズム、ナルシシズムに関わり、ここでは「場合によっては」と言っておくが、異質な者の排除というファシズムに結びつく傾向がある。





2024年12月12日木曜日

言語と身体

 

ラカン派の欲望と欲動(享楽)の区別の基本は、せめて言語と身体ぐらいは区別しようよ、ということだ。

それには次の簡潔な一文がよい。


欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[ le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, E853, 1964年)


まず「欲望は大他者に由来する」とは?


大他者は言語であり、象徴界である。

言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ](Lacan, E628, 1960年)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


すなわちーー、

大他者は言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)

欲望は言語に結びついている。欲望は象徴界の効果である[le désir: il tient au langage. C'est … un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)



次に「享楽はモノの側にある」について。


モノとは現実界であり、身体ーー異者としての身体ーーである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


フロイトにおいて「モノ=異者としての身体」とは自我に同化不能な(自我に取り入れられない)エスの欲動を示している。

同化不能な部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


フロイトの定義においてエスの欲動は身体的要求である。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)


したがってーー、

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[ Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ».](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)


以上、欲望の言語と欲動の身体、これがラカンの象徴界と現実界である。



ラカンは想像界の自我と象徴界の言語を分けた。だが、《想像界は象徴界に支配されている[cet imaginaire est en même temps dominé par le symbolique]》. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)


つまりフロイトの自我は大他者(言語)に結びついており、快原理内にある。

《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien]》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)


欲望も快原理内にある。

ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている》(『フロイトの欲動』E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している。

Lacan peut dire qu'elle (la pulsion) est "suspendue dans la lumière d'une béance".(…) "Cette béance, dit-il, le désir la rencontre aux limites que lui impose le principe du plaisir." C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. (J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994)




さらにフロイトにおいて自我は前意識、エスは本来の無意識である。


精神分析は無意識をさらに区別し、前意識と本来の無意識に分離するようになった[die Psychoanalyse dazu gekommen ist, das von ihr anerkannte Unbewußte noch zu gliedern, es in ein Vorbewußtes und in ein eigentlich Unbewußtes zu zerlegen.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)

私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをエスと名づけるように提案する[Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, …das Es.](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残される[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


つまり無意識の欲望というときの無意識は実際は前意識なのである、《無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient]》(Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)



以上から次のようになる。




快原理の彼岸は基本的には不快にほかならない、つまり欲動の身体は不快である。

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快な性質をもった身体的感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年)


このフロイトのラカンヴァージョンは次の二文であるーー、

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異者対象(異物)として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)


つまり、《現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


なおフロイトはまだエス概念のない『快原理の彼岸』の段階ではーーエス概念の最初の提出は1923年の『自我とエス』ーー、エスの欲動身体(異者身体)を暗黒な要素としての「有機体の欲動」と言っている。


このような内部興奮の最大の根源は、いわゆる有機体の欲動[Triebe des Organismus]であり、身体内部[Körperinnern]から派生し、心的装置に伝達されたあらゆる力作用の代表であり、心理学的研究のもっとも重要な、またもっとも暗黒な要素 dunkelste Element]でもある。

Die ausgiebigsten Quellen solch innerer Erregung sind die sogenannten Triebe des Organismus, die Repräsentanten aller aus dem Körperinnern stammenden, auf den seelischen Apparat übertragenen Kraftwirkungen, selbst das wichtigste wie das dunkelste Element der psychologischen Forschung. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



現実界の身体というとき、イメージとしての身体ーー初期ラカンの鏡像身体ーーではないことに注意。この鏡像身体は事実上、フロイトの自我身体であり、エスの身体ではない、《自我は何よりもまず身体的自我である[Das Ich ist vor allem ein körperliches]〔・・・〕意識的自我は何よりもまず身体自我である[bewußten Ich ausgesagt haben, es sei vor allem ein Körper-Ich. ]》(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)