2024年12月2日月曜日

不快なき快はない

 

◾️快楽と苦痛の結びつき

ソクラテスはソファに座り、足を曲げて手でこすりながら言った、《友よ、人々が快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なもののようらしい。正反対であると思われる苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この二つは人間に同時にやって来ようとはしないが、一方を追いかけてつかまえると、必ずといっていいくらい、もう一方もつかまされる。まるで二つでありながら頭は一つ、というみたいに。……》


But Socrates sat up on his couch and bent his leg and rubbed it with his hand, and while he was rubbing it, he said, “What a strange thing, my friends, that seems to be which men call pleasure! How wonderfully it is related to that which seems to be its opposite, pain, in that they will not both come to a man at the same time, and yet if he pursues the one and captures it he is generally obliged to take the other also, as if the two were joined together in one head.…”

 ὁ δὲ Σωκράτης ἀνακαθιζόμενος εἰς τὴν κλίνην συνέκαμψέ τε τὸ σκέλος καὶ ἐξέτριψε τῇ χειρί, καὶ τρίβων ἅμα, ὡς ἄτοπον, ἔφη, ὦ ἄνδρες, ἔοικέ τι εἶναι τοῦτο ὃ καλοῦσιν οἱ ἄνθρωποι ἡδύ: ὡς θαυμασίως πέφυκε πρὸς τὸ δοκοῦν ἐναντίον εἶναι, τὸ λυπηρόν, τὸ ἅμα μὲν αὐτὼ μὴ ‘θέλειν παραγίγνεσθαι τῷ ἀνθρώπῳ, ἐὰν δέ τις διώκῃ τὸ ἕτερον καὶ λαμβάνῃ, σχεδόν τι ἀναγκάζεσθαι ἀεὶ λαμβάνειν καὶ τὸ ἕτερον…

(プラトン『パイドン』60b)



………………



ここでは、プラトン=ソクラテスの快楽[ἡδύ] と苦痛[λυπηρόν]をまずは「快と痛み」として記述する。


痛みのなかの快は、マゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)


ーーいま「痛みの中の快」とは訳した"Schmerzlust"とは文字通りには「痛快」と訳せる。なお日本語の「痛快」は標準的には、たんに心地よいという意味ではあるが、不快が解消されて快を得るという含意もある。


このマゾヒズムの根にある痛みの中の快[Schmerzlust]がラカンの享楽である。

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


ラカンの現実界の享楽はもちろんフロイトのリアルな欲動ーーエスの欲動[Triebe im Es](Freud,1926)ーーである。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


したがって痛みの中に快=マゾヒズム=欲動=享楽となる。




ところでニーチェはこう言っている。

痛みと快は力への意志と関係する[Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  ](ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)

私は、ギリシア人の最も強い本能、力への意志を見てとり、私は彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力に戦慄するのを見てとった[In den Griechen…Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs ](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』所収、1888年)


つまり痛みと快は力への意志という欲動に関係する。


さらに快と不快[Lust und Unlust]めぐる文があるが、この不快は痛みをより一般化したものとして捉えうる。

学問の目標について

なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多く一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものをも持たざるをえないとしたら、どうか? 


Vom Ziele der Wissenschaft. ― Wie? Das letzte Ziel der Wissenschaft sei, dem Menschen möglichst viel Lust und möglichst wenig Unlust zu schaffen? Wie, wenn nun Lust und Unlust so mit einem Stricke zusammengeknüpft wären, dass, wer möglichst viel von der einen haben will, auch möglichst viel von der andern haben muss,(ニーチェ『悦ばしき知識』12番、1882年)


まさにこれは先の『パイドン』60bにおけるソクラテス的文である。


もうひとつーー、

生としての力への意志


人間は快をもとめるのではなく、また不快をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。

快と不快 とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。


この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。

人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。

Der Wille zur Macht als Leben


Der Mensch sucht nicht die Lust und vermeidet nichtdie Unlust: man versteht, welchem berühmten Vorurtheile ich hiermit widerspreche. Lust und Unlust sind bloße Folge, bloße Begleiterscheinung, — was der Mensch will, was jeder kleinste Theil eines lebenden Organismus will, das ist ein plus von Macht. Im Streben danach folgt sowohl Lust als Unlust; aus jenem Willen heraus sucht er nach Widerstand, braucht er etwas, das sich entgegenstellt. Die Unlust, als Hemmung seines Willens zur Macht, ist also ein normales Faktum, das normale Ingredienz jedes organischen Geschehens, der Mensch weicht ihr nicht aus, er hat sie vielmehr fortwährend nöthig: jeder Sieg, jedes Lustgefühl, jedes Geschehen setzt einen überwundenen Widerstand voraus.

〔・・・〕

不快は、《私たちの力の感情の低減 》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤》なのである。

Die Unlust hat also so wenig nothwendig eine Verminderung unseres Machtgefühls zur Folge, daß, in durchschnittlichen Fällen, sie gerade als Reiz auf dieses Machtgefühl wirkt, — das Hemmniß ist der Stimulus dieses Willens zur Macht.

(ニーチェ『力への意志』14[174]、1888年)




この快と不快のフロイトヴァージョンは次のものである。

厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的な現象としてしか存在しえない。快原理が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。

Was man im strengsten Sinne Glück heißt, entspringt der eher plötzlichen Befriedigung hoch aufgestauter Bedürfnisse und ist seiner Natur nach nur als episodisches Phänomen möglich. Jede Fortdauer einer vom Lustprinzip ersehnten Situation ergibt nur ein Gefühl von lauem Behagen; wir sind so eingerichtet, daß wir nur den Kontrast intensiv genießen können, den Zustand nur sehr wenig.


註)ゲーテにいたっては、「楽しい日々の連続ほどたえがたいものはない」とさえ警告している。もっとも、これは誇張と言っていいかもしれない。

3) Goethe mahnt sogar: »Nichts ist schwerer zu ertragen als eine Reihe von schönen Tagen.« Das mag immerhin eine Übertreibung sein. 

(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)


なおフロイト・ラカンにとって欲動は不快でもある。

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない[déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)





ところでニーチェは次のようにも記している。

欲動、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿, 1882 - Frühjahr 1887)


いま悦と訳したLüstenーーlustの複数形ーーは単数形で『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレに次のように現れる。

悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての痛みよりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦のなかに環をなしてめぐっている。――

was will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will sich, sie beisst in sich, des Ringes Wille ringt in ihr, ―(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)


まさにこの悦こそフロイトのリビドーである。

人間や動物にみられる性的要求の事実は、生物学では「性欲動」Geschlechtstriebesという仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢え」Hungerという言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーという言葉を用いている。

Die Tatsache geschlechtlicher Bedürfnisse bei Mensch und Tier drückt man in der Biologie durch die Annahme eines »Geschlechtstriebes« aus. Man folgt dabei der Analogie mit dem Trieb nach Nahrungsaufnahme, dem Hunger. Eine dem Worte »Hunger« entsprechende Bezeichnung fehlt der Volkssprache; die Wissenschaft gebraucht als solche » Libido«

※注1910年: リビドーはドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、要求の感覚と同時に満足の感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。

» Libido« :Das einzig angemessene Wort der deutschen Sprache »Lust« ist leider vieldeutig und benennt ebensowohl die Empfindung des Bedürfnisses als die der Befriedigung.

(フロイト『性理論三篇』1905年)


リビドーすなわち欲動かつエロスである。

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。

Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) 

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


つまりはーー少なくともフロイト・ラカン的にはーー、Libido=Schmerzlust=Masochismus=Trieb=Eros=Jouissanceとなる。そして痛みの中の快[Schmerzlust]は快原理の彼岸にあるLust=Unlust である。

我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する[ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance.] (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


ニーチェを絡めてもうひとつ確認しよう。

性的悦と自傷行為は隣り合った欲動である[Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. ](ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである[ L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même]  (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)

主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet (…)  le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6   - 16/06/2004)


以上、ニーチェの悦[Lust]、フロイトのリビドー[Libido]はプラトン=ソクラテスの《快と痛み[δύ και λυπηρόν]》の両方を含意した語として取り扱うことができる。この快と痛みの一般化が「快と不快」であり、フロイトはこれをプラトンのエロスとしたのである。


愛は不快であるとしてもよい。


リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。

Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann.

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)




愛自体は渇きであり、必要なものが欠けていること(剥奪)である[Das Lieben an sich, als Sehnen, Entbehren] (フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)


「エロスはそのなにかを欲しているのだろうか、それとも欲してはいないのだろうか?」「もちろん、欲しています」と彼は言った。「それでは、エロスがそのなにかを欲し求めるのは、それを所有しているときだろうか、それとも、所有していないときだろうか?」「所有していないときでしょう。おそらくですが」とアガトンは答えた。「ちょっと考えてほしいのだが」とソクラテスは言った。「おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか― 欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、何も欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、私には、このことが完全に必然的なことに思えるのだ。あなたはどう考える?」「賛成します」。


Ἔρως ἐκείνου, οὗ ἔστιν ἔρως, ἐπιθυμεῖ αὐτοῦ ἢ οὔ; Πάνυ γε, φάναι. 

Πότερον ἔχων αὐτὸ οὗ ἐπιθυμεῖ τε καὶ ἐρᾷ, εἶτα ἐπιθυμεῖ τε καὶ ἐρᾷ, ἢ οὐκ ἔχων; 

Οὐκ ἔχων, ὡς τὸ εἰκός γε, φάναι. Σκόπει δή, εἰπεῖν τὸν Σωκράτη, ἀντὶ τοῦ εἰκότος εἰ ἀνάγκη οὕτως, τὸ ἐπιθυμοῦν ἐπιθυμεῖν οὗ ἐνδεές ἐστιν, ἢ μὴ ἐπιθυμεῖν, ἐὰν μὴ ἐνδεὲς ᾖ; ἐμοὶ μὲν γὰρ θαυμαστῶς δοκεῖ, ὦ Ἀγάθων, ὡς ἀνάγκη εἶναι· σοὶ δὲ πῶς; Κἀμοί, φάναι, δοκεῖ. (プラトン『饗宴』200a




……………


ところでフロイトにとって、母は快と不快の対象、かつ原愛の対象である。


母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快と不快[lustvolle wie unlustige]を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって原誘惑者[ersten Verführerin] になる。この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。

Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeutung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen — bei beiden Geschlechtern.

(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)



そして原初の不快な出来事は受動性=マゾヒズムである。


原初の不快な出来事は受動性である[primäres Unlusterlebnis also passiver Natur voraus.] (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ,  Brief vom 1. 1. 1896)

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


女性的受動的とあるがこれは冗語法であり、女性性自体、受動性にほかならない。

男性的と女性的とは、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。これら三つのつの意味のうち最初の意味が、本質的なものであり、精神分析において最も有用なものである。Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne. Die erste dieser drei Bedeutungen ist die wesentliche und die in der Psychoanalyse zumeist verwertbare.(フロイト『性理論三篇』第三篇、1905年、1915年註)



こうしてーー少なくとも論理的にはーーすべてが繋がった筈である。