2024年12月12日木曜日

言語と身体

 

ラカン派の欲望と欲動(享楽)の区別の基本は、せめて言語と身体ぐらいは区別しようよ、ということだ。

それには次の簡潔な一文がよい。


欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[ le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, E853, 1964年)


まず「欲望は大他者に由来する」とは?


大他者は言語であり、象徴界である。

言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ](Lacan, E628, 1960年)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


すなわちーー、

大他者は言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)

欲望は言語に結びついている。欲望は象徴界の効果である[le désir: il tient au langage. C'est … un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)



次に「享楽はモノの側にある」について。


モノとは現実界であり、身体ーー異者としての身体ーーである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


フロイトにおいて「モノ=異者としての身体」とは自我に同化不能な(自我に取り入れられない)エスの欲動を示している。

同化不能な部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


フロイトの定義においてエスの欲動は身体的要求である。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)


したがってーー、

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[ Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ».](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)


以上、欲望の言語と欲動の身体、これがラカンの象徴界と現実界である。



ラカンは想像界の自我と象徴界の言語を分けた。だが、《想像界は象徴界に支配されている[cet imaginaire est en même temps dominé par le symbolique]》. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)


つまりフロイトの自我は大他者(言語)に結びついており、快原理内にある。

《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien]》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)


欲望も快原理内にある。

ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている》(『フロイトの欲動』E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している。

Lacan peut dire qu'elle (la pulsion) est "suspendue dans la lumière d'une béance".(…) "Cette béance, dit-il, le désir la rencontre aux limites que lui impose le principe du plaisir." C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. (J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994)




さらにフロイトにおいて自我は前意識、エスは本来の無意識である。


精神分析は無意識をさらに区別し、前意識と本来の無意識に分離するようになった[die Psychoanalyse dazu gekommen ist, das von ihr anerkannte Unbewußte noch zu gliedern, es in ein Vorbewußtes und in ein eigentlich Unbewußtes zu zerlegen.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)

私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをエスと名づけるように提案する[Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, …das Es.](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残される[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


つまり無意識の欲望というときの無意識は実際は前意識なのである、《無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient]》(Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)



以上から次のようになる。




快原理の彼岸は基本的には不快にほかならない、つまり欲動の身体は不快である。

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快な性質をもった身体的感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年)


このフロイトのラカンヴァージョンは次の二文であるーー、

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異者対象(異物)として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)


つまり、《現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


なおフロイトはまだエス概念のない『快原理の彼岸』の段階ではーーエス概念の最初の提出は1923年の『自我とエス』ーー、エスの欲動身体(異者身体)を暗黒な要素としての「有機体の欲動」と言っている。


このような内部興奮の最大の根源は、いわゆる有機体の欲動[Triebe des Organismus]であり、身体内部[Körperinnern]から派生し、心的装置に伝達されたあらゆる力作用の代表であり、心理学的研究のもっとも重要な、またもっとも暗黒な要素 dunkelste Element]でもある。

Die ausgiebigsten Quellen solch innerer Erregung sind die sogenannten Triebe des Organismus, die Repräsentanten aller aus dem Körperinnern stammenden, auf den seelischen Apparat übertragenen Kraftwirkungen, selbst das wichtigste wie das dunkelste Element der psychologischen Forschung. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



現実界の身体というとき、イメージとしての身体ーー初期ラカンの鏡像身体ーーではないことに注意。この鏡像身体は事実上、フロイトの自我身体であり、エスの身体ではない、《自我は何よりもまず身体的自我である[Das Ich ist vor allem ein körperliches]〔・・・〕意識的自我は何よりもまず身体自我である[bewußten Ich ausgesagt haben, es sei vor allem ein Körper-Ich. ]》(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)