フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・・・〕 剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ». …jouir le moins possible …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973) |
①快の獲得:遊戯・幻想 |
われわれの心的活動は、有用な目的を追求するか、当面の快の獲得を求めるかのどちらかである。前者の場合、われわれが扱うのは知的判断、行動の準備、あるいは他者への情報伝達である。後者の場合、これらの活動を遊戯や幻想とわれわれは表現する。有用なもの自体(よく知られているように)、快の満足を得るための迂回路でしかない。Unsere geistigen Tätigkeiten streben entweder ein nützliches Ziel an oder unmittelbaren Lustgewinn. Im ersteren Falle sind es intellektuelle Entscheidungen, Vorbereitungen zu Handlungen oder Mitteilungen an andere; im anderen Falle nennen wir sie Spielen und Phantasieren. Bekanntlich ist auch das Nützliche nur ein Umweg zur lustvollen Befriedigung. (フロイト『夢解釈の全体への補足(Einige Nachtrage zum Ganzen der Traumdeutung)』1925年) |
②快の獲得:栄養とは無関係なおしゃぶり |
まずはじめに口が、性感帯としてリビドー的要求を精神にさしむける。心的活動はさしあたり、その欲求の充足をもたらすよう調整される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり[Lutschen]には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得[Lustgewinn ]をめざしたものである。 Das erste Organ, das als erogene Zone auftritt und einen libidinösen Anspruch an die Seele stellt, ist von der Geburt an der Mund. Alle psychische Tätigkeit ist zunächst darauf eingestellt, dem Bedürfnis dieser Zone Befriedigung zu schaffen. Diese dient natürlich in erster Linie der Selbsterhaltung durch Ernährung, aber man darf Physiologie nicht mit Psychologie verwechseln. Frühzeitig zeigt sich im hartnäckig festgehaltenen Lutschen des Kindes ein Befriedigungsbedürfnis, das ― obwohl von der Nahrungsaufnahme ausgehend und von ihr angeregt ― doch unabhängig von Ernährung nach Lustgewinn strebt (フロイト『精神分析概説』第3章、1939年) |
③快の獲得:欲動断念による代理満足(症状) |
欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年) |
症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年) |
④快の獲得:欲動の昇華 |
われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。 Eine andere Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet, durch die seine Funktion so viel an Geschmeidigkeit gewinnt. Die zu lösende Aufgabe ist, die Triebziele solcherart zu verlegen, daß sie von der Versagung der Außenwelt nicht getroffen werden können. Die Sublimierung der Triebe leiht dazu ihre Hilfe. |
一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。Am meisten erreicht man, wenn man den Lustgewinn aus den Quellen psychischer und intellektueller Arbeit genügend zu erhöhen versteht. 芸術家が制作、すなわち自分の幻想の所産の具体化によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性をメタ心理学の立場から明らかにするととができるであろう。だが現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 なものに思えるという比喩的な説明しかできない。 Die Befriedigung solcher Art, wie die Freude des Künstlers am Schaffen, an der Verkörperung seiner Phantasiegebilde, die des Forschers an der Lösung von Problemen und am Erkennen der Wahrheit, haben eine besondere Qualität, die wir gewiß eines Tages werden metapsychologisch charakterisieren können. Derzeit können wir nur bildweise sagen, sie erscheinen uns »feiner und höher« |
けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。 aber ihre Intensität ist im Vergleich mit der aus der Sättigung grober, primärer Triebregungen gedämpft; sie erschüttern nicht unsere Leiblichkeit. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
⑤快の獲得:ジョークの攻撃性 |
ユーモアは品性が備わっている。それは、例えばジョークに於いてはまったく欠けているものである。なぜならジョークはたんに快の獲得を得ること、あるいは攻撃性の利用として得られる快の獲得を得るだけのものだから。 Der Humor dankt diesem Zusammenhange eine Würde, die z. B. dem Witze völlig abgeht, denn dieser dient entweder nur dem Lustgewinn, oder er stellt den Lustgewinn in den Dienst der Aggression (フロイト『ユーモア』1927年) |
⑥快の獲得:いないいないばあ遊び・欲動断念の埋め合わせ・遊戯としての反復 |
小児の遊戯に関する諸学説は、子供たちの遊戯の動機を推測しようとつとめているが、そのさい経済論的観点[ökonomische Gesichtspunkt]、つまり快の獲得[Lustgewinn]にたいする考慮に重きをおいていない。私は、これらの現象をことごとく究めようと考えたのではないが、あるめぐまれた機会を存分に利用して、生後一年六ヵ月の男児が最初に自分でみつけた遊戯を、明らかにしようと思った。それは一時的な観察以上のものであった。なぜならば、私は数週間にわたって、子供やその両親とひとつ屋根の下に暮らしたのであり、たえず繰りかえされている謎めいた行為の意味が私に分かるまで、かなりながく観察をつづけたからである。 その子供は、知的な発達の点ではけっして早熱ではなかった。生後一年半で、ようやく、ごくわずかの明瞭な言葉をしゃべり、そのほかは身近の者だけに理解される、いくつかの意味のある音声をあやつっていた。だが、その子は両親と一人っきりの女中になじんでいたし、「お行儀のよい」性質のせいでほめられていた。夜間、両親を困らせもせず、いいつけをよくまもっていろいろな道具をいじったりしないし、禁じられた部屋へ行ったりしなかった。とりわけ、母親が何時間も傍にいないことがあっても、けっして泣いたりはしなかった。といっても、この子は母親がじぶんの乳でそだてたうえに、他人の手をいっさい借りずに世話してきたので、心から母親になついていた。 |
この感心な子が、ときおり困った癖を現わしはじめた。つまり、何でも手に入るこまごましたものを、部屋のすみや寝台の下などに、遠くほうり投げるので、そのおもちゃを捜し集めるのがひと苦労になるしまつだったのである。そのさい、子供は興味と満足の表情を表わして、高い、長く引っぱった、オーオーオーオ[o-o-o-o ]という叫び声を立てた。母親と私の一致した判断によるとそれは間投詞ではなくて、「いない」fortの意味であった。私はついに、それは一種の遊戯であって、自分のおもちゃを、みな、ただ「いない、いない」fortsein 遊びにだけ利用していることに気づいた。 ある日、私はこの見解をたしかめる観察をした。子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび度台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Daという言葉でむかえた。これは消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を現わす完全な遊戯だったわけである。そのうち、たいていは前者の行為しか見ることができなかった。第二の行為にいっそう大きな快[größere Lust ]がともなったのは疑いないのだが、第一の行為がそれだけでも倦むことなく繰りかえされたのである。 |
こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。 Die Deutung des Spieles lag dann nahe. Es war im Zusammenhang mit der großen kulturellen Leistung des Kindes, mit dem von ihm zustande gebrachten Triebverzicht (Verzicht auf Triebbefriedigung), das Fortgehen der Mutter ohne Sträuben zu gestatten. Es entschädigte sich gleichsam dafür, indem es dasselbe Verschwinden und Wiederkommen mit den ihm erreichbaren Gegenständen selbst in Szene setzte. |
この遊戯を情動の面から評価[affektive Einschätzung]するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発[Anregung]されてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母が立ち去ってしまうこと[Fortgehen der Mutter ]は、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快原理に一致するのであろうか[Wie stimmt es also zum Lustprinzip, daß es dieses ihm peinliche Erlebnis als Spiel wiederholt?]。消滅はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。 このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである[Es war dabei passiv, wurde vom Erlebnis betroffen und bringt sich nun in eine aktive Rolle, indem es dasselbe, trotzdem es unlustvoll war, als Spiel wiederholt. ]。 |
この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、支配欲動[Bemächtigungstrieb]に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供のもとから立ち去った母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動[Racheimpulses]の満足でもありうる。さあ、立ち去れよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ[ Das Wegwerfen des Gegenstandes, so daß er fort ist, könnte die Befriedigung eines im Leben unterdrückten Racheimpulses gegen die Mutter sein, weil sie vom Kinde fortgegangen ist, und dann die trotzige Bedeutung haben: »Ja, geh' nur fort, ich brauch' dich nicht, ich schick' dich selber weg.]。 |
私が最初の遊戯を観察したときは、生後一年半だったその子は、一年ののちに、しゃくにさわっていた玩具をいつも床に投げつけては「ちぇんちょう(戦争)に行っちゃえ!」»Geh' in K(r)ieg!« といっていた。そのころ子供は、家にいない父親が戦争に行っているのを聞かされていた。そして、父親がいないのを少しもさびしがらず、かえって母親の独り占め[Alleinbesitz der Mutter]を邪魔されたくないらしい明白な徴候を示した。われわれは、他の子供たちについても、彼らが同様の敵意にみちた興奮[ähnliche feindselige Regungen ]を、人間のかわりに物を投げだすことによって、表現することができるのを知っている。 すると、何か印象的なものを心理的に加工して、完全にわがものにする衝動が、一次的に、快原理から独立して発現しうるものかどうかという疑いが湧いてくる。しかし、ここで論議された例では、この衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快の獲得[direkter Lustgewinn ]が結びついているからこそであろう。 Man gerät so in Zweifel, ob der Drang, etwas Eindrucksvolles psychisch zu verarbeiten, sich seiner voll zu bemächtigen, sich primär und unabhängig vom Lustprinzip äußern kann. Im hier diskutierten Falle könnte er einen unangenehmen Eindruck doch nur darum im Spiel wiederholen, weil mit dieser Wiederholung ein andersartiger, aber direkter Lustgewinn verbunden ist. |
これ以上小児の遊戯を追求しても、二つの見解の取捨選択をきめるには役立たない。子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである[daß die Kinder alles im Spiele wiederholen, was ihnen im Leben großen Eindruck gemacht hat, daß sie dabei die Stärke des Eindruckes abreagieren und sich sozusagen zu Herren der Situation machen. ]。 |
しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由からの快の獲得[Lustgewinn]も見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである[Indem das Kind aus der Passivität des Erlebens in die Aktivität des Spielens übergeht, fügt es einem Spielgefährten das Unangenehme zu, das ihm selbst widerfahren war, und rächt sich so an der Person dieses Stellvertreters. ](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年) |
………………
◼️剰余享楽 ❶享楽の喪失への反応 |
剰余享楽は享楽に反応するのではなく享楽の喪失に反応する。 Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance (Lacan, S16, 15 Janvier 1969) |
❷享楽の断念としての対象a、マルクスの剰余価値 |
対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える。 市場と同じように...つまり、市場は人間の労働による何らかの対象を商品として定義する...それぞれの対象がそれ自体の中に何らかの剰余価値を保持するように。したがって、剰余享楽は、対象aの機能を孤立させることを可能にする。 C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a). Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a). Tel le marché… c'est à savoir à ce qu'il définit quelque objet du travail humain comme marchandise …tel chaque objet porte en lui-même quelque chose de la plus-value, ainsi le plus de jouir est-il ce qui permet l'isolement de la fonction de l'objet(a). (Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
❸フェティッシュ |
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
❹享楽の穴の穴埋め |
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕 剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
❺享楽欠如の原理 |
永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx]……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir]の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年) |
❻穴埋めの不可能性 |
ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽である。対象aは穴と穴埋めなのである。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く。il distinguera la jouissance du plus-de-jouir.… la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir…petit a est …le trou et le bouchon…Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要) |
ーー《穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte]》 (Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
❼享楽の昇華 |
間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である。au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013) |
❽享楽の亡霊 |
剰余享楽は既に享楽の亡霊である。シニフィアンの形式の上での享楽のモデル化である[c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance, un modelage de la jouissance sur le modèle du signifiant.](J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016) |
※附記 |
対象aは穴とこの穴の穴埋めの両方である[l'objet a est à la fois trou et bouchon de ce trou.](Bernard Porcheret, L'écrit et la parole, Séance 3, janvier 2022) |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
(ボロメオの環の)中心の楔は対象aを定義する。これが剰余享楽の場である[le coincement central définit l'objet(a). …c'est sur cette place du plus-de-jouir](ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974) |
……………………
ラカンが症状概念の起源はマルクスにあるとするとき、結局、③で示した代理満足としての症状、つまり快の獲得=剰余享楽=剰余価値=フェティッシュがマルクスにあると言っていることになる。 |
…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。 la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971) |
人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste. (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |