◼️見えないものを隠蔽する想像的ファルス |
ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュについて語った[Quand Lacan parlait du registre imaginaire, il parlait d'images qui pouvaient se voir]。〔・・・〕 しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について語ることを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 [L'imaginaire postsymbolique ]は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 [l'imaginaire présymbolique ]とはひどく異なる。 |
象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか? 厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである [Le plus important de l'imaginaire c'est ce qui ne peut pas se voir]。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス [le phallus féminin]、母のファルス [le phallus maternel ]がある。それが想像的ファルス [le phallus imaginaire ]と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 [imagination]の問題であるかのようである。 |
ラカンの名高い鏡像段階[le stade du miroir ]における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。〔・・・〕これが意味するのは、想像界と象徴界の結びつきであり、したがって知覚からの分離という命題である[Cela implique déjà cette connexion de l'imaginaire et du symbolique et donc une thèse qui se sépare de toute la perception]。すなわち、イマージュは見得ないものを隠蔽する[l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir]。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄』J.-A. Miller, Les prisons de la jouissance, 1994年) |
◼️無を覆うフェティッシュ |
上でミレールが、想像的ファルスーー女性のファルス [le phallus féminin]、母のファルス [le phallus maternel ]ーーと言っているのはもちろんフェティッシュのことである。 |
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年) |
つまり、イマージュは見得ないものを隠蔽する[l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir]とは、母のファルスの不在を隠蔽することである。 |
別の言い方をすれば母のファルスの無、母の去勢をヴェールすること、これがフェティッシュにほかならない。 |
(セミネール4において、)ラカンは無[rien]に最も近似している対象a を以て、対象と無との組み合わせを書くことに成功した。ゆえに彼は後年、対象aの中心には去勢[- φ]があると言うのである。そして対象と無があるだけではない。ヴェール[voile]もある。したがって、対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけである。 Avec l'objet petit a, le plus proche de ce « rien », Lacan a réussi à écrire ensemble l'objet et le rien, et c'est pour cela qu'il dit – bien des années plus tard – qu'au centre de l'objet petit a se trouve le - φ. Et on peut le dire, ce ne sont pas seulement l'objet et le rien, c'est aussi le voile. En cela, l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant, c'est un semblant comme le fétiche. (J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993) |
フェティッシュとしての見せかけ[un semblant comme le fétiche]とあるが、見せかけ=ヴェール=フェティッシュ[ semblant=voile =fétiche]であり、これがリアルな無をヴェールする。 |
我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997) |
つまり無をヴェールする機能がフェティッシュである。 ミレールはセミネールⅣのラカンに準拠しつつ、次のようにも言っている。 |
ヴェールは無から何ものかを創造する。ヴェールは神である[le voile crée quelque chose ex nihilo. Le voile est un Dieu]。(J.-A. Miller, LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994年) |
ーーフェティッシュは神と言っていることになる。では神はフェティッシュと言いうるだろうか。おそらく。少なくとも一神教的神、父なる神は。 なお後年のラカンにおいて父の名はフェティシズムである[参照]、ーー《ラカンは、父を固有のフェティシズムに基づいて定義した[Lacan définit le père à partir d'un fétichisme particulier]》(エリック・ロラン Éric Laurent, Un nouvel amour pour le père, 2006) |
◼️言語はフェティッシュ |
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ところでラカンはシニフィアン(言語表象)は見せかけだと言っている。 |
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見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971) |
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先のミレールの、見せかけ=ヴェール=フェティッシュ[ semblant=voile =fétiche]を受け入れるなら、シニフィアンはフェティッシュとなる。 |
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例えば、ラカンはマルクスの価値形態論に準拠しつつ、人間の交換行為はフェティッシュだと言っている。 |
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人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste. (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
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このラカンは、柄谷行人の次の二文とともに読むことができる。 |
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マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
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広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
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言語記号の交換自体、フェティッシュなのである。 ラカンのセミネールの熱心な受講者だったクリスティヴァは言語はフェティッシュだとしている。 |
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しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。 Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant. (ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980) |
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このクリスティヴァは、ニーチェの次の文で補って読むといっそう説得的である。 |
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言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75) |
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なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなる。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。 |
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一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年) |
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つまり言語は無をヴェールする機能であり、フェティッシュにほかならない。
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倒錯にはフェティシズム以外にマゾヒズムがあるが、病理的なマゾヒズムは現実界の享楽であり、穴自体である。したがって穴埋めの倒錯とは基本的にはフェティシズムとなる(もっともマゾヒズムの健康ヴァージョンもあり、こちらは穴埋め側にある)。 |