2024年2月19日月曜日

無をヴェールするフェティッシュ

 

◼️見えないものを隠蔽する想像的ファルス

ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュについて語った[Quand Lacan parlait du registre imaginaire, il parlait d'images qui pouvaient se voir]。〔・・・〕


しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について語ることを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 [L'imaginaire postsymbolique ]は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 [l'imaginaire présymbolique ]とはひどく異なる。


象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか?  厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである [Le plus important de l'imaginaire c'est ce qui ne peut pas se voir]。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス [le phallus féminin]、母のファルス [le phallus maternel ]がある。それが想像的ファルス [le phallus imaginaire ]と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 [imagination]の問題であるかのようである。

ラカンの名高い鏡像段階[le stade du miroir ]における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。〔・・・〕これが意味するのは、想像界と象徴界の結びつきであり、したがって知覚からの分離という命題である[Cela implique déjà cette connexion de l'imaginaire et du symbolique et donc une thèse qui se sépare de toute la perception]。すなわち、イマージュは見得ないものを隠蔽する[l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄』J.-A. Miller, Les prisons de la jouissance, 1994年)



◼️無を覆うフェティッシュ


上でミレールが、想像的ファルスーー女性のファルス [le phallus féminin]、母のファルス [le phallus maternel ]ーーと言っているのはもちろんフェティッシュのことである。


フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)


つまり、イマージュは見得ないものを隠蔽する[l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir]とは、母のファルスの不在を隠蔽することである。

別の言い方をすれば母のファルスの無、母の去勢をヴェールすること、これがフェティッシュにほかならない。

(セミネール4において、)ラカンは無[rien]に最も近似している対象a を以て、対象と無との組み合わせを書くことに成功した。ゆえに彼は後年、対象aの中心には去勢[- φ]があると言うのである。そして対象と無があるだけではない。ヴェール[voile]もある。したがって、対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけである。

Avec l'objet petit a, le plus proche de ce « rien », Lacan a réussi à écrire ensemble l'objet et le rien, et c'est pour cela qu'il dit – bien des années plus tard – qu'au centre de l'objet petit a se trouve le - φ. Et on peut le dire, ce ne sont pas seulement l'objet et le rien, c'est aussi le voile. En cela, l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant, c'est un semblant comme le fétiche.

(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


フェティッシュとしての見せかけ[un semblant comme le fétiche]とあるが、見せかけ=ヴェール=フェティッシュ[ semblant=voile =fétiche]であり、これがリアルな無をヴェールする。

我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)


つまり無をヴェールする機能がフェティッシュである。


ミレールはセミネールⅣのラカンに準拠しつつ、次のようにも言っている。

ヴェールは無から何ものかを創造する。ヴェールは神である[le voile crée quelque chose ex nihilo. Le voile est un Dieu]。(J.-A. Miller, LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994年)


ーーフェティッシュは神と言っていることになる。では神はフェティッシュと言いうるだろうか。おそらく。少なくとも一神教的神、父なる神は。


なお後年のラカンにおいて父の名はフェティシズムである[参照]、ーー《ラカンは、父を固有のフェティシズムに基づいて定義した[Lacan définit le père à partir d'un fétichisme particulier]》(エリック・ロラン Éric Laurent, Un nouvel amour pour le père, 2006)




◼️言語はフェティッシュ

ところでラカンはシニフィアン(言語表象)は見せかけだと言っている。

見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)


先のミレールの、見せかけ=ヴェール=フェティッシュ[ semblant=voile =fétiche]を受け入れるなら、シニフィアンはフェティッシュとなる。

例えば、ラカンはマルクスの価値形態論に準拠しつつ、人間の交換行為はフェティッシュだと言っている。

人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)


このラカンは、柄谷行人の次の二文とともに読むことができる。

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


言語記号の交換自体、フェティッシュなのである。


ラカンのセミネールの熱心な受講者だったクリスティヴァは言語はフェティッシュだとしている。


しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


このクリスティヴァは、ニーチェの次の文で補って読むといっそう説得的である。


言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)

なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなる。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。

一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)


つまり言語は無をヴェールする機能であり、フェティッシュにほかならない。




◼️貨幣の無をヴェールする貨幣のフェティシズム


ところで岩井克人は名著『貨幣論』で、貨幣は無ーー《貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめた》ーーとしている。

25 貨幣の系譜と記号論批判

地のままの金から鋳造された金貨へ、軽くなった金貨から兌換を保証されている紙幣へ、兌換保証を失った紙幣からエレクトロニック・マネーへと変遷していく貨幣の系譜ーーそれは、まさに、「本物」の貨幣のたんなる「代わり」がその「本物」の貨幣になり代わってそれ自体で「本物」の貨幣となってしまうという「奇跡」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような系譜をそのまま順を追ってなぞってはくれない。 飛び越しもあるだろうし、後戻りもある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の貨幣とはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の貨幣の「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。そして、このような「奇跡」のくりかえしをとおして、貨幣の貨幣としての価値とモノとしての価値のあいだの乖離が拡大していく傾向をもつ。それは、結局、貨幣が貨幣であるのは、それが充実した価値をもっているモノであるからではなく、たんにあの貨幣形態Zの無限の「循環論法」のなかで貨幣の位置をしめているからであるという事実を、歴史的に実証しつづけているのである。


今度は、逆に、貨幣の系譜を現在から過去へとさかのぼってみよう。 エレクトロニック・マネーから紙幣、紙幣から金貨、金貨から・・・・・・と順繰りにたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、金塊や砂金がこの世の最初の貨幣であったわけではないだろう。燦然とかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の貨幣の「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始貨幣にかんする書物 (Paul Einzig, Primitive Money, 2nd ed., New York: Pergamon press, 1966) をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、鉛、黒曜石、石の円版、ガラス玉、陶片、指輪、塩、矢、刀、斧、鉄砲、木材、樹皮、 小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム芋、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、太鼓、毛布、麻布、綿布、絹布、羽毛、毛皮、皮革、牛、羊、水牛、豚、トナカイ、 干し魚、バター、 子安貝、法螺貝、カタツムリ貝、鯨の歯、犬の歯、豚の歯、蜜蠟、そして人間の奴隷といったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣として流通していたことが書かれている。そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣が貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での耐久性さえもっていれば、どのようなモノでも貨幣として使われてきたのである。だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、貨幣がこの世にはじめて貨幣として登場したその瞬間に、それはモノとしての価値を上回る貨幣としての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、貨幣としての貨幣とはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての貨幣は貨幣としての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の貨幣、いや本モノの貨幣という言葉は、自家撞着以外のなにものでもない。


貨幣の系譜をさかのぼっていくと、それは「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣になってしまうという「奇跡」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その端緒にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣へと跳躍しているさらに大な断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣で「ない」ものの「代り」が貨幣で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。 貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。……(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)


そして『貨幣論』の最終章の最後の節には剰余価値をめぐって次のようにある。

……わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」 世界へと歴史が跳躍しための「奇跡」のときのことである。その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」 世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。 そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。

金属のかけらや紙の切れはしや電磁気的なパルスといったものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって日々維持しつづける貨幣としての価値モノとしての価値をはるかに上回るこの価値こそ、歴史の始原における大きな「奇跡」とその後にくりかえされた小さな「奇跡」において生みだされた剰余価値の、今ここにおける痕跡にほかならない。それは、「天賦の人権のほんとうの楽園」であるべき「流通または商品交換の場」が、すでにその誕生において剰余価値という原罪を知っていたという事実を、今ここに生きているわれわれに日々教えつづけてくれているのである。

「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。(岩井克人『貨幣論』第5章「危機論」1993年)


この剰余価値こそラカンの無をヴェールする剰余享楽としての対象aでありフェティッシュである。

私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


こうして始まりとしての貨幣の無をヴェールする貨幣のフェティシズムがマルクスの剰余価値にほかならないのである。



………………


※附記


柄谷行人とマルクスの引用にていくらか補っておこう。


①「貨幣の無」から「剰余価値」へ

すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣(柄谷行人『マルクスとその可能性の中心』1978年)

単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」2001年)


②「貨幣のフェティシズム」


上に剰余価値とあるが、これが事実上の「貨幣のフェティシズム」である。

くりかえしていうが、資本とは G - W - G' (G+⊿G) という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、 他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派経済学においては、資本の自己増殖運動は、 商品の流通あるいは財の生産 = 消費のなかに解消されてしまう。 産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って 「市場経済」という言葉を使う。 彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。


しかし、財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」p323~)



⊿Gは剰余価値であり、これがフェティッシュである。

・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. (マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



※参照:マルクスにおける商品フェティッシュ・貨幣フェティッシュ・資本フェティッシュ

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs.] (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)

利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕


ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)


この資本フェティッシュG - G´は、資本論2巻にも次の説明がある。


貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕

G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.)

(マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節)



………………


※追記


なおラカンにおいて無は穴と等価である。

さてシンプルに壺の例を挙げよう、つまり現実界の中心にある空虚の存在を表象するものを作り出す対象である。それは空虚にもかかわらずモノと呼ばれる。この空虚は、無として自らを現す。そしてこの理由で、壺作り職人は、彼の手で空虚のまわりに壺を作る。神秘的な無からの創造、穴からの創造として。

Or le simple exemple du vase, …,à savoir cet objet qui est fait pour représenter l'existence  de ce vide au centre de ce réel tout de même qui s'appelle la Chose, ce vide tel qu'il se présente dans la représentation, se présente bien comme un nihil, comme rien.   Et c'est pourquoi le potier, …bien qu'il crée le vase autour de ce vide avec sa main, il le crée tout comme le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.  (Lacan,  S7,  27 Janvier  1960)


母なるモノの穴を穴埋めするのが、倒錯者としてのフェティシストである。

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する[le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre」(Lacan, S16, 26 Mars 1969)


つまり「無をヴェールするフェティッシュ」の別の言い方は、「穴を穴埋めするフェティッシュ」であり、父の名も穴埋め、かつまた愛も穴埋めである。


父の名という穴埋め[ bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)


さらに次のようにも言っている。

フロイトが言ったことに従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。結局、倒錯が人間の本質である。que toute sexualité humaine est perverse si nous suivons bien ce que dit FREUD.  …la perversion c'est l'essence de l'hommeLacan, S23, 11 Mai 1976



倒錯にはフェティシズム以外にマゾヒズムがあるが、病理的なマゾヒズムは現実界の享楽であり、穴自体である。したがって穴埋めの倒錯とは基本的にはフェティシズムとなる(もっともマゾヒズムの健康ヴァージョンもあり、こちらは穴埋め側にある)。