◾️享楽の穴と剰余享楽の穴埋め ラカンの対象aは享楽の穴と剰余価値の穴埋めの両方を含意している。 |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
(ボロメオの環の)中心の楔は対象aを定義する。これが剰余享楽の場である[le coincement central définit l'objet(a). …c'est sur cette place du plus-de-jouir](ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974) |
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
つまりーー、 |
ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽である。対象aは穴と穴埋めなのである[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir.… la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir…petit a est …le trou et le bouchon](J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要) |
ラカンの享楽はフロイトの欲動と等価だが(参照:欲動享楽対照表)、ではフロイトの「快の獲得」としての剰余享楽とは何か。ここではそれを簡単に見る(より詳細版は「剰余享楽=快の獲得文献」)。 ◾️快の獲得=欲動断念=代理満足=症状=剰余享楽=剰余価値=フェティッシュ まずフロイトの快の獲得は欲動断念に伴う代理満足であり、妥協としての症状である。 |
欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年) |
症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年) |
この欲動断念(享楽断念)の代理満足としての症状が、剰余価値としての対象aであり、マルクスのフェティッシュである。 |
対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの享楽断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える[C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a). Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a). ](Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
ラカンは症状概念の起源はマルクスにあると言った。 |
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971) |
ここまで示してきたように、この症状概念は「快の獲得=欲動断念=代理満足=症状=剰余享楽=剰余価値=フェティッシュ」と言っているのである。 |
実はこの「症状はフェティッシュ」について、ラカンは事実上、早い段階でーーセミネールⅣにてーー既に言っている。 |
人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.] (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
ちなみに上のラカンは柄谷行人が次の二文で言っている事と等価である。 |
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
◾️剰余享楽という享楽断念としての症状はフェティッシュ ここで確認しておこう。 先に引用した剰余享楽をめぐる文をひとつ再掲する。 |
対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの享楽断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える[C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a). Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a). ](Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
ーー享楽断念としての剰余享楽は言説の影響下にある、とある。 享楽、つまり欲動は身体的要求である。 |
エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
この身体的要求の断念としての剰余享楽が言説の効果の下にあるのである。 |
言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972) |
言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
「言説=社会的結びつき=見せかけ」とあるのがフェティッシュであり、症状である。 |
フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993) |
社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999) |
つまり身体的要求断念としての剰余享楽は症状でありフェティッシュにほかならない。 ラカンは《症状のない主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )と言ったが、これはおそらく「フェティッシュのない主体はない」と言い換えうる。 |
なおここでの文脈とは異なるが、ミシェル・レリスはジャコメッティ論で次のように言っていることを付け加えておこう。 |
フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine] (ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |
…………………
※附記:マルクスにおけるフェティッシュ まず商品フェティッシュと貨幣フェティッシュである。 |
商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs.] (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」) |
ーー二番目の文の意味は、《すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣》(柄谷行人『マルクスとその可能性の中心』1978年)だからである。 そしてこれ以外に資本フェティッシュがある。 |
利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。 Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕 ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。 Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form. (マルクス『資本論』第三巻第二十四節) |
この資本フェティッシュG - G´は、資本論2巻にも次の説明がある。 |
貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態、貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕 |
G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.) (マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節) |