2024年7月10日水曜日

世界は仮象(ニーチェ・ラカン・柄谷)

 

いつもニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


現象[Phänomenen]に立ちどまったままで《あるのはただ事実のみ [es giebt nur Thatsachen]》と主張する実証主義[Positivismus] に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実はなく、あるのはただ解釈のみ[nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen] と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。〔・・・〕


総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義」。

[Soweit überhaupt das Wort »Erkenntnis« Sinn hat, ist die Welt erkennbar: aber sie ist anders deutbar, sie hat keinen Sinn hinter sich, sondern unzählige Sinne. – »Perspektivismus.«](ニーチェ『力への意志』1886/87)


信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)


確信は嘘にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった[Es ist schon lange von mir zur Erwägung anheimgegeben worden, ob nicht die Überzeugungen gefährlichere Feinde der Wahrheit sind als die Lügen ](『人間的、あまりに人間的』第1部483番)。


このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? [Diesmal möchte ich die entscheidende Frage tun: besteht zwischen Lüge und Überzeugung überhaupt ein Gegensatz? ]


――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! [― Alle Welt glaubt es; aber was glaubt nicht alle Welt! ]


――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。


えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには嘘もまたあったかもしれないのではなかろうか?[Wie? könnte unter diesen Embryonal-Formen der Überzeugung nicht auch die Lüge sein? ] ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ嘘であったものが、子の代にいたって確信となるのである。(ニーチェ『反キリスト者』第55節、1888年)



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「仮象の」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんに嘘によって仮象の世界に付け加えられたにすぎない…[Die »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzugelogen... ](ニーチェ『偶像の黄昏』「哲学における「理性Vernunft」」 1888年)


科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である[daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht] (ニーチェ『 悦ばしき知 』第344番、1882年)

我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知』第112番、1882年)

物理学とは世界の配合と解釈にすぎない[dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung](ニーチェ『善悪の彼岸』第14番、1886年)


私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている[alles, was uns bewußt wird, ist durch und durch erst zurechtgemacht, vereinfacht, schematisirt, ausgelegt](ニーチェ『力への意志』11[113] (358) )



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※附記


◾️ラカンにおける「物理学は仮象、科学は詩」

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](Lacan, S16, 20 Novembre 1968)

言説はそれ自体、常に仮象の言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)


なぜ科学として機能する何ものかがあるのか。科学は詩なのである[Pourquoi est-ce qu'il y a quelque chose qui fonctionne comme science ? C'est de la poésie. ](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)




◼️柄谷行人における「科学はレトリック、科学はプロパガンダ」

T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」『隠喩としての建築』所収、1983年)

ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収、1983年)