2024年11月29日金曜日

二種類の超自我


 以下、今まで繰り返してきたことだが、ある意図があって一般にも可能な限りわかりやすいように、簡潔にまとめる。


フロイトの超自我は二種類ある。フロイトが最初に超自我概念を提出した『自我とエス』第3章では、自我理想と超自我を並置しつつ超自我を示した。


自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼びうる[eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


この自我理想としての超自我は父の代理、エディプスコンプレクスの代理としての超自我である。

自我理想は父の代理である[Ichideals …ist ihnen ein Vaterersatz.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、摘要、1921年)

エディプスコンプレクスの代理となる超自我[das Über-Ich, der Ersatz des Ödipuskomplexes](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


このエディプスコンプレクスの代理としての超自我の別名は文化的超自我である。

文化的超自我は理想を発展させてきた[Das Kultur-Über-Ich hat seine Ideale ausgebildet](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)


他方、これ以外にエスの代理としての超自我がある。

超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代理としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

超自我は外界の代理であると同時にエスの代理である。超自我は、エスのリビドー蠢動の最初の対象、つまり育ての親の自我への取り入れである[Dies Über-Ich ist nämlich ebensosehr der Vertreter des Es wie der Außenwelt. Es ist dadurch entstanden, daß die ersten Objekte der libidinösen Regungen des Es, das Elternpaar, ins Ich introjiziert wurden](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


このエスのリビドー蠢動の最初の対象としての自我への取り入れとは母なる対象の取り入れである。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ]〔・・・〕

母を見失う(母の喪失)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ーー《母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] 》(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)へのリビドーではあるが、《負傷した身体部分への苦痛備給[Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ]》と同様とあるように、喪われた母の身体へのリビドー拘束に関わる、《備給はリビドーに代替しうる [»Besetzung« durch »Libido« ersetzen》]》(フロイト『無意識』1915年)、《喪われた対象へのリビドーの拘束[die Libido an das verlorene Objekt geknüpft 

 ]》(フロイト『喪とメランコリー』1917年)



この母が最初の超自我であるのは最晩年の論文にも表現されている。

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーーここにある高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)




もうひとつ確認しよう。『文化の中の居心地の悪さ』には次のようにある。

我々に内在する破壊欲動の一部は、超自我へのエロス的拘束を形成するために使用される[ein Stück des in ihm vorhandenen Triebes zur inneren Destruktion zu einer erotischen Bindung an das Über-Ich verwendet.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年)


超自我へのエロス的拘束[ erotischen Bindung an das Über-Ich] とあるが、ここでの拘束とは固着[Fixierung]を意味する。

対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ](フロイト「欲動とその運命』1915年)


フロイトは少女の事例を取り上げて、前エディプス的母への拘束と固着を等置しつつ語っているが、これはもちろん少女に限らず両性にとってそうである。

少女のエディプスコンプレクスは、前エディプス的母への拘束[präödipale Mutterbindung] の洞察を覆い隠してきた。しかし、この前エディプス的母への拘束はこよなく重要であり永続的な固着[nachhaltige Fixierungen]を置き残す。

Der Ödipuskomplex des Mädchens hat uns lange den Einblick in dessen präödipale Mutterbindung verhüllt, die doch so wichtig ist und so nachhaltige Fixierungen hinterläßt. (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


ーー母への拘束[Mutterbindung]=母への固着[Mutterfixierung]である、《最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ]》(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)


つまり超自我へのエロス的拘束[ erotischen Bindung an das Über-Ich]とは母へのエロス的固着[erotischen Fixierung an die Mutter]にほかならない。

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


これは次の文とともに読むことができる。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


自己破壊的とあるが、マゾヒズムかつ死の欲動を意味する。

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


これがラカンが次のように言っている意味である。

超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, l6  janvier  1963)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


すなわち超自我とは死の欲動に直接的に関わるのである、《死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi]》  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)


以上、前エディプス的超自我は喪われた母の身体の取り入れに関わり欲動に関わるーー《すべての欲動は実質的に、死の欲動である[ toute pulsion est virtuellement pulsion de mort]》(Lacan, E848, 1966年)ーー。他方、自我理想としてのエディプス的超自我は父の代理である。ラカン語彙では前者が現実界、後者が象徴界であり、欲望に関わる。

要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique](ラカン、S24, 08 Février 1977)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ](Lacan, E628, 1960年)

欲望は大他者に由来する[ le désir vient de l'Autre](Lacan, E853, 1964年)

欲望は言語に結びついている。欲望は象徴界の効果である[le désir: il tient au langage. C'est … un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)


ここで確認しておけば、ラカンの欲望はフロイトの願望であり、実際は幻想である。

フロイト用語の願望[Wunsch]をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.(Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME, 2016)

(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme](Lacan, AE207, 1966

幻想生活たされぬ願望で支えられているイリュージョン[Diese Vorherrschaft des Phantasielebens und der vom unerfüllten Wunsch getragenen Illusion](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年)



以上、次のようになる。