質問をもらっている。私は何度か仄めかしているつもりだが、ここでははっきり言おう。松本卓也くんの『享楽社会論』の享楽の捉え方は誤謬である。
以下、それを厳密に示そう。
『享楽社会論』の「まえがき」にはこうある。
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享楽とは、人間が安定した象徴システム(=象徴界)のなかに参入することと引き換えに失われたものである。それゆえ、享楽すること(あるいは、失われたはずの享楽が回帰してくること)は象徴システムが不安定化されることと同義であり、端的に言って、享楽は死のイメージをまとっている。だとすれば、渇きを癒し、生を持続させ、むしろシステムの安定化に貢献するという点で健康的な意味を含みもつ「エンジョイ」は、享楽とは程遠いものなのである。〔・・・〕
(だが)「享楽」は、死を賭した革命にも似た甘美な破滅に彩られた「不可能なもの」としてのそれから、消費社会における「エンジョイ」、つまりは制御の可能なものとしてのそれへと変貌することになる。本書で取り扱う「剰余享楽」や「資本主義のディスクール」 といった七〇年代のラカンの概念は、このような現象を把握するためにもっとも有効なものとなるだろう。(松本卓也『享楽社会論』「まえがき」、2018)
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最初のパラグラフの「享楽は失われたもの」というのはよろしい。だが次のパラグラフの括弧付きの「享楽」、上にあるように剰余享楽だが、ここで彼が享楽が剰余享楽に変貌したというのは完全な間違いである。
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【享楽の穴と剰余享楽の穴埋め】
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まずラカンの享楽と剰余享楽の関係は次の通り。
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装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)
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享楽の穴を穴埋めするのが剰余享楽である。穴とはトラウマ、喪失を意味する。
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現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21. 19 Février 1974)
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穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)
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この享楽の穴と剰余享楽の穴埋めはどちらも対象aである。
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対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)
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対象aの用語が導入されるのは、享楽の断念の機能に関する言説の中でである。言説の影響下でのこの享楽断念の機能としての剰余享楽は、対象aにその場所を与える[C'est dans le discours sur la fonction de la renonciation à la jouissance que s'introduit le terme de l'objet(a). Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours, voilà qui donne sa place à l'objet(a). ](Lacan, S16, 13 Novembre 1968)
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さらにこの享楽断念に関わる剰余享楽はフロイトの「快の獲得」と等価である。
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フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
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享楽断念、すなわち欲動断念であり、快の獲得は代理満足、妥協の症状である。
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欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年)
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症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)
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この快の獲得は欲動の昇華でもある。
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われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。
一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得 [Lustgewinn]を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。
芸術家が制作、すなわち自分の幻想の所産の具体化によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性をメタ心理学の立場から明らかにするととができるであろう。だが現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 »feiner und höher«なものに思えるという比喩的な説明しかできない。
けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)
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したがってジャック=アラン・ミレールは、次のように言っている。
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ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽である。対象aは穴と穴埋めなのである[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir.… la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir…petit a est …le trou et le bouchon](J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)
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間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir] (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre May 2013)
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剰余享楽=享楽断念(欲動断念)=快の獲得=欲動の昇華だが、昇華は充分には機能しない。
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抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。
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Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)
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(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)
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これもミレールが次のように言っていることである。
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フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する[ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime ]
(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)
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次の文はより具体的に示されている。
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剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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さらにこうもある。
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穴埋めの対象a、この対象aは、人が自らを防衛できないものがある。密封しえない「ひとつの穴の穴埋め」である。ダナイデスの樽モデルの穴の穴埋めである[L'objet petit a bouchon, l'objet petit a, c'est l'objet petit a dont on ne peut pas se défendre qu'il est « bouche un trou » qui est infermable, qui bouche un trou du modèle tonneau des Danaïdes] (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 14/11/2007)
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これはダナイデスの樽の穴は穴埋め不可能という意味である、《享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ]》(Lacan, S17, 11 Février 1970)
このダナイデスの樽は先のフロイトの欲動の昇華は不可能の詩的言い換えでもある。
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以上から判然とするように、ラカンにおいて享楽から剰余享楽への変貌があったとする松本卓也くんの観点は基本的な部分での誤謬としか言いようがない。
【享楽はマゾヒズム】
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そもそもラカンにおいて享楽はフロイトのマゾヒズムであり、死の欲動である。これは晩年まで変わっていない。
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享楽の本質はマゾヒズムである[La jouissance est masochiste dans son fond](Lacan, S16, 15 Janvier 1969)
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死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)
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享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il(Freud) l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)
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死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)
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このマゾヒズムがフロイトにおいての原欲動=自己破壊欲動=死の欲動である。
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欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。
Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕
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我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。
Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
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これもミレールによって繰り返し確認されている。
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マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドーはそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる[Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre.] (J.-A. Miller, LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)
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ラカンの観点では、マゾヒズムは人に広く行き渡っている。マゾヒズムはリビドーと死の欲動の結合に関与していると言いうる[dans la perspective de Lacan, il y a une prévalence du masochisme, dont on peut dire qu'elle est impliquée par l'unification de la libido et de la pulsion de mort]. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 3 MAI 1989)
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ーー《このマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロス欲動との合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、残滓である[dieser Masochismus ein Zeuge und Überrest jener Bildungsphase, in der die für das Leben so wichtige Legierung von Todestrieb und Eros geschah. ]》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
つまり、《ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ]》(J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS, 1 MARS 1989)
ちなみにフロイトの定義において《リビドーは愛の欲動である[Libido est Liebestriebe]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)。したがって愛の欲動=死の欲動となる。ーー《死は愛である [ la mort, c'est l'amour]》(Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
ラカンはマゾヒズムと原ナルシシズムを結びつけている。
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マゾヒズムを唯一明示しうるのは、対象aの機能を持ち出す以外ない。それがまったき本質である。私は信じている、重要なのはかつて原ナルシシズムのため確保されていた場処に見い出さなければならないと。[On ne peut articuler le masochiste qu'à faire entrer…que la fonction de l'objet(a) en particulier y est absolument essentielle. Je crois que l'important de ce que…peut être repéré à la place anciennement réservée au narcissisme primaire.] (Lacan, S13, 22 juin 1966)
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ここでの対象aの機能は、《喪われた対象aの機能[la fonction de l'objet perdu (a)]》(Lacan, S11, 13 Mai 1964)であり、究極的には母胎の喪失である。
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例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)
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フロイトにとって原ナルシシズムは出生とともに喪われる。
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自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす[Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.」(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む[haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt](フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
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つまりは《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)、これが原ナルシシズムの対象であり、かつマゾヒズムの究極の対象である。したがって喪われていない享楽とは、子宮内生活にほかならない。
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子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。
La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça. (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)
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この原ナルシシズム状態こそ本来の欲動の対象である。
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以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)
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人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)
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母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年)
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ミレールは次のように言っている。
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ラカンは反復と喪われた対象との結びつきを常に強調した。…ラカンは根源的に喪われた対象をふたたび見出すための努力として反復を位置づけるのを止めなかった。
Lacan n'a jamais manqué de souligner le lien de la répétition à l'objet comme objet perdu (…) Il n'a pas cessé de situer la répétition comme un effort pour retrouver l'objet foncièrement perdu. (J.-A. Miller, « Transfert, répétition et réel sexuel.» 2010)
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これこそラカンの現実界の享楽の穴(喪失)の機能であり、穴埋めとしての剰余享楽ではまったくない。ーー《剰余享楽は既に享楽の堕落版である[c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance]》(J.-A. MILLER, Habeas corpus, 2016)
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反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。
ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]〔・・・〕
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある[conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD.]〔・・・〕
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享楽の対象は何か?[Objet de jouissance de qui ?]…
これが「大他者の享楽」を意味するのは確かだろうか? 確かにそうだ![Est-il sûr que cela veuille dire « jouissance de l'Autre » ? Certes !]…
享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)
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モノは母なるモノであり、究極的には喪われた母の身体である。
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959)
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モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
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フロイトからも三文掲げておこう。
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母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation.] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ]〔・・・〕
母を見失う(母の喪失)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
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フロイトは《不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido]》(フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)と言っているが、つまり欲動は母のトラウマ的喪失と結びついているということでありーー《リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]》フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)ーー、さらに原不安は母胎の喪失である、《不安は対象の喪失に対する反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, (…) daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.]》(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
以上、これはフロイト・ラカンの最も基本的な部分であるーー《フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵である[celle de Freud…qu'Inhibition, symptôme et angoisse est la clef du dernier enseignement de Lacan]》(J.-A. Miller, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)ーー。70年代のラカンにおいて、享楽が剰余享楽へ変貌したという松本卓也の主張は全き妄想である。きっと彼は、前著『人はみな妄想する』を『享楽社会論』で赤裸々に実践してみせたのだろう。
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