Kim, Yi-Chul@kimarx 蓮實重彦の批評に存する主題のひとつを簡潔にまとめると、「日本は第二帝政期のような時代を迎えつつあり、まもなく書くことの倫理が問われる。その倫理を実践したボードレールやマラルメを準備するためには、ただし、コールリッジとポーが必要だ。私は彼らになれそうにないから、後は任せた」となる。
次のツイートは、第二帝政期ツイートの見本を示しているのだろう。
Kim, Yi-Chul@kimarx「マルクス主義とは、カール・マルクスに対してなされた誤解の総体である」というアンリの言葉をなぞると、「ドゥルーズ研究とは、ジル・ドゥルーズに対してなされた妄想の総体である」という感がある。実質、テクストを読んでさえいないとしか思えない解釈ばかりにつきあたる。
誰の、どういう解釈なのかを全く示さなければ、大衆向けの「記号の記号」の流通ツイートでしかない。あるいは夜郎自大ツイートでしかない。
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だが、いわゆる文化の大衆化現象は、たんなる量的な変化をいうのではなく、芸術的な記号の流通過程の変化なのである。少数の特権者によって発信された記号が多数の匿名者によって受信されている限り、大衆化現象は現実のものとはならない。特権的な知は、きまって堅固な階層秩序によって文化を保証しているからである。それは、欠落を埋めるかたちで改めて秩序維持に貢献するだろう。大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。ポンソン・デュ・テラーユの予告された新聞連載小説『ロカンポールの最後通牒』は、読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。したがって、まだ発表されてさえいない作品の作者たる人物が。そこで交換されているものの特権的な発信者とは呼べないだろう。ギュスターヴの『サランボー』の女主人公の名前が評判の料理屋のデザートとなり、皇帝主催の舞踏会に姿を見せた外国人作曲家の夫人の衣裳となり、寄席の年末レヴューのヒロインとなったりするとき、作者たるものはもはやそこでとり交される固有名詞に何ら特権的な所有権を主張しえない事情を思い起してみるなら、大衆化現象がたんなる数の増大でないことは明らかだろう。記号のあり方そのものと、その流通形態とが決定的に変化しているのだ。聴衆が競いあってオッフェンバックの喜歌劇の切符を買い求め、読者が先を争ってポンソン・デュ・テラーユの連載小説の載る『ラ・プチット・プレス』紙の予約購読を申し込むのは、ぜひともその作品に接したいという欲望とはまったく別の理由からである。それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。
この意志は、隣人の模倣を端に発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらす安心感の連帯と呼ぶべきものだが、マクシムが苛立っているのも、まさにそれなのだ。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない。ともにその名を目にしてうなずきあえる記号の記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。
第二帝政期のパリが享楽の都であるとするなら、享楽の対象は間違っても記号ではない。享楽を保障してくれるものは、記号の記号が交換されているその流通の体系そのものなのである。違いは、したがって、数量的なものではない。みずからを流通体系そのものに一体化させる喜びの連帯が一方にあり、いま一方に、記号を解読する喜びがあり、それをへだてるものは数の問題ではないわけだ。それがあっさり数の問題だと錯覚されてしまったのは、不幸にして、大衆新聞に連載された小説を、記号として読むものがほとんどいなかった理由からである。
マクシムもまた、ポンソン・デュ・テラーユをまともに読んでいたとは思えない。だいいち、さきに引用したような言葉で『ロカンポールの最後通牒』を語るとしう姿勢そのものが、否定的な契機に支えられたものだとはいえ、いかにも大衆化時代にふさわしいやり方だといえはしまいか。彼もまた、記号の記号にほかならぬ固有名詞を流通させているだけだからである。みずからを苛立たせるものとしての大衆化現象に、こうして彼は埋没する。まだ読んでいるはずっもない作品の題名を口にすることで、はからずも連帯を実践してしまっているからである。それが、マクシムのいつもながらの凡庸さをきわだたせていることは、いわずもがなであろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
われわれは、ここで、いわゆる第二帝政期が、それに批判的であろうとする姿勢そのものが規格化された言葉しか生み落とさないという悪循環を萌芽的に含んだ一時期であると認めざるをえまい。それは、いわゆる知識人や芸術家たちを積極的にとりこむ力学的な装置のようなものだ。顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序なのだといいかえてもよい。というのも、知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。(同上)
※付記
Kim, Yi-Chul@kimarx 2016年06月24日(金)
教養ある知者であることが権力を持つことに等しいとは、フーコーを参照すれば、あるいは中国の歴史上の在野の賢者を見れば、自明であって、そこを叩かれても、「私自身が望む望まないにかかわらず、たしかに権力をもっていますから、仕方ありませんね」と応えるしかない。