不在の原因 の絶対化というメイヤスーの否定神学とラカンの非全体
偶然性を唯一の必然性として絶対化するメイヤスーの仕草は、思弁ではなく、観念論に陥っている。すなわち、「すべては偶然性である、この偶然性に必然性以外は」という彼の考え方。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)
我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。
(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した支えもない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なる形で、非全体(pas-tout)概念が、目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁することができ、そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。
(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)