まず少し前にツイッターで拾った文を掲げる(東浩紀によるリツイート)。
「ぼくたちは、もういちど批評という病を取り戻さねばならない。なぜならば、ほんとうは健康になっていないのに健康になったふりをすること、それこそが最悪の嘘であり、自己欺瞞だからである。ぼくたちの社会はいまだ病んでいる。」(東浩紀、『ゲンロン4』)
こういった文にアタシはーー蓮實重彦ではないけれどーー「ほとんど肉体的な厭悪」を覚えてしまう(おそらく上の文の前後には、もうすこしは「まともな」ことが書かれているのだろうが、アタシは全く読んでいないということをここで断っておく)。
東氏に何らかの恨みがあるわけではない。彼は現代批評家のなかで稀にみる「地頭がよい人」(鈴木健)、「とても優秀な人」(浅田彰)であるに相違なく、そのツイートの「内容」にときにハッとさせられたことは何度もある。
もっともそれと同時に常に次のような感慨を抱かないではない。
たとえば東浩紀氏が書いたものがわたしの心に響いてこないのは、それがカタログ的な知から構成されているよう に見えるからです。基本にあるのはジャック・デリダや量子力学の名を借りた思想カタログもしくは思想フィクショ ンです。実際に砂漠のなかを歩いたか、ジャングルのなかを歩いたか、実際に異国の地で何年も過ごしたか、という ような、生身の体験や根源的な危機感が感じられない。自らは安全な場所に身を置いて、頭の中で順列組み合わせで 知識を再構成している。厳しい言い方をすれば、人も羨むエリート大学卒業生が書斎で捏造した小賢しいフィクショ ンです。迷える子羊たちはその人の言うことについてさえ行けば何とかなると思ってしまう。(藤田博史)
いやいや、これはいささか言い過ぎである。彼のような人物もこの現代には必要である。
そもそも彼は「観光客」の思想家として自らを規定しているのだから。《村人/旅人/観光客は、思想用語で言うと、共同体/他者/両者のあいだをパートタイムで行き来する人です。》
すなわち自ら「ヌエ」的存在であることを引き受けているのだから。
芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。(柄谷行人「死語をめぐって」)
中野のいう「芸能人」にあたるものは………学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。(同上)
これが現代をたくみに泳いでいく至高の方法である!
ところで冒頭の文の「ぼくたちの社会はいまだ病んでいる」とはどういう意味だろう? 「ぼくたちの社会」はかつてよりずっと病んでいるという認識は「常識」ではなかったか。
疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? )
「ぼくたち」が置かれている新自由主義という非イデオロギー的イデオロギーの時代とは、もちろんどちらの特徴が支配しているかは言うまでもない。
・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……
・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)
東浩紀氏自身、こう言っている。
2016年02月09日@hazumaむかしの日本は、権力は自民党、マスコミは左翼ってことでバランスがとれていたわけだけど、ネットはもうすっかり自民党支持だし、マスコミ左翼は急速に力を失っているから、これからは、有名で金もってる成功者はすべて自民党で、左翼は貧乏で影響ない負け組って構図がどんどん明確になりそうだ。
正義は守りたいけど負け組にはなりたくない、そんな44歳の冬です。
彼のツイートを読んでいると、ボクが「勝ち組」になれるようミナさん応援してください! あるいはきみたちに「勝ち組」に居残る方法を伝授します! と呼びかけているようにさえ思えてしまう。
冒頭の文の訴えかけ、「ぼくたち」との呼びかけは、飼い馴らされていない仔羊ーー来るべきエゴイストたちーーに向けられたものとしてしか有効でない。
この時代をたくみに泳いでいくためには、東浩紀明神に従うべきである! それが仔羊たちにとっての最高の使命である!!
すなわち新自由主義というイデオロギーと共に考えるべきである!
けっして反自由主義的な様式で行動してはならぬ!
我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ポール・バーハウ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした Neoliberalism has brought out the worst in us"」Guardian(2014.09.29))
この時代をたくみに泳いでいくためには、東浩紀明神に従うべきである! それが仔羊たちにとっての最高の使命である!!
すなわち新自由主義というイデオロギーと共に考えるべきである!
世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)
けっして反自由主義的な様式で行動してはならぬ!
反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。(ニーチェ『反時代的考察』)
東浩紀に倣って「現実主義者」として生き抜くべきである!
さらに言えば、冒頭の文は雑誌経営者の販促言説として以外にどう捉えられよう?
もちろん、詩や、小説や、旅行記を書き綴ることがその主要な関心からそれていったりはしなかったが、それにもまして彼が心を傾けていたのは、作品をいかに世間に流通させるかという点にあった。つまりマクシムは、新しく刊行される文芸雑誌の責任者の一人として、当時の文学的環境にとってはまだ未知のものであった幾つかの名前を、集中的に売りだそうとしていたのである。つまりマクシムは、雑誌編集者に仮装することで文学との関わりを持とうとしており、それが成功するか否かが、彼にとって最大の関心事だったのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
もちろん雑誌編集者の主眼が、 《それが成功するか否かが、彼にとって最大の関心事》であってなんの悪いこともない!
ただ雑誌編集者は批評家ではまったくないことである。
「ぼくたちは、もういちど批評という病を取り戻さねばならない」だって?
いやあすばらしい、なんという「美しい」反語! 事実、彼とともに「批評の死」への追い打ちをかけるべきである!! それが健康になるための方法である!!! 仔羊たちは東浩紀に従い、「最悪の嘘」・「自己欺瞞」に専念すべきである!!!!
蓮實重彦)なぜ書くのか。私はブランショのように、「死ぬために書く」などとは言えませんが、少なくとも発信しないために書いてきました。 マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表象の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。私は彼らの後継者を自認するほど自惚れてはいませんが、この動物的な「愚鈍さ」の側に立つことで、何か書けばその意味が伝わるという、言語の表象=代行性(リプレゼンテーション)に対する軽薄な盲信には逆らいたい。
浅田彰) …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。
蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。
――中央公論 2010年1 月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰)
いやあシツレイ! ちょっとした「一見」営業妨害記事を書いてしまった。でもアタシの真意は「ゲンロン」万歳である!!
だらだら批評が死んでいくよりも、批評の息の根をたちまちとめたほうがマシである!!!
何も起きないよりも、厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre (バディウーー踏み越え、あるいは侵犯(transgression))
いやあ、またまたシツレイ千万!! バディウなど引用してしまった、《バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だ。》(メディ・ベラ・カセム)
いずれにせよ、最も重要なことは、「ぼくたち」の問いが、「ぼくたち」自身の説明できない所与の環境のなかで与えられていることをすっかり忘れることである! ボクたちが新自由主義の奴隷であることを無視してーー釈迦の掌の猿としてーー「批評」活動に邁進することである!!
ゲンロン、バンザイ!!!
ゲンロン、バンザイ!!!
もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)
…………
あなたにとって「現実主義」とは何か? という質問があったのでここに付記しておく。
・「現実主義者」とは既存の体制が永遠に続くと思いこんでいる最悪の夢想家のこと。
・既存の体制内で「善い」選択を模索しようとする者。
要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant PDF)
・既存の体制のバイブルをひたすら信奉する者。
以下、米国で広く読まれている新自由主義の「バイブル」から。
お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)
――もちろんこのリアリストはある意味、ひどく「正しい」。