2017年4月30日日曜日

最も基本的なところから始めよう



ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

(ジジェク2012版、性別化の式と四つの言説統合)

 …………

ジジェクが2012年にようやく提示した前期ウィトゲンシュタイン/後期ウィトゲンシュタインを、柄谷行人は1986年に既に提示している。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』第四章「世界の境界」PP.69-70, 1986年)
現代数学は、集合論と記号論理学によって、全数学領域を統一的に基礎づけることができるというたてまえに立っている。実際には、集合論のパラドックスからはじまり、ゲーデルの証明によってとどめをさされたように、それは不可能なのだ。むろん、このような“基礎論”は、実践的な数学者=発明家にとっては無関係である。ある数学者はいっている。《われわれは、ウィークデーはプラトニストであり、日曜日に形式主義者となる》(デイヴィス、ハーシュ共著「数学的経験」)。

ウィトゲンシュタインは、そのようなあいまいさを批判したりはしないだろう。新手を生みだす模士が、碁盤のなかに“真理”が隠れていると信じていたとしても構わないように。ウィトゲンシュタインが批判するのは、現にある数学のさまざまな証明体系の“背後”に基礎的なものがあるという考えである。これは、日常言語の“背後”に、より基礎的な言語があるという考えと同じなのだが。

数学をさまざまなゲーム(規則体系)とみなしたとき、それらに通底するものはないのだろうか? この問いは、言語をさまざまな言語ゲームとしてみるとき、「言語ゲームにとって本質的なものは何か、したがって言語の本質は何か」という問いにいいかえられる。それに対して、ウィトゲンシュタインは、次のようにいっている。

《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)

この類似性は、「家族的類似性」とよばれている。それは、「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」である。

わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけるとこができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じような重なり合い、交差し合っているからである。----だから、わたくしは、「ゲーム」が一つの家族を形成している、と言おう。

同様にして、たとえば数の種類も一家族を形成している。なぜわれわれはあるものを「数」と呼ぶのか。おそらくそれが、これまで数と呼ばれてきた多くのものと一つのーー直接的なーー連関をもっているからである。そして、そのことによって、それはわれわれもまたそのように呼ぶ他のものとの間接的な連関をもつようになる、と言うことができる。そして、われわれは、ちょうど一本の糸をつむぐのに繊維と繊維をよりあわせていくように、数というわれわれの概念を拡張していくのである。しかも、糸の強さは、ある一本の繊維が糸全体の長さをつらぬいているという点にあるのではなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているという点にあるのである。(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」)

この「家族的類似性」は、右の例では、数学が多数体系的であること、したがって、たとえば「数とは何か」を本質的に定義することはでいないということを意味している。むろん、このことは、言語ゲーム一般についてもいえる(数学も言語ゲームの一部である)。言語ゲームは、むしろ「言語とは何か」という本質的な問いをしりぞけるものなのである。なぜなら、その問いは、言語ゲームの多様性を切りすててしまおうとするからだ。

すでに第四章で示唆したように、「家族的類似」の問題は、社会的な過程(共同体と共同体の間の交換)のなかで、けっして、共通の本質、あるいは、通約不可能性が見出されないこととつながっている。マルクスは、商品の相対的価値表現の連鎖体系を「拡大された価値形態」とよんでいる。そこには、家族的類似と同様に、ついに中心あるいは本質が見当たらない。マルクスは、その「欠陥」について次のようにいう。

《第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が他のそれを、それからそれへとつないでいく連鎖は、ひきつづいてつねに新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たな商品種にひきのばされる。》(「資本論」)

したがって、マルクスは、一般的価値形態または貨幣形態、すなわち中心としての一商品が等価形態の位置を排他的に独占する形態の不可避性を説く。だが、この「欠陥」は、実はそんことによって解消されはしない。なぜなら、それこそが「社会的過程」だからである。逆に、貨幣形態は、すべての商品に共通の本質があるかのような仮象を与え、また無制限に連鎖して交叉するものを閉じられた一体系のように考えさせる。

ウィトゲンシュタインが家族的類似を強調するのは、事物の本質あるいは原理を問う哲学が、貨幣形態と同様に、われわれのコミュニケーション(交換)の、“社会性”を隠蔽してしまうからである。「言葉の意味はその用法である」というウィトゲンシュタインの言葉は、プラグマティックな意味で理解されてはならない。それは、内的な意味(私的言語)から出発するかわりに、《他者》との交換というレベルに立ちまどるべきことを主張しているのである。日常言語学派とちがって、彼の認識は“倫理的”である。(柄谷行人『探求Ⅰ』「家族的類似性」pp.144-148)

この記述がより簡明に『トランスクリティーク』2001にて現れる。

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(同トランスクリティーク P112)

…………

次に柄谷行人の1978年の論から。

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』p.26、1978年)
根源にあるのは、使用価値(シニフィアン)と使用価値(シニフィアン)の任意の関係にほかならない。価値形態とは、いわば形象的な言語である。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』p.35)

ここで言われていることは、ラカンの次の文と相同的である。

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

この柄谷=ラカンは、次の文を読めばいっそう鮮明になる。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異 的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

ラカンの次の文とともに読んでみよう。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないこ とである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

また柄谷の言う《自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》と は、次のジュパンチッチの文の「非全体」にかかわる説明と等価である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状 況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的 な「無‐関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さっ た「逸脱する過剰 wandering excess」である。すなわち、表象は、「過剰なものへの無限の 滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象され ない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰であ る。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさ に裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ2004“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

ラカン自身の叙述を掲げよう。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフ ィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表 象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな 残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピー として現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

主体 $ とはマルクスの使用価値と等価である。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成して いるのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々) は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、 最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。 そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典 型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立 した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。 ………シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在 の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物 の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つ のシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。す なわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を 表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反 対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在 を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通し てのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主 体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。 (ジジェク『為すところを知らざれ ばなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991年、私訳)

…………

※付記

上に引用した次の文を再掲する。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

これと相同的な表現は、『隠喩としての建築』(木村敏を引用しつつ)にも現れる。

……さらに厳密に言うならば、自己がそれ自体差異化の構造であるといい、自己と自己ならざるものとの分離が単純に自己の場で遂行されるというのは十分に正確ではない。というのは、自己とは決してこの分離に先立ってあらかじめ与えられているものではないからである。……(木村敏『自己・あいだ・分裂病』)
――木村敏のいっている「差異化」は、われわれの考えでは、ある差異的なシステムそれ自体への差異化、つまり自己言及・自己関係化にほかならない。そして、それが自己言及的なシステムであるからには、いわば地と図をはっきりと決定することはできない。(柄谷行人『隠喩としての建築』pp.73-74)


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