以下、ララングの文献集だがまず前段である。
◼️言語=象徴界は存在しない。ただララングだけがある |
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私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。 il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977) |
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象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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ーー「存在しない」とは仮象だということである。すなわち「言語=象徴界は仮象である」。 |
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「仮象の」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんに嘘によって仮象の世界に付け加えられたにすぎない…[Die »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzu-gelogen... ](ニーチェ『偶像の黄昏』「哲学における「理性Vernunft」」 1888年) |
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仮象はシニフィアン自体のことである![ Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン、S18, 13 Janvier 1971) |
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言説自体、常に仮象の言説である。le discours, comme tel, est toujours discours du semblant (ラカン、S19、21 Juin 1972) |
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ラカンの言語[discours]とは社会的結びつき[lien social]という意味であり、フロイトの「愛の結びつき」に起源がある。 |
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愛の結びつき(当たり障りのない言い方をすれば感情的結びつき)[daß Liebesbeziehungen (indifferent ausgedrückt: Gefühlsbindungen)](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
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今、リーベを「愛」と訳したが、リーベは通念としての愛よりも大きな概念である。 |
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フロイトのリーベ[Liebe]は、(ラカンの)愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない。il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999) |
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ーー「社会的結びつき=リーベの結びつきは仮象である」となる。 ……………
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ここでラカンのリアルな症状としてのサントームについて簡単に示す。 |
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30. Nov.1974) |
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975) |
症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008) |
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008) |
症状は現実界について書かれることを止めない(反復強迫) le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974) |
このリアルな症状がサントームである。 |
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011) |
サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要) |
サントームという享楽自体 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008) |
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享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […] de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011) |
ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011) |
ーーラカンのトラウマ=穴とは通念としてのトラウマより広い意味をもっており、成人言語では翻訳不可能な身体的なものということである。 |
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009) |
サントームという身体の上への刻印は、通常、乳幼児の最初の世話役によってなされ、その意味で「サントームは母の名」と呼ぶことができる。これはララングも同様である。 |
身体の上の、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(Miller, Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP、2012) |
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さてララングに戻る。 |
◼️ララング=言葉のモノ性=穴を為すララング |
ラカンは言語の二重の価値を語っている。実体のない意味媒体と言葉のモノ性(=ララング)の二つである。Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Parler lalangue du corps, 2016) |
肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマの谺を見出す。…サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽に帰着する。 le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu.[…] Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016) |
◼️喃語(≒ララング)というモノとしての言葉 |
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収) |
母の言葉は出生後だけではなく母胎内で既に刻印されているのである。 |
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収) |
少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
◼️ララングは固有名の核である |
ララングは固有名の核である lalangue is a nucleus of proper names (Bernard Nomine、Three of four things about the Father and the knot, 2013) |
◼️固有名≒ S(Ⱥ)=サントームΣ |
固有名は、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)と近似性があり、言語外にあるLe nom propre a des affinités avec ce signifiant de l'Autre barré [S(Ⱥ)]qui serait hors langue. (J.- A. Miller, De la nature des semblants, 27 NOVEMBRE 1991) |
我々がラカンから得る最後の記述は、シグマΣ、サントームのシグマである。シグマとしてのS(Ⱥ) と記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。それは、現実界の審級としての享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外に立つことである。la dernière écriture que nous avons de lui, pour ce terme, c'est sigma, le sigma du sinthome, parce que écrire grand S de grand A barré comme sigma, c'est lui donner position d'ex-sistence par rapport au sens, c'est isoler la jouissance comme de l'ordre du réel, c'est-à--dire ex-sistant au sens (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
ーーS(Ⱥ) とは穴のシニフィアン、トラウマのシニフィアンということであり、フロイト用語ならエスの境界表象である(参照)。 ◼️ 言語における固有名の外部性 |
固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である…それは一つの差異体系(ラング)に吸収されないのである…言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味する。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年) |
◼️詩とララング |
私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.(Lacan, AE572, 17 mai 1976) |
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. (Lacan, S24. 17 Mai 1977) |
ーー《詩は身体の共鳴が表現される。 la poésie, la résonance du corps s'exprime》(Lacan, S24, 19 Avril 1977) |
詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である。la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou. (Lacan, S24, 17 Mai 1977) |
詩の言葉は、分析主体の言葉と同様、「言語という意味の効果」と「ララングという意味外の享楽の効果」を結び繋ぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouis-sance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. (Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011) |
ーー享楽とは穴であり、ソレールの言う「ララングという意味外の享楽の効果」とは「ララングという穴の効果」と言い換えうる。 |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
◼️ララングという精神分析の基盤 |
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最終的に、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]。ミレールは厳しくララングと言語を区別した。主体の享楽の審級にあるのは言語ではなくララングだと[ce n'est pas le langage qui met en ordre la jouissance du sujet, mais lalangue]。たとえばミシェル・レリスの « …reusement »である。ミレールはこのレリスの事例を何度も注釈している。これを通して、精神分析は言語のモノ性[motérialité]を見出だす。ある言葉との出会いの偶然性があるとき、《一者の身体の孤独における享楽を引き出す[retirent la jouissance dans la solitude du Un-corps]》。そして知の外部の場に位置付けられたその場を《人は何も知らない[où on n'en sait rien] 》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen 「一般化フェティシズムの時代の精神分析 PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」2010年) |
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ーーミシェル・レリスのトラウマ的ララングは「私は真のフェティシズムを愛している」の末尾参照。 |
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ゲガーンの文に《一者の身体の孤独 における享楽 la jouissance dans la solitude du Un-corps]》とあったが、次のミレールとともに読むことができる。 |
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享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ。la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011) |
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私は、一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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《常に同じ場処に回帰する》とある。確認しておこう。
◼️「鼻のつや」というララング |
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フロイトの鼻のつやは、対象選択の条件を支配するオペレーターであり、ララングの要素である。« brillant sur le nez »,[...] c'est-à-dire l'opérateur qui préside à la condition de choix d'objet, est réduit à un élément de lalangue, (Pierre-Gilles Guéguen, PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ ,2010) |
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「鼻のつや」がある女性のみに魅惑される男の事例。これはララングを構成する機能にかかわり、ラカンが無意識のリアルと言ったものに相当する。 « brillant sur le nez». [...] la fonction constituante de lalangue [...]ce que Lacan dit du réel de l'inconscient (Colette Soler, La répétition provoquée 2010、摘要) |
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ーーフロイトの鼻のつやの記述については「鼻のつやという愛の条件」を参照。 鼻のつやというララングは一般化して言えば、幼児期の愛の固着である。 |
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初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.](Freud, Eine Teufelsneurose im siebzehnten Jahrhundert, 1923) |
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われわれは、成人の性的異常ーー倒錯、フェティシズム、性対象倒錯ーーがあるときには常に、幼児期の固着をもたらす出来事の発見を記憶調査を通して当然予想する。wo wir beim Erwachsenen eine sexuelle Abirrung –; Perversion, Fetischismus, Inversion –; vorfinden, da erwarten wir mit Recht, ein solches fixierendes Ereignis der Kinderzeit durch anamnestische Erforschung aufzudecken. (フロイト『子供が叩かれる』第2章、1919年) |
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愛の固着の別名は享楽の固着である。 |
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フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000) |
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ラカン派ではフロイトの「愛の条件 Liebesbedingungen」という語彙もしばしば使われる。ーー《愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]》( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年) |
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愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
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忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour (Lacan, S9, 21 Mars 1962) |
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愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……愛の彼岸にある残滓としての何ものか、ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。 Moralité de cette métaphysique de l'amour… l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour … ce qui s'appelle aimer,[…] ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour, je le transfère sur le corps de l'autre. (ラカン, S9, 21 Février 1962) |
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ーーここにフロイトの自体性愛、ラカンの自己身体の享楽=享楽自体がある(参照:去勢された自己身体ーー自体性愛文献)。
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リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974) |
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。 Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos. (ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980) |
享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |