2019年8月20日火曜日

男女の愛の基本構造図

以下、フロイト・ラカン派における男女の愛の基本構造図である。






標準的には左側の底部からの流れが男性であり、右側が女性である。

あくまで基本構造図であり、例外はいくらでもある。たとえば父との同一化も母との同一化もおこらない場合もある(前エディプス的主体のすくなくとも一部はそうでありうる)。その場合、原ナルシシズムとしての母への愛がたぶん生涯続く。

以下、この図の拠ってきたる文献である。上の基本図の内容といくらか齟齬がある引用もあるが、ここでは最も簡略化した図を掲げた。


◼️原ナルシシズム
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


◼️父との同一化・母との同一化
父との同一化とは、自らを父の場に置くことである。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
女性の母との同一化 Mutteridentifizierung は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期 präödipale の相、すなわち母への愛着 zärtlichen Bindung an die Mutterと母をモデルとすること。そして、②エディプスコンプレックス Ödipuskomplex から来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」、1933年)
単純な場合、男児では次のように形成されてゆく。非常に幼い時期に、母にたいする対象備給 Mutter eine Objektbesetzung がはじまり、対象備給は哺乳を出発点とし、依存型 Anlehnungstypus の対象選択の原型を示す一方、男児は同一化 Identifizierung によって父をわがものとする。この二つの関係はしばらく並存するが、のちに母への性的願望 sexuellen Wünsche がつよくなって、父がこの願望の妨害者であることをみとめるにおよんで、エディプス・コンプレクスを生ずる。ここで父との同一化 Vateridentifizierung は、敵意の調子をおびるようになる、母にたいする父の位置を占めるために、父を除外したいという願望にかわる。そののち、父との関係はアンビヴァレントになる。最初から同一化の中にふくまれるアンビヴァレントは顕著になったようにみえる。この父にたいするアンビヴァレントな態度と母を単なる愛情の対象として得ようとする努力が、男児のもつ単純で積極的なエディプス・コンプレクスの内容になるのである。

エディプス・コンプレクスが崩壊するときには、母の対象備給 Objektbesetzung der Mutter が放棄(止揚 aufgegeben)されなければならない。そしてそうなるためには二通りの道がありうる。すなわち、母との同一化 Identifizierung mit der Mutter か父との同一化の強化 Verstärkung der Vateridentifizierung のいずれかである。後者の結末を、われわれはふつう正常なものとみなしている。これは、母にたいする愛情の関係をある程度までたもつことをゆるす。(フロイト『自我とエス』1923年)


◼️自己愛あるいは二次ナルシシズム
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus)である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

巷間でしばしば語られる「女性の愛は関係性を求める」の真意は、事実上、自己愛のことだ、とわたくしは考える。

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

ここでのナルシシズム(自己愛)は、ラカン派の表現なら被愛マニアである。


男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛マニア形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛マニア的です[Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)




◼️代理人物
男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。

女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)
精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.…

我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。…

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年)

…………

※付記

◼️男性の同性愛
男性の同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。…

われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)
男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
男性の同性愛の発生は、多くの事例において、次のようになる。少年は、エディプスコンプレックスの意味において、長いあいだつよく母に固着 Mutter fixiert している。けれども思春期の終了後、ついに母を他の性的対象 Sexualobjekt と取りかえる時期がくる。

そのさい、突然の方向転換が起こる。少年は母を捨てないで verläßt nicht 自分を母と同一化 identifiziertして、彼女の中に自分を転化してwandelt 、いまや彼の自我の代理となるような対象を求め、その対象を彼が母から経験してように愛し慈しむ lieben und pflegen のである。

これは、しばしば起こる過程であって、時に応じて、たしかめることができる。この過程は、突然の方向転換をひきおこす生物学的衝動力 organische Triebkraftや、その動機に関するどんな仮説とも関係なく起こるのである。

この同一化で目立つことは、その豊かさAusgiebigkeitである。自我を、きわめて重要な特徴höchst wichtigen Stückをもったもの、つまり性的性質 Sexualcharakter をもったものに、これまでの対象(母)を手本Vorbildにしてつくりかえる。そのさい対象そのものは放棄されるaufgegeben が、徹底的に放棄されるのか、それとも無意識には保たれているという意味で棄てられるのか、それはここでは議論しない。放棄された対象あるいは喪われた対象 aufgegebenen oder verlorenen Objektの かわりに、その対象を自我に取り入れることIntrojektionは、けっして珍しいことではない。このような過程は小児について直接に観察される。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)

男性の同性愛者は、上にあるフロイトの観点では、「母との同一化」による自己愛という相において、標準的な女性における「母との同一化」と同じ構造をもっている。この構造的観点からは、男性の同性愛者はマジョリティである。

以下、上の文と類似した記述だが、最後にいくらか異なった視点が示されているので引用しておこう。

同性愛。同性愛の器質的要因を認めたとしても、同性愛が成り立つときの心的過程を研究する努めをまぬかれたことにはならない。すでに無数の症例で確認された定型的過程はこうである。これまで固く母に固着 Mutter fixierteしていた 少年が、思春期をすぎて二三年後に方向転換をして自らを母と同一化 Mutter identifiziertし、そして愛の対象をさがし求めるが、その対象のうちに自分自身を再発見し、かつて母が彼を愛したようにその対象を愛するようになる、ということである。この過程の特徴として、彼が方向転換をした年頃とおなじ年頃の男性の対象をもつことになる。この性愛の条件 Liebesbedingung がふつうは長い年月つづく。

こういう結果になるには、さまざまな要因があって、それがいろいろな強さで作用することが分かっている。まず最初に母への固着 Mutterfixierung があって、これが他の女性対象Weibobjektへ移りゆくのを妨げる。母との同一化 Identifizierung mit der Mutter は、母との対象結合 Objektbindung の終末 Ausgang であるとともに、この最初の対象にたいしてある意味で忠誠をまもることを可能にしている。ついで自己愛的対象選択 narzißtischen Objektwahlの傾向がくるが、これは一般に異性へ向きを変えるよりは手近であるし実現もしやすい。こうなる契機の背後には他のもっと強力なものが隠れているか、または重複している。それは男性の性器をたかく評価することであり、愛の対象にそれのないことを諦められないことである。女性軽視、女性嫌悪、さらに女性憎悪 Die Geringschätzung des Weibes, die Abneigung gegen dasselbe, ja der Abscheu vor ihm も、女性はペニスをもたないという幼時に見つけた発見につながるものである。

後になってわれわれは、同性愛的な対象選択の有力な動機として、父への配慮や父にたいする不安があるのを知った。女性への愛を諦めることは、父(または彼が出会うすべての男性)との競争を避けるという意味があるからである。ペニスがあるという条件Penisbedingungの固執と男との競争の回避と、この二つの動機は去勢コンプレクスにかぞえられよう。母との結びつきMutterbindung――ナルシシズムNarzißmus――去勢不安 Kastrationsangst、このなんら特別のことのない契機を、これまでわれわれは同性愛の心理的な病因のうちに見出してきたが、これに加えて早期のリビドー固着 Fixierung der Libido をもたらす誘惑 Verführung の影響があり、また性愛生活 Liebesleben において受身の役割 passive Rolleを助長する器質的な要因がある。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

女性の同性愛については(わたくしの知りうる限り)とくに目立った記述はない。おそらく原初の愛の対象である女性の性への愛を維持しているせいだろう。

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm、2009)
問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。

この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)
「大他者L'Autre」とは、私のここでの用語遣いでは、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。(ラカン、S20, 16 Janvier 1973 )

ここで冒頭の図といくらか異なった図を示すために、ポール・バーハウ1998を掲げよう。

男/息子は、彼の愛の原対象(母-女の性)を維持できる。娘にとっても、母は最初の唯一の愛の対象である。娘が父へと移行するのは、第二ステージでしかない。この移行はたんなる置き換えである。父が前景に現れるとしても、母の像はつねに背景にある。

この理由で、レスビアン関係はゲイ関係とは直接的な共通点はない。母子関係という最初期の経験の結果として、女性ははるかに容易にバイセクシャルのポジションを受け入れる。彼女はすでに愛の対象として両性を選択している。一方の性から他方の性への移行がある。

反対に、男性にとっての同性愛の選択は、はるかに大きな一歩を踏み出す必要がある。この大きな一歩により、後の生においての性の対象選択の裏返しは容易ではない。

少女にとって、母は最初の愛の対象であり、この対象は父と交換されるという事実が意味するのは、父は少女にとって「二次的選択」だということである。結果として引き続くどんなパートナーも少なくとも「三次的選択」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年)



ーー「エディプスの斜陽」の現在、男の愛の側にも「自己愛」が付記できるかもしれないが、ここでは女の愛の側にだけにその語を挿入した。



◼️原初に喪われた対象
永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


■自己愛補足
愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、……《私マジネール [i-maginaire]》…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)



………

最近、ミレール 派(フロイト大義派)の女流分析家が、次のような指摘をしているのを拾ったので、付け加えておこう。

父の隠喩は母を女に変える。La métaphore paternelle transforme la mère en femme…

(隠喩なき)父の機能は(隠喩とは反対に)女を母にするように見える。La fonction paternelle semble alors faire (contrairement à la métaphore) d’une femme une mère. (Sylvette PERAZZI , LES TROIS PERES ou la fonction paternelle, 2019)

これは、家父長制(父の名)が崩壊すれば、父の隠喩が機能しなくなり(母を女に変えることがなくなり)、すべての女は母としてのみ機能することを示している。

そもそもラカン自身、《父の蒸発 évaporation du père 》(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)を宣言した後、既にこう言っている。

quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
男は女なんかに興味ない、母をもっていなかったら。un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)

もっとも日本のような非一神教社会では、事実上、かねてからこうであったと言いうるかもしれない。

一切女人是我母(一切の女人これ我が母なり)(弘法大師空海『教王経開題』)