2023年10月9日月曜日

柄谷行人の「括弧入れ」

 

以下、柄谷行人『トランスクリティーク ーーカントとマルクスーー』第一部・第3章「Transcritique」より。


ここであらためて、カントの芸術論について述べてみる。カント以前の古典主義者は、芸術性が客観的な形態にあると考えており、カント以後のロマン主義者は芸術性が主観的感情にあると考えた。しばしば、カントはロマン主義の先行者と見なされるが、実際には、彼はその二つの「間」で考えたのである。それは彼が経験論者と合理論者の「間」で考えたというのとまったく同じである。むろん、彼はそれらを折衷したのではない。彼は、認識を認識たらしめる根拠を問うたように、芸術を芸術たらしめる根拠を問うたのだ。あるものが芸術であるか否かは、それに対する他の関心を括弧に入れることによってのみ決まる。それが自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がない。それらに対する通常の諸関心を括弧に入れて見るということ、そのような態度変更が或る物を芸術たらしめるのだ。カントの美学が主観的だというのは、ある意味で正しい。しかし、それはロマン派的な主観性とは違っている。カントにおける主観性は、超越論的な括弧入れを行う「意志」なのだ。古典主義美学やロマン主義美学が古くさくなっても、カントの「批判」は少しも古びていない。たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポンとは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。


カントが美的判断に関して考えたこれらの事柄は、実際は第三の「批判」として最後に書かれたにもかかわらず、科学認識と道徳に関する彼の考察に先立って存在したといわねばならない。というのは、以上の二つのポイントは、たんに美学に固有の問題ではなく、あらゆる領域に通底するからである。あらゆる領域、と私はいったが、そもそもカントが提起したのは、「領域」そのものが超越論的還元(括弧入れ)によって存在するということである。彼は一方で、芸術性が客観的な対象にあることを疑い、他方でそれが主観性(感情)にあることを疑っている。彼がもたらす主観性は、むしろこの疑いにあり、それはたえず規範化される芸術を、芸術たらしめる原初の場に戻すのだ。カントが認めないのは、美的領域が、客観的であれ主観的であれ、それ自体で存在するという考えである。


近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに存在する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。重要なのは、ほかならぬ道徳に関してもそういえるということである。道徳的領域はそれ自体で存在するのではない、われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。その時にのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。しかし、それになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまう。道徳的領域に関しても同じである。


道徳は客観的に存在するかのように見える。しかし、そのような道徳はいわば共同体の道徳である。そこでは、道徳的規範は個々人に対して超越的である。もう一つの観点は、道徳を個人の幸福や利益から考える見方である。前者は合理論的で、後者は経験論的であるが、いずれも「他律的」である。カントはここでもそれらの「間」に立ち、道徳を道徳たらしめるものを超越論的に扱う。いいかえれば、彼は道徳的領域を、共同体の規則や個人の感情・利害を括弧に入れることによってとりだすのだ。


カントが道徳は快・不快の感情や幸福によって基礎づけられないというのは、そもそも彼のいう道徳が後者を括弧に入れて見出だされたものだからである。念のためにいうが、それは道徳に快・不快の感情が伴うということを否定するものではないし、また道徳がそれらを否定してしまうものでもない。括弧に入れることは否定することではないからだ。カントはむしろ他の次元を犠牲にする厳格な道徳家を否定している。彼にとって、道徳は善悪よりもむしろ「自由」の問題である。自由なくして、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自発的であること、主体的であることと同義である。しかし、そのような自由がありうるだろうか。『純粋理性批判』で、カントは次のようなアンチノミーを提示する。


正命題――自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。

反対命題――およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。(『純粋理性批判』)中、同前)



この反対命題は、近代科学の因果性ではなく、スピノザ的な決定論を意味していると見るべきである。スピノザの考えでは、すべてが必然的に決定されているが、因果性があまり複雑であるために、われわれは自由や偶然を措定してしまうにすぎない。カントはこの命題を承認する。すなわち、われわれが自由意志だと思うことは、さまざまな因果性によって決定されているのだということを。《私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないとかんがえてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列――すなわち〈a parte priori(その前にあるものから)〉つぎつぎに連続する系列をひたすら追ていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである》(『実践理性批判』波多野精一他訳、岩波文庫)。


しかし、他方で彼は、人間の行為の自由をいう正命題を承認する。そして、つぎのように述べている。


例えば、或る人が悪意のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根源まで突きとめてみる、そしてその根源を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生まれ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘らず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或いはまたそればかりでなく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである。即ち――この行為者の以前の行状がどうあろうと、それは度外視してよろしい、――過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、ーー要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったとみなすのである。(『純粋理性批判』中、同前) 



ここで注目すべきなのは、カントが、行為の自由を、事前にではなく、事後的に見ていることだ。事前において、自由はない。確かにカントは「自らの格率が普遍的な法則に合致するように行動せよ」と述べた。ここから、カントの倫理学は主観的なものだという批判、動機の純粋のみを重視してその結果を省みないという批判が出てくる。しかし、カントが「私は私が行為する時点において決して自由ではない」というアンチテーゼを保持していることを忘れてはならない。たしかに、カントは、「自らの格率が普遍的な法則に合致するように行動せよ」といったが、そのように思うことと実際に行動することとは別の話である。ウィトゲンシュタインは「規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない」といった(『哲学探究』)。われわれは、そのつもりでいても違ったことをやってしまうし、意志したことがそのとおり実現されることなどめったにない。だが、その場合でも、われわれがそのことに責任をもつのは、現実に自由ではなくても、自由であったかのように見なす時である。カントが「行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい」というのは、そのことを意味する。たとえば、われわれはそれが罪であることを知らずにやってしまうことがある。では、無知ならば責任はないのか。事後的にそれを知りうる能力をもつ者であるならば、責任があるといわねばならない。


カントは先に引用した第三アンチノミーとして知られる、相反する二つの命題についてそれらはともに両立するという。世界に始まりがあるか否かといった説がアンチノミーによっていずれも虚偽であることが示されるのに対して、なぜこの第三アンチノミーにおいては両方の説が共に成立するのか。そのことは「括弧入れ」を考えれば、別に難解ではない。正命題は、自然的因果性を括弧に入れて行為を見ることであり、反対命題は人々が自由だと思うことを括弧に入れて行為の因果性を見ることだ。だから、それらは両立しうるのである。われわれは前者を「実践的」立場、後者を「理論的」立場と呼ぶことにしよう。理論的領域と実践的領域がそれ自体としてあるのではない。それらは、理論的あるいは実践的立場によって存在するのだ。


『純粋理性批判』は、「理論的」な立場において、自己や主体や自由を証明する議論を形而上学として論駁することを目指している。一方、『実践理性批判』は、自然必然性が括弧に入れられた位相において、自己・主体・自由がいかにしてあるかを問うものである。実際には、われわれは行為において様々な選択をすることができる。それがどこまで自然必然性によって強いられているのかわからない。その結果、ある程度原因による決定を認め、ある程度自由意志を認めることになる。たとえば、ここに一人の犯罪者がいる。彼の犯罪にはさまざまな原因――社会的なものもふくめて――がある。それらの原因を数え上げていけば、彼は自由な主体ではなく、したがって、責任はないということになるだろう。人々はそのような弁護・弁明に憤激し、その犯罪者に選択の自由があったはずだと考える。即ち、人間がさまざまな因果性に規定されていることを認め、他方で自由な意志を認めるというのが常識的な考えである。


しかし、カントはそのような中途半端な考え方を斥けている。むしろ、われわれは自由意志などないと考えなければならない。われわれが自由な選択だと考えるものは、原因に規定されていることが十分にわからないからにすぎない。そう考えたとき、はじめて、「自由」はいかに可能かということが問われるのだ。原因を問うという「理論的な」観点からは、自由も責任も出てこない。では、自由も責任もないのか。カントの考えでは、その犯罪者の自由と責任は、因果性を括弧に入れたときに生じる。彼に事実上自由はなかった。にもかかわらず、自由であるとみなさなければならない。これは「実践的な」観点である。


カントは、自由は義務(命令)に対する服従にあるといった。これは人を躓かせるポイントである。なぜなら、命令に従うことは自由に反するように見えるから。したがって、あとで述べるように、多くの批判がここに集中する。しかし、カントがこの義務を共同体が課す義務と見なしていないことは明白である。もし命令が共同体のものであるならば、それに従うことは他律的であり、自由ではないからだ。では、いかなる命令に従うことが自由なのか。それは「自由であれ」という命令である。そう考えると、この言葉になんら矛盾はない。カントがいう「当為であるがゆえに可能である」という言葉にも謎はない。それは、自由が「自由であれ」という義務以外のところから生じない(不可能である)という意味にすぎない。


しかし、この命令はどこからくるのか。それは共同体からではないし、神からでもない。(カントの)超越論的態度そのものから来るのである。超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術展に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的な視点そのものが一つの命令に促されているということが。そのことは、超越論的な視点そのものはどこから来るのかと問うときに、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。


この「自由であれ」という義務は、むしろ、他者を自由な存在として扱えという義務にほかならない。カントがいう道徳法則とは、「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず、つねに同時に目的(=自由な主体)として用いるように行為せよ」(『純粋理性批判』)ということである。だが、つぎのことに注意すべきであろう。それは他者の人格(主体)が人格としてあらわれるのは、このような「義務」によってのみであるということだ。理論的な態度においては、私の人格のみならず他者の人格も存在しない。私の人格と他者の人格(自由)が出現するのは、実践的な態度においてのみである。だから、カントの道徳法則は実践的であれということと同義である。


ところで、ここで自然必然的な因果性をもっと広く解釈してみよう。実際、カントが例にあげた犯罪者の行為の原因は、たんに個人的な情念ではなく、社会的なものである。マルクスはつぎのように書いている。


ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いてはいない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」、鈴木他訳、同前)


彼の「立場」は、社会的な構造を自然必然性としてみることである。ここでは「責任」が出てこない。だが、マルクスは、自然史的立場に立つことによって、すなわち、責任を括弧に入れることで、このような視点を獲得しているのだ。社会的な関係を「自然史的」過程として見るとき、彼は「理論的」態度をとったといってよい。これは、主観や責任の括弧入れであって、その否定ではない。マルクスは、「財産は盗みだ」というプルードンのように道徳的に語ることができたろうが、そうしなかった。『資本論』のマルクスは、このような「括弧入れ」を貫徹している。しかし、そのこと自体がマルクスの倫理性なのだ。したがって、マルクスの倫理学なるものを、『資本論』の外に求める必要はない。


同じことを、道徳について書いたカントについてもいわなければならない。カントの倫理性は、道徳論においてのみ見てはならない。理論的であることと同時に実践的であること、この超越論的な態度そのものが倫理的なのだ。われわれは、ここで、戦後のフランスで生じた実存主義、構造主義、ポスト構造主義という変遷を別の観点から見てみよう。たとえば、実存主義者(サルトル)は、人間が構造論的に規定されていることを認めながら、なお、自由があることを主張した。それはある意味で「実践的」観点である。一方、構造主義者が主体を疑いそれを構造の「効果」(結果)として見たとき、「理論的」な態度をとったのである。彼らがスピノザに遡行したのは無理もない。先に述べたように、カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考え――すべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだーーに帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただし、その原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。アルチュセールがスピノザに関して 「構造論的因果性」と呼んだものも、あるいは「重層的決定」(overdetermination) と呼んだものも、広い意味で決定論である。


だが、このような考えに驚くべきではない。それは一つの括弧入れによって生じる「理論的」立場に固有のものである。 実存主義と構造主義、あるいは主体と構造というかたちで問われた問題は、すこしも新しくない。それはカントが第三アンチノミーとして語った事柄の変奏にすぎない。構造主義的な視点に対して、主体を強調すること、あるいはそこに主体を見出そうとすることは無意味である。なぜなら、それを括弧に入れることによってのみ、構造論的決定論が見出されるのだから。逆に、構造論的な決定を括弧に入れた時点で、はじめて主体と責任の次元が出現する。ポスト構造主義者が道徳性を再導入しようとしたのは、当然である。しかし、それが何か新たな思想でもあるわけではない。実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす。カントが明らかにしたのは、この二つの姿勢を同時にもたねばならないということである。わかりやすくいえば、われわれは括弧に入れると同時に、括弧をはずすことを知っていなければならないのだ。

(柄谷行人『トランスクリティーク ーーカントとマルクスーー』第一部・第3章「Transcritique」P172~P184、2001年)