2019年5月20日月曜日

リトルネロとしての女性の享楽

以下、主にリトルネロとララング(母の言葉)をめぐる。


■カオスの留め金としてのリトルネロ
リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)


この文は、まず次のように図示できる。





この図は「父の名の過剰現前の真意」で示した次の図と相同的である。




欲動固着とは無意識のエスの自動反復である。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

欲動固着はリトルネロするのである。

1960年代のドゥルーズはこの自動反復を次のように叙述した。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

トラウマとはラカン語彙では穴である。《穴=トラウマ[troumatisme ]》(S21、1974)

この穴への固着により、人は「強制された運動の機械 machines à movement forcé」になる。

強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

くり返せば、Ⱥとは穴 trou であり、まさにドゥルーズ&ガタリのいうブラックホール trou noir を示す。そしてS (Ⱥ) とはブラックホールを飼い馴らす原シニフィアンである。前期ラカンはこの原シニフィアンを《母なるシニフィアン le signifiant maternel》(S5, 1958)と呼び、のちには《享楽の侵入の記念 commémore une irruption de la jouissance 》あるいは《刻印inscription》(S17、1970)と呼んだ。永続的な反復強迫を生むものとして《死への徴marqué pour la mort》ともしている。


・大他者の中の穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)

・Ⱥという穴 le trou de A barré……S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたはȺという穴 [trou de A barré [Ⱥ]]を支配するmaîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

したがって次の図を示しうる。




S(Ⱥ)とは、別の言い方をすれば、Ⱥーー《法なき現実界 réel sans loi》(ラカン、S23)ーーのクッションの綴じ目である。

「現実界は無法」の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/200
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)



■母の言葉としてのリトルネロ

ところで、リトルネロとはラカンにとってララングでもある。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

そしてこのララングとはサントームΣとほぼ等価である。

ララング  lalangueが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
詩の吐露 Le dire du poèmeは、…「言語の意味の効果 effets de sens du langage」と「ララングの意味外の享楽の効果 effets de jouissance hors sens de lalangue」を結び繋ぐ fait tenir ensemble。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome。(コレット・ソレール Colette Soler、Les affects lacaniens、 2011)

ーーこのコレット・ソレールの文は、《私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.》 (Lacan,17 mai 1976 AE572)に起源がある。

身体の上の、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(Miller, Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP、2012)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan」 LE LIEU ET LE LIEN 」2001)


すなわち lalangue≒S(Ⱥ)=Σであり、さきほどの図の横にこう示せる。




※Jouissance barré、すなわちなぜ享楽に斜線が引かれているのかは「父の名の過剰現前の真意」で比較的詳しく示した。



■リトルネロの多義性

さてここでもう一度冒頭の「リロルネロ ritournelle の三つの相」の文に戻ろう。

①カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。

②一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。

③この外観に逃げ道を接ぎ木 échappée sur cette allure して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。

①はまさしくサントームの基礎的な意味である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

だが②③はどうなのか? ーーこれこそ後期ラカンの「父の名」である。

最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

ドゥルーズ&ガタリは冒頭の文の直後、クレーに触れている。クレーのどの絵であるかは示していない。だがわたくしはあの文をクレーの次の絵とともに読むのを好む。

ブラックホールの逃げ道の外には女の足がある・・・

 

Error on green, 1939 by Paul Klee,


これこそ、父の名=サントーム=「père-version」(父の版の倒錯)である。

フェティッシュとしての見せかけsemblantは、ブラックホールを覆う機能があるのはよく知られている。

我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)
足は、不当にも欠けている女性のペニスの代理物である。Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes. (フロイト『性欲論』1905年)

これだけではおわかりにならない方のためにこうも引用しておこうか。トラウマ(穴)、固着等の用語が出てくるのだから。

我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な unheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される。

こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景 Anblick der Genitalbehaarungの固着 fixierenである。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。

とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間を結晶させているhalten。すなわち女性がファルスをもっている phallisch といまだ見なしうるあの最後の瞬間を捉えている。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

ーーいやあ、いまはこんなダイレクトな話をしているわけではない。ブラックホールに対する防衛としてのフェティッシュという「理論的な」話がしたいのである・・・

 話を戻さねばならない。ここでの問いは格調高いクレーである。あの父の名としてのサントーム、つまり接ぎ木こそ、固着としてのサントームと同一化しつつ距離をとることなのである。

接木? ああ西脇! 

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

ーーいやいやいまは格調高い話をしてるのである。

クレーとともに、原症状(サントーム)との同一化とそこから距離をとる「接木」の話である。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)



■リトルネロとしての女性の享楽

S(Ⱥ)とは、女性の享楽でもある。




私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout [Ⱥ]の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓(穴埋め) [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

ーー《S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.》(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


このS(Ⱥ)=Σ=l'objet petit a は、《骨象a[osbjet a]》とも言い換えられている。フロイトの固着である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


ここで誤解のないように次の文を示しておかねばならない。女性の享楽とはいまだ日本ではことごとく誤解されているのだから。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
純粋な身体の出来事 Σ としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



■リトルネロの永遠回帰

さてこうしてーー飛躍があるのはわかっているが、いまはリトルネロの話をしているのである。リトルネロとは「跳躍」であるーー次の三文を「ともに」読むことができる。

ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


こうも引用しておこう。

迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour (Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)
リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)
リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)


そして『千のプラトー』のなかの最も美しい文のひとつを。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれ esquisse d'un centre stableであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ calme, stabilisant et calmant, au sein du chaos。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる début d'ordre dans le chaos。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険 risque aussi de se disloquer à chaque instant もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)


■カオスの治療としてのリトルネロ

こうして《身体から湧き起こる内的カオス》に遭遇している者は、なによりもまずリトルネロを見出すべきであるという結論に達する。そしてそれはじつはどこにでもある。

超自我は我々の欲動ーー身体から湧き起こる内的カオスーーを支配する手助けをする。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

たとえば中上健次の「路地」。あれはサントームΣ=S(Ⱥ)であり、カオスの名付けである。《父の諸名 les Noms-du-père 、それは何かの物を名付ける nomment quelque chose という点での最初の諸名 les noms premiers のことである》(LACAN 、S22. 11 Mars 1975)

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)

もっともドゥルーズ&ガタリのいうように、《 歌(リトルネロ)はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ》ということは熟知しなくてはならない。





安定化のためには、リトルネロのフェティッシュ化が必要である。それが上に引用したラカンの《père-version(父の版の倒錯)》であり、DGの《échappée(逃げ道)》である。

そしてS(Ⱥ)とは実際のところは、ドゥルーズが嫌った超自我なのである。ドゥルーズは《制度的超自我 le surmoi institutionnel》の相ばかりを取り上げて批判してしまっているが。

超自我は我々の欲動ーー身体から湧き起こる内的カオスーーを支配する手助けをする。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

じつは「蚊居肢」とは「路地」のことである。穴の名づけとしての「父の名」=「父の版の倒錯」にかかわる《境界表象 Grenzvorstellung》である。いまだときにブラックホールに吸引されることもあるが、このシニフィアンを発明することにより(理論上)、悪癖ーーつまり西脇順三郎のいう《地獄へゆく昔の道》--への防衛として機能している筈なのである・・・もちろんたんなる老齢のせいであるという疑いもあるが。


スカートの内またねらふ藪蚊哉(荷風)

⋯⋯⋯⋯


■付記:魔女のメタサイコロジー

実は「父の版の倒錯」としてのサントームとは、ラカンがフロイトの「遺書」と呼んだ論文に現れる魔女のメタサイコロジーへの応答である。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologieである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)


ラカンは1976年にこう言った。

私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものだ j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…

サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン、S23、17 Février 1976)

そして1977年にはシニフィアンの発明としてのサントームを語った。

何はともあれ私が言っていることは、シニフィアンの発明 l'invention d'un signifiantは、記憶とは異なった何ものかであることだ。子供はシニフィアンを発明しない。受け取るだけである。…なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

とはいえ魔女のメタサイコロジーはやはりそれほど十全な効き目はない。したがって 死の二年前には次のように告白するのである。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。

La métaphore du nœud bor-roméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le sym-bolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'es-sentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser.(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979)


フロイトの記述によれば、原症状としての《欲動の根 Triebwurzel》あるいは欲動固着の作用は、器質的な相違も大きい。

ーー以下の文で神経症とされるのは、フロイトにとって全症状である。神経症には、精神神経症と現勢神経症があり、前者が言語内の症状、後者が身体(欲動の固着)の症状である。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)

したがって不幸にもラカン的な「魔女のメタサイコロジー」の効用がたいしてない人物もいるのである。

とはいえ、ラカンの分析治療における新しさ(フロイトにはないもの)は、治癒不能の原症状(下図の上段語彙群)に対して、フロイト的エディプスの父との同一化ではなく、「父の版の倒錯」を示したことである。





父の版の倒錯としてのサントーム。このサントーム sinthome は、聖人saint homme と同音である。さらには、聖トマス Saint Thomas とも。聖トマスとは、父キリストを信ぜず、独自の道を歩んだ者である。

日本におけるトラウマ研究のおそらく第一人者中井久夫は次のように語っていることを最後に示しておこう。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)

※参照:トラウマ定義集



2019年5月17日金曜日

トラウマ定義集

以下、主に中井久夫、フロイト、ラカン派におけるトラウマの定義である。私が気づいた範囲での、強く印象に残っている範囲での記述において、さらに重要だと思われるものを抽出列挙したということであり、もちろんこれがすべてではない。



■人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


 ■語りとしての自己史に統合されない「異物」
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物 Fremdkörper)(ラカン、S23、11 Mai 1976)


■「異物=外密=不気味なもの」の反復強迫
ラカンの外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物(異者としての身体 corps étranger) のようなものである。…外密はフロイトの不気味なもの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)



■トラウマへの固着の反復強迫(死の欲動)
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)


■現実界というトラウマの反復
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
現実界は…「穴=トラウマ(troumatisme )」をつくるfait。(ラカン、S21、19 Février 1974)


■サントーム=トラウマへの固着
症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


■リビドー固着(トラウマへの固着)=外傷神経症
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


■固着(原抑圧)=女というものの置き残し
原抑圧(固着)とは、現実界のなかに女というものを置き残すこと the leaving behind of The Woman in the Real として理解することができる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ、BEYOND GENDER、2001)
フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011)
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011)
ひとりの女はサントーム(固着)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
フロイトの「固着 Fixierung」とは「身体の上への刻印 inscription」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


フロイト・ラカン「固着」語彙群




■母の言葉(ララングlalangue )の永遠回帰
サントームは、母の言葉(ララング)に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
ララング lalangue が、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(Miller, Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP、2012)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)


■サントームの永遠回帰(反復強迫)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
症状(サントーム)は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームsinthomeは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


■構造的トラウマと事故的トラウマ
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なもの(異物)として、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)
心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen) から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


 ■人はみなトラウマ化されている
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. , Vie de Lacan、2010)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


■幼少の砌の傷の固着
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年)


⋯⋯⋯⋯


◼️治癒不能のサントーム=原抑圧
四番目の用語(サントーム=原症状)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


◼️治癒不能の不安神経症(初期フロイトの外傷神経症≒現勢神経症の原モデル)
不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)


※現勢神経症の下位分類としての不安神経症
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー Konversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症 Angstneurose と不安ヒステリー Angsthysterie とのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)


※現勢神経症≒外傷神経症
原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


■治癒不能の外傷神経症
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


⋯⋯⋯⋯

※付記


■強すぎる欲動と幼児期の外傷体験
すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)


■欲動要求の治療不能性 
「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)


■リビドー固着の残滓 
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


■事故的トラウマへの固着
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)

■病因的トラウマへの固着
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



2019年5月11日土曜日

フロイト版ボロメオの環








ーーラカンのボロメオの環の思考とはいくらか異なるが、フロイト版ボロメオの環としてはこのように考えられる。



■原抑圧 Urverdrängung=固着 Fixierung

冒頭の左図にあるエスと自我のあいだにある「抑圧」は、原抑圧=固着(欲動固着)である。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。
 
①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)



■超自我Überichと固着 FixierungとS(Ⱥ)

固着は超自我の別の名である。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
フロイトは欲動の昇華 sublimation de la pulsion について語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化 surmoïsation de la pulsion を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(エリック・ロラン、ジャック・アラン・ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


■自我理想I(A)と超自我S(Ⱥ)

欲動固着のマテームS(Ⱥ)は超自我のマテームでもある。


我々は象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(E.LAURENT,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)


■理想自我 i(a)

理想自我のマテームはi(a)である(参照:「理想自我と自我理想と超自我」文献)。

想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)


日本語版は次の通り。





くり返して強調しておけば、ラカンの観点とは厳密には異なる。

たとえばラカンは「自我」を次のポジションに置いている。



そして想像界の箇所は身体のイメージとなっている(すくなくともある時期のラカンにおいて)。












2019年5月9日木曜日

超自我注釈集

◼️母なる超自我S(Ⱥ)
母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)


◼️超自我S(Ⱥ)と自我理想I(A)
我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想 idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)






◼️父の死とS(Ⱥ)
神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin.

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)


◼️超自我の仮面としての父の名
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)



◼️父の名と超自我のコインの表裏
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 ⋯ comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)


◼️S(Ⱥ)=サントーム
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)


◼️欲動の昇華=欲動の超自我化
フロイトは欲動の昇華sublimation de la pulsionについて語った。そしてラカンとともに、欲動の超自我化surmoïsation de la pulsion,を語ることが可能である。超自我は欲動によって囚われた形式であるle surmoi est une forme prise par la pulsion。(エリック・ロラン、ジャック・アラン・ミレール 、E. LAURENT, J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96 )



◼️S(Ⱥ)=欲動のシンボル
S(Ⱥ)、すなわち、斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan、 LE LIEU ET LE LIEN 」2001)


◼️S(Ⱥ)=無法の現実界Ⱥの形式
「現実界は無法」(法なき現実界)の形式は、まさに正しくS(Ⱥ)と翻訳しうる。無法とは、Ⱥである。la formule le réel est sans loi est très bien traduite par grand S de A barré. Le sans loi, c'est le A barré. (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 13/04/2005)


◼️S (Ⱥ)=欲動のクッションの綴じ目
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


◼️超自我S(Ⱥ)=欲動の支配
S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré [Ⱥ]」を支配するmaîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
超自我は我々の欲動を支配する手助けをする Super-Ego – helps us to master our drives (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Lacan's Answer to Alienation、2019)


◼️超自我=タナトス
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)


◼️母の名=最初の父の諸名
ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)


◼️母の名=原リアルの名・原穴の名
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)


◼️穴=原抑圧
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



◼️女という神
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)


◼️S(Ⱥ) =神の別の名
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)



◼️S(Ⱥ)とLȺ femme
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« LȺ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)



◼️S(Ⱥ)と身体の出来事
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


◼️サントームS(Ⱥ)=欲動の固着
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)


◼️サントーム=S2なきS1
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)



◼️現実界かつ反復としてのサントーム
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームは「身体の出来事」として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l’outrepasse、2011)  
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)



◼️現実界=トラウマ
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


◼️固着による現実界の反復強迫
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


◼️サントーム=ひとりの女・他の身体の症状・穴(トラウマ)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
サントームは、「身体の出来事 un événement de corps」(AE569)、享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」「ひとりの女 une femme」でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant )
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)


◼️トラウマへの固着と反復強迫
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)


◼️リビドー固着による置き残し
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)


◼️リビドー固着の残滓=原始時代のドラゴン
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


◼️エスの核への置き残し
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)



◼️欲動蠢動の拘束の失敗≒トラウマ神経症
私は無意識におけるこの種の過程を、心的「一次過程 Primärvorgang」と命名した。それは、われわれの正常な覚醒時の生活にあてはまる「二次過程 Sekundärvorgang 」と区別するためである。

欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


◼️verlorene Objekt 喪われた対象
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


⋯⋯⋯⋯

※付記

■超自我=死の欲動
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


■原抑圧=固着=超自我=タナトス
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。

Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)
二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)


■原抑圧=エスと自我のあいだの境界表象

(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)


■原抑圧=固着:女というものを現実界に置き残すこと
フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real.  ](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her,(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


超自我と自我理想の区別

フロイトがはじめて超自我概念を提出した『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっており、超自我に触れるほとんどの「思想家たち」はいまだこの二つを等置しているが、よく読めば、超自我と自我理想の区別を『自我とエス』で既にしている。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的 allgemeine und nachhaltigeであるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における父との同一化である(註)Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit。(フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)

そして注にはこうある。

註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(同『自我とエス』)

結局、超自我とは、この『自我とエス』の文をどう読むかに関わるのである。





この両親との同一化としての超自我は、ドゥルーズのいう《制度的超自我 le surmoi institutionnel》(『マゾッホとサド』第11章、1967年)でも、中井久夫のいう《社会的規範を代表する「超自我」》「母子の時間 父子の時間」2003年)でも、柄谷行人のいう《憲法第九条=超自我》(2016)でもまったくない。この誤謬は現在に至るまでの不幸な誤謬ーーある意味最悪の誤謬ーーである。20世紀後半、1972年以降、アンチエディプスーーエディプスの背後ーーには自由があるなどという実にはしたない誤謬がインテリ界隈では通念となってしまったのだから。

ここで誤解のないように断っておかねばならないのは、蚊居肢散人は安吾派だということである。

編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」1947年)


さて話を戻せば、超自我=自我理想というのが破廉恥な誤謬であるという事実を理解するためには、『自我とエス』だけではなく後年の記述で補う必要はある。

フロイトは1930年に次のように言っている。

幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)

“indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt”とあるが、前後数箇所に“Introjektion ins Über-Ich”とあり、簡潔に言えば「超自我への取り入れ Introjektion」である。

1938年にはさらにこうもある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』1938年)

母と父のどちらが最初に個人の行動を監督するのか。母に決まっているのである。それは歴史的太古の時代と同様である。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

こうして若きラカン、『モーセ』が書かれた同時期のラカンはこう言うことになる。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

1938年のラカンがフロイト1937年の文を読んで「太古」という語を使ったのかどうかは知るところではない。

私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

そしてフロイトの死の枕元にあったとされる草稿にはこうある。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

「自己破壊」とは、死の欲動のことである。

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

フロイトが示しているのは三層構造である。



死の欲動の箇所をエスと置き換えてもよい。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。

… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


超自我とは死の欲動という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


すなわち超自我はエスのエージェントである。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


エスのエージェントとは、死の欲動のエージェントということである。

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)

タマネギと自我」で示したように、超自我とはリビドー固着の別の名でもある。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


リビドー固着には原始時代のドラゴンの残滓が常にあるのである。同時期の最晩年のフロイトは次のように繰り返し強調している。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


したがって超自我は、エスの声の猥褻な命令をするのである。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)

とくに《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)ーー、この父の蒸発後のわれわれの時代、われわれの《禁止の禁止[l'interdit d'interdire]》の時代、超寛容社会においては、ことさらこの内なる命令の声があなたのなかに響き渡っている筈である。よほど不感症でなければ。よほどファルスの覆いが厚くなければ。

重要なのはエディプスの斜陽の時代だからこそ、この超自我が裸のまま露顕することである。

エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

この一文はドゥルーズ&ガタリの『アンチオイディプス』における主張を一瞬で蹴散らかす。 あるいは「家父長制打倒=自由」などというフェミニストたちの主張が児戯に類するものであることが一瞬で瞭然とする。

正しいのは真のニーチェ主義者であり真のフロイト主義者である真のフェミニスト、カミール ・パーリアーー米ポリコレフェミ文化内部におけるバクダン女ーーの見解である。

文明が女の手に残されたままだったなら、われわれはまだ掘っ立て小屋に住んでいただろう。(カーミル・パーリア camille paglia『性のペルソナ Sexual Persona』1990年)
・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。

・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(カミール ・パーリア、Vamps & Tramps、2011年)

母の名 Le Nom de Mère


エディプスの背後には母がいる。母なる超自我がある。

家父長制と男根中心主義は、原初の全能の母権システムの青白い反影にすぎない。 (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、孤独の時代における愛 Love in a Time of Loneliness、1998)

これはなにも母と父自体の問題ではない。一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な未熟児として生れ、かつまた本能の壊れた動物、身体から湧き起こる欲動の内的カオスを自らでは飼い馴らせないヒト族における発達段階的必然だということである。「原初に母ありき」である。古代ローマの至言、《母は確かであり、父は常に不確かである mater certissima, pater semper incertus》である。

オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

ーー笑っている蜘蛛や虫は享楽の母にたちまち捻り潰される。あるいは、

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

もっともわたくしは分裂病や自閉症的あり方の優れた相を否定するものでは全くない。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

ファルス秩序(言語秩序)からの退行症状である原ナルシシズムにはこういった相があるのである。

ナルシシズム精神神経症 narzißtischen Psychoneurosen、つまり精神分裂病 Schizophrenien(フロイト『欲動とその運命』1915年)
ナルシシズム的とは、ブロイアーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1915年)

とはいえ(基本的には)分裂病的笑いS(Ⱥ)とは身体から湧き起こる内的カオスȺの青白い反映にすぎない。

なぜならȺとは去勢 (-φ) のことであり、かつまた享楽の喪失(-J)のことでもあるから。
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)






享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)


仮に父の名が享楽の命令をすることがあっても、その声とは底部にある母なる超自我に支えられている。

母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)



超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)

気まぐれの母とは、子供を子宮のなかに九ヵ月も閉じこめておいたくせに、産んだあとは、言ったり来たりする母ということである。

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)


このため人はみな次の状況に陥る。

母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungen をもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

ここにある《喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts》がラカンの対象aの起源である。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


話を戻せば、母なる声とは原穴の声、原トラウマの声である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


ここでトラウマというのは、原初の母との身体的経験(身体の上への刻印=リビドー固着)は、外傷神経症的なものだということでもある。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能(死の欲動)」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

ラカンは戦争神経症のような事故的トラウマではなく、発達段階における必然としての構造的トラウマを「身体の出来事=サントーム」と呼んだ。

症状(原症状・サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


これは身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに居残り、外傷神経症のように反復強迫を生むという意味である。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
・フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。

・サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (ミレール MILLER、L'Être et l'Un, 2011))


サントームとはリビドーの固着のことである。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)


フロイトはこのサントーム(原症状)を「トラウマへの固着」とも呼んだ。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

心的装置に翻訳されずそれが外傷神経症と相似形の症状となるとは、フロイトは初期からくり返しているが、ここでは快原理の彼岸から引用しておこう。

私は無意識におけるこの種の過程を、心的「一次過程 Primärvorgang」と命名した。それは、われわれの正常な覚醒時の生活にあてはまる「二次過程 Sekundärvorgang 」と区別するためである。

欲動蠢動(欲動興奮Triebregungen)は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

ようするにーー「焼酎図書の無知集団」で既に記したことだが、

サントームは死の欲動の別の名である。
・サントームは外傷神経症の別の名である。



ところでミレールは次の図を提示している。




NPとは父の名、DMとは母の欲望であり、上でみたように母なる超自我である。そして有限の快原理の彼岸にあるのは無限の享楽である。この有限/無限とは、欠如の名/穴の名という意味でもある。→「欠如の名と穴の名(Nom-du-Manque et Nom-du-Trou)」。


神の死(父なる神の死)を宣言したニーチェは、母なる超自我の声のことをよく知っていた。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

人は、神の死の後こそ、母なる女主人の「内なる声」(内なる命令 intime impératif、E684)の囚われの身となる。

無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis》

これは明らかにナイーヴである。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる si Dieu n'existe pas, alors rien n'est plus permis du tout.》ことを。神経症者は毎日、われわれにこれを実証しているLes névrosés nous le démontrent tous les jours.。(ラカン、S2、16 Février 1955)

⋯⋯⋯⋯


最後に補足的につけ加えておけば、そもそも超自我は、原大他者の取り入れ Introjektionによって生まれるのだから、フロイトのいう母なる原誘惑者 ersten Verführerinが原超自我でないわけがないのである。

それがラカンが次のように言っている意味である。

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)


上に長々と引用したが、超自我の定義を把握していれば、これは当然のことである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ーー中段にて原ナルシシズムに触れたが、ここに「原ナルシシズム的リビドー備給」とあることに注意しよう。原ナルシシズムと本源的には、喪われた母へのリビドー備給なのである。原初、自分の身体だったものが去勢されてしまうことーー《一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war》(フロイト、1923) 。その去勢された身体への愛が原ナルシシズムである。すなわち原ナルシシズムとは事実上、原母からの分離とそれを取り戻そうとする運動にかかわるのである。

中期フロイトは次のように言った。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

だがこれは(くり返せば)最晩年のフロイトの観点からは原母を取り戻そうとする運動なのである。ラカンは「自閉症的享楽 jouissance autiste」と「原ナルシシズムnarcissisme primaire」を等置している(参照)。とすれば自閉症的享楽の根にあるものは何か? もう繰り返さない。

安吾は薬物中毒で自閉症的享楽の近似症状を得た。

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代『クラクラ日記』)


自閉症的享楽とは、サントーム(=リビドー固着)の自動反復のことでもある。

反復的享楽 La jouissance répétitive、…ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…それはただ…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



話を戻せば、母なる原誘惑者による身体の上への刻印(固着)は、自我理想でも理想自我でもない。つまり象徴的同一化、想像的同一化にかかわるものでもない(参照)。 であるあるならば現実界的同一化の水準にある超自我でしかないのである。






そして蚊居肢散人の頭においては次のことは当然の帰結である。

・サントームは超自我の別の名である。
・原抑圧は超自我の別の名である。
・リビドー固着は超自我の別の名である。
・女というものは超自我の別の名である。


ーーなぜ世界的にも誰も言っていないのか?

ラカン派というのはよほど遠慮深いのか、
もしそうでなかったら阿呆の集まりのせいであろう・・・

蚊居肢定式を、仏語で重ねて強調しておこう。

Le sinthome est un autre nom de Surmoi
Urverdrängung est un autre nom de Über-Ich
Libidofixierung est un autre nom de Über-Ich
LȺ femme est un autre nom de Surmoi



タナトスは超自我の別の名である Thanatos est un autre nom de Surmoi」、とは上に引用したように、ミレール派ナンバースリーの Pierre Gilles Guéguen に先をこされてしまって蚊居肢子は忸怩たる思いである・・・

とはいえ彼はまだ次のようには言っていない。

・サントームは死の欲動の別の名である。
Le sinthome est un autre nom de Thanatos

・サントームは外傷神経症の別の名である。
Le sinthome est un autre nom du névrose traumatique


ーーええっと、前置詞はこれでいいのかな、ま、細かいことはどうでもよろしい。


日本ラカン派社交界のみさなんにおいては、この結論に至るまで、おそらくあと30年ほどかかることであろう。彼らは互いに湿った眼差しを交わし合い、ウンウン頷き合ったり重箱の隅的批判をし合っているだけなのだから。もっとも彼らは安吾派としての蚊居肢子にとってヤッツケる相手ではないので、固有名を出すのはほとんど常に差し控えている。

ときにどうしても連中の悪臭に耐えられなくなるときカタカナで表示するだけである。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)


そもそも彼らは構造的に問い詰める力能をもっていない。この力能をもつ前提条件は、観客に背を向けること、読者に背を向けることである。

学生や読者の眼差しに向けてばかり語っている学者たちが精神の中流階級でしかない理由はここにある。

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)

これはラカンが大学人の言説にて形式化していることでもある。





もっともこの大学人の言説とは教育機関としての「大学」だけに限らない。公衆の眼差しに向けた言説はすべてこの構造にある。ようするに「公衆からの酒手」派の言説はすべて同様である。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)


観客相手のエネルギーの費消派はみな問い詰める力能を犠牲にしている。蚊居肢定式はーーGuéguenを含めて七つの定式はーー、次の七つの文章群の意味合いを十全に把握していれば、七分ほどで瞭然となる話なのである。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(⋯⋯)

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)